作戦目標未来革命

衝動との対決

嫌悪

 柔らかな絨毯を踏む。暗闇の向こう側から、ニコが作業をする音が聞こえて来る。

 思い出して筒型灯を点灯する。灯りは、トウカの足元を照らした。

「話が終わったら、灯りを天井に向けますから。それまで聞かないでください。もし聞いたら、俺は絶対に頼みを引き受けません」

「そこまで言われなくとも、内緒話を聞くような不粋はしないさ。では、また後でね、トウカ」

「……うん」

 足音もないから、遠ざかったのか分からなかったが、一応、メルの言葉を信じることにした。信用し切れない胡散臭さは漂っていても、トウカを心配する気持ちだけは、本当のように思えていた。絶対に頼みを引き受けないとまで言われたら、盗み聞きはしないだろう。

 二人きりになり、冒しがたい沈黙が降りる。

 灯りに照らされた靴を見ながら、問いかけた。

「自分から話す気はありませんか?」

 答えはない。顔が見えないと、どう思っているのかまるで分からない。

 だが、トウカが慎重になるのも、無理はない。

 このまま未来を変えることが出来なければ、メルはいつか、人に害を及ぼす存在となる。

 短絡的な者がそれを知ったら、メルを今の内に封じ込めてしまおうと考える。思慮深い者であっても、メルの行動を制限しようと考えるだろう。

 また、未来が変えられずに、その未来が訪れてしまった時には、メルはまず間違いなく、何らかの罪に問われる。

 トウカはどれも嫌だった。だから、自分の見た未来を誰にも明かせないまま、一人で悩んでいた。

 いっそ、未来を変えられなくても、メルさえ無事ならいいとすら、思っていたかも知れない。

 しばらく待ったが、トウカは口を開こうとはしなかった。

 トウカは当然、ユウケイがトウカの見た夢を知っていることを知らない。致命的なことを言われる前に遮ったはいいものの、どこまで察しているのかと警戒して、余計なことを言わないようにと考えているのかも知れない。

 ユウケイも、夢の通りのことが起こるのだとは思っていない。しかし、この反応を見て、夢に近いことが起きるのだと、半ば確信している。

 その考えを元に、トウカが危惧しているように強引に進めることも出来たが、出来る限りユウケイはそうしたくはなかった。

 空気に気を払いながら、言葉を重ねる。

「トウカさんが危惧なさってるようなことはしないと、約束しますよ。……そもそも、それ聞いたからって、すぐにどうこうしようってんじゃないですし。まずは、トウカさんの未来予知の検証をしないと」

 自身が使う魔術について、魔術を使ったことによって起きる結果は知っていても、その魔術が発動する過程まで知っている魔物は、案外に少ない。研究してみると、思いもよらぬ条件や効果があることも、珍しくはない。

 トウカの予知した未来は変えられないという判断も、どうせ大した検証もなく、経験則だけで行われたに違いない。調べてみたら、「未来予知ではなかった」という可能性だって有り得るのが、魔術だ。

「予知の高い実現性が確認されたとしても。それに従って強引に事を進めるようなやり方はしません。メルさんはもちろん、トウカさんにも、重圧がかかり過ぎるから。特にここでは、魔術研究院では、魔物に過度な負担をかけるようなことは、絶対に許されない」

 トウカは口を開かない。

「……あぁ、いや……そうですね」

 きっと、理屈で説得しようとしても、今のトウカは信じない。信じていいと思える程に、この世界は、トウカに優しくなかった。

 しかし、それでも、寄る辺は存在した。信じられる人はいた。

 舌で唇を舐める。

「トウカさんの気持ちは、少し分かりますよ。俺、一番の親友に殺されかけたことがあるんですけど」

「え」

 意表を突くことで口を開かせることに成功した。たった一音であっても、反応があると安心出来る。

「そいつがどうなったのかは、今はもう分かりません。でも、もしそいつが俺を殺しかけたことで、裁きを受けるのなら、俺は止めます。手段が悪い、とか。俺だけの問題ではない、とか。そいつのためにならない、とか。言われたとしても」

 脳裏に浮かぶのは、夕方の駅。

 しかし、それは、殺された日の夕日ではない。その日までの、何てことない日々に、彼女と一緒に見た夕日。

 ひねくれ者の奥本悠は、表には出さなかったし、内心でも認めることはなかったけれど、それは確かに楽しい日々だった。殺されたとしても、陰ることはない。

「そいつはかけがえのない友達で、何を引き換えにしても、幸せでいてほしい人ですから」

「……」

「たぶん、トウカさんにとってのメルさんも、そういう存在なんでしょう? そいつのことを庇うのは、その頃の俺には出来ませんでしたが……だからこそ、メルさんのことは、その親友みたいに、大切にします」

「……ふん」

 返事があるのは喜ばしいことではあったが、まだ空気は重い。

「幸い今の俺には、出来ることも多いですし。きっと助けになれるはずです」

 トウカの足が微かに動いた。

「もし、その友人がお前以外の者をも殺そうとしていても、お前はその人を守り切れるか」

 その言葉を皮切りに、抑え込んでいた感情が膨らむのを抑え切れないかのように、トウカは言い募る。

「お前が何と言おうと、やむを得ない事情があろうと、世間はそいつを追い立てる。何せ、それは「これから」起きることで、しかも、自分に火の粉がかかり得るんじゃからな。庇うお前も同罪となる。それでも庇い切れるか?」

 ユウケイが答える前に、トウカは「いや」と皮肉っぽく笑った。

「お前なら、出来ると言いそうじゃなあ……」

 少し、様子がおかしい。

「トウカさん?」

「もういい。無駄じゃ。黙るがいい」

 筒型灯の灯りの中から、足が逃げていく。

「お前は儂を、過大評価しておる