回想―トウカ―

「おや、見かけない顔じゃな。お前さん、どこから来なさった?」

 生じたのは海のそばにある、あとは緩やかに死ぬだけの、小さな村だった。

 村人の糊口を凌ぐので精一杯のその場所で、名前のない魔物は、拾ってくれた老人と共に、静かに暮らしていた。

 己の性を意識したのは、世話になっていた老人が、予知通りに死んだのを見た時だった。

 しかし、その時はまだ状況を理解したに過ぎない。それ以上は、何も思わなかった。

 行き場のなかった魔物は、老人が死んでからも、その村で暮らすこととなる。

 そこで魔物は、生存するために、生物として当然の選択として、自分を生かす共同体に、己の性を以て報いた。

 死を告げられた人物が、逃れようとしながらも、やはりその魔物が予言した通りに死んだのを見た頃から、その村に流れていた空気が変わり始めた。

 小屋に閉じ込められた。餓死するかという頃に、扉が開いて、村人が入って来た。今まで見たこともないような綺麗なおべべを着せられて、日に三度の食事を与えられるようになった。

 代わりに、見知らぬ人がやって来て、その人の予知を望まれた。最初は七日に一人程度、だんだんと数が増え、多い時は日に五人。その結果は、当人ではなく、村人に伝えるように言われた。

 見知らぬ人々は、自分を見ると手を合わせた。それが何を意味するかは薄々分かっていたが、まだ、何も思わなかった。

 ただ、小屋に人が出入りする度に、空気が少しずつ澱んでいくようだった。毎日掃除されているのに。

 そんな時、板張りの床の隙間から黒い粉が染み出して来て、妙に胡散臭い声がした。

「悪の気配がして立ち寄ってみたんだが、君は何故こんな場所にいるんだい?」

 とうとう空気の淀みが喋り出したのかと、さすがに驚いたが、そうではないらしい。その魔物は事情を聞くと、小屋を出て行き、数日経つとまた訪ねて来た。

「こんな場所にいたら気が滅入るだろう。外に連れて行ってあげる」

 不可思議な真っ黒の空間を抜けて、久しぶりに海を見た。朝焼けを吸い込むと、己の身体が透明になって、消えてしまいそうに思えた。

 その逢瀬は村人には秘密で続き、何度目かで、二人とも名前を持たないと知って、お互いに名前をつけた。

 その時から二人は、未来を見る魔物トウカと、黒い魔物メル。

 名を得たことで、トウカは自分を発見した。

 自分を育てた老人が死んだことを思い出して寂しくなった。外へ連れ出してくれるメルを、心待ちにするようになった。小屋に閉じ込められるのに、少しの時間だって耐えられなくなった。裕福になっていく村に、疑念を抱いた。

 自分の性が疎ましくなった。

 それでも、それが人のためになっていたなら、良かった。

 メルからの告げ口で、そうではないことを知った。

「良い未来は、さも自分たちのお陰で変わったかのように、悪い未来は信心が足りなかったと言って。感心することもあるよ」

「そう……」

 予言を直接伝えさせるのではなく、わざわざ村人を介していたのは、そういう仕掛けを仕込むためだったらしい。

 それでも、自分を養ってくれた信頼があった。悪い未来は変えてもらえないかと思い、村人に頼んでみた。村人の返事はぞんざいだった。

 何故だろう、と考えて、そもそも小屋に閉じ込められる前だって、未来が変わったことは一度もなかったと気がついた。

 自分が見る未来は、変えられないのかも知れない。

 絶望の気配を感じながらも、その頃はまだ、希望を持っているふりをしていた。方法はあるのに、村人たちが何もしていないだけだと。

 トウカは村の有り様を憂いていたが、メルの関心は別のところにあった。

「中々現れないなぁ」

 メルは「真の悪」を探しているらしい。この村には、その芽のような気配があるのだと言う。 

「村人は違うのか」

「残念ながら、違うのだろうね。村人の多くにとって、これは必死の生存競争だから」

「では、儂は?」

 メルはあっさりと答えた。

「実のところ、この村にいる人の中では、一番近いところにいると思っているよ」

「そうか。もっと近づくことも出来るのか?」

「真の悪になりたいのかい?」

 うなずいた。

「一度くらい、人の役に立ちたい」

 数日後、メルはトウカを小屋の外に連れ出すと、いつもは行かない、村の中心へと向かった。

 当然気がついた村人たちがトウカを止めようと向かって来るが、何もないところで足を引っかけて転んだり、野外に放ってあった漁の道具などが飛んで来て怪我をしたりして、一向にトウカの所まで辿り着くことが出来ない。

 駆けつけて、皆を助け起こしたいと思ったけれど、身体は己の意志では動かない。

 何に遮られることもなく、トウカは歩いていく。

 それは村を出て行く道だった。

 このまま村の外に出るのかと気づき、身が震えた。その感情は分からない。

 だが、村境で突然、自分の体は反転した。

 眼前には、己すら分からなかったトウカを拾い、養った村がある。追いかけてきた村人たちの、呆然と、縋るような目がある。

「このまま村を出たら、どうなるか、トウカには見えるかい?」

 言葉と共に体から何かが離れていき、自由になる。しかし、トウカはすぐには動けない。

 足は重りのように、視界は光が乱反射する水面のように。

 見知った人々が死んでいく。一年、二年、長くても三年。殺害、飢餓、自殺。少しずつ背景の村はみすぼらしくなっていく。それは白昼夢ではなく、確かな未来。

「彼の人らは生存競争において敗北を迎える。もう君なしに命を続ける力は残されておらず、苛烈な糾弾に耐え得る身体はない」

 背後から聞こえる声は、見るまでもないと嗤うようだ。

「けれど、君がいれば、その時間は延びる。そしてその先、今いる人々が定められた時間を使い切った後でも、新たな人を迎えて、村は生き続けるだろう」

 黒い魔物が語るのは、有り得るかも知れない未来。

 ──有り得たかも知れない未来。

 既にその未来は、架空である。

「……この村を出るのであれば、微力ながら助けとなるよ。トウカのことは好きだからね。だが、もし出ないのであれば、そろそろ頃合いだ。私はこのまま旅に戻るとしよう」

 村人を見捨てて、自分一人の自由を求めて村を出るか。

 己の自由を諦めて、村に奉仕する装置となるか。

 自分の中に渦巻いた感情をただ見た。恨みと鬱屈、愛着と郷愁が、はっきりとした輪郭を持って立ち現れて来る。少しだって嘘はない。全て同じ大きさの、本物である。

 しかし、迷わなかった。

 ──迷えなかった。

 微かに持っていた、未来を変えられないのは単なる怠惰ではないか、自分なら──という自信が、無惨に打ち砕かれる。

 一歩が、どうしようもなく、重い。

 未来を変えられるなど、思い上がりだった。たった一歩踏み出すだけで変えられるはずの未来が、変えられない。目前の暗闇と、背後の光輝は、比べようもない。

「自分を善人だと思っていたかい?」

 耳を塞ぐ。嵐の海のような、轟々という血潮の音がする。しかし、声はさらに明瞭に、脳に響くように聞こえる。

「君を生かした世界を滅ぼす気分はどう?」

 答えられない。

「罪を背負って生きていこう」

 視線の先の、村人の口が動く。

 声は聞こえなかったけれど「かみさま」と言うのが、分かった。

 それが助けるのは人間だけ。

 助けを乞える相手がいて、人間は良いなぁと、恨んだ。

 瞬間、足が退いた。

 一歩、二歩。あんなに重かった足は、軽く動く。離れた分だけ、村が遠ざかる。

 背を向けた。駆け出した。

 笑い声と恨み声が追いかけて来て、追い越していく。道の先、その先まで、ずっと消えない亡霊たち。

「あぁ、ああぁぁぁあぁぁ!!!」

 しかし、この未来しか、選べない。

 それからメルの助けを得ながらの、放浪が始まった。望んで放浪した訳ではない。街に入り、魔術を知られて嫌われて、街を出る。その繰り返しだった。

 魔術を明かすことは面倒しか呼ばないと分かっていたが、いつも未練が、余計な足掻きをさせた。悪い未来を見たら、黙ってはいられなかった。変えられたことは一度もなかったけれど。

 だんだんと生者の中にいるのが億劫になって、死体漁りや死体処理をして、食い扶持を得るようになった。それでも、どこからか噂が波のように届いて、その街に居られなくなる。

 何度目かで、光の街に辿り着く。

 メルと二人きり、死体漁りの夜だった。

 ふと、久しぶりに穏やかな気分になって、思い出して尋ねた。

「儂は真の悪とやらになれたか?」

 メルは曖昧な人型を取って、首を振った。役に立てなかったかと残念に思ったが、メルは酷く申し訳無さそうに言った。

「……トウカは悪くない。私のせいだ」

 メルが落ち込むのは珍しい。死体の懐から出て来た紙切れを広げてちらっと見て、何かに使えるかもとずた袋に突っ込みながら、トウカはさして気にしていないように答える。

「そうか。残念じゃったな」

 自分にとっても、メルにとっても。

 軽くため息を吐いて、今夜は少し良い物を食べようかと提案しようとした時、視界に星が瞬いた。未来予知の前兆。

 慣れたものだが、恐怖を抱く。

「だけどね、トウカ──」

 視界の中にいるのは、メルだけだ。

 現在が、星の向こうに遠ざかる。

 五年後。

 街が赤赤と光っている。

 蛇の舌のような炎の先端が、立ち並ぶ建物を舐め尽くす。

 逃げ惑う人型は、あえなく喰われて餌となる。

 轟々と音鳴る程の火炎。

 真っ黒な煤が舞う。

 ──煤ではない。

 街全体を覆うように広がっていく、それは、よく見知った人。

 メルが広がる程に、炎は火勢を増していく。まるでメルが火をつけているように、あちこちで燃え上がる。

 聞き慣れた笑い声が聞こえた。

 それを五回見た。街並みだけが違って、あとは同じだった。

 気付けばしんと静まり返る暗闇。

「トウカ? おーい。聞いてるかい」

 メルからの呼びかけが聞こえて、やっと現在に戻って来たのだと分かった。

 一度だけ返事をして、勘繰られる前に口を閉じた。見た光景が頭から離れない。

 何が起きていた。

 あの街は何故燃えていた。

 人は何故死んでいた。

 何故メルがいた。

 メルが──燃やすのか。

 聞きたいけれど、聞けない。何も知らなかったら聞いても意味がないし、もし心当たりがあったら、その時点でこの生活は終わってしまう。それにほとんど無意識のこととは言え、メルの未来を見てしまった罪悪感で、口が重たい。

 薄氷がパキパキと壊れるように、心が割れていく。

 見捨てるのか。見捨てるのか。見捨てるのか。

 知ったことか。知ったことか。知ったことか。

 誰か。

「トウカ。今夜は月が綺麗だよ」

 顔を上げるとメルがいて、月を半分隠していた。

「──馬鹿者。お前のせいで見えんわ」

「おや、失敬」

 笑うと、閉塞した思考に風が吹き込んだ。それで思い至る。

 メルはどうなるのだろう。

 どういう経緯で、あの光景に至るのかは分からない。ただ、どんな経緯であれ、あの行為が許されるはずはない。罪に問われるだろう。

 だが、きっとメル自身は罪を気にせず、罰からは容易に逃げ果せる。元々社会を必要とせず、必要とされない者だ。だから、何の問題もない。

 そう思うのに、苦しくなる。

 これまでに、後ろ暗いことをすることもあった。それもまた嫌なことではあったが、生存のためには仕方がないと諦めがついた。そもそもメルは善人でもなく、葛藤なく他者を陥れられる人である。多少何か悪いことをしたところで、今更だ。

 けれど、死は全く別物だと、やはり思う。死は、一つの時間の断絶である。最初から存在しないものだとしても、その空白は、崖の淵から下を見るように恐ろしい。それを望まぬ他者にもたらすのは、おぞましい悪だ。

 メルに誰かを殺してほしくはない。

 けれど、未来を変えようと決意出来る程の希望は、もうトウカの中にはなかった。自分はどうしようもなく無力だ。変えたいけれど、と諦め混じりに思うだけ。願う先すらもなく。

 それなら、メルの味方でいようと思った。

 恩もある。メルにとっては、単なる気まぐれや、目的のための企みだったかも知れない。けれど、小屋から連れ出して海を見せてくれたこと、名前を与えてくれたこと、村を出る手助けをしてくれたことは、トウカにとって救いだった。

 けれど、それ以上に、メルを親しく思う。恩などなくても、その親しさだけで、メルの味方をする理由になる。

「本当に、綺麗な月じゃ。気分が良いし、今夜の飯は少し豪勢にするか」

「それは良いね。何にしようか」

 何を食べたいか言いながら、帰途に着いた。

 ただ、そんな他愛ない会話をしていると、やはり、思ってしまう。

 ──あんなことにならなかったら、やっぱりそれが一番いい。

 この時諦め悪く頭にかすめた願いは、後に、ずた袋に入れた紙切れ──魔術研究院附属第一学舎学長による講演会の知らせに気付き、その講演会を聞いたことで再び浮上する。

 以来トウカは、メルを助けるために、己の宿業と戦うことになる。

 最悪未来が変えられなくても、その日までメルだけは守るため、誰にも自分の見た未来を知られることがないように、たった一人で。

 学舎を訪れた時点で、運命の日まで、残り四年。

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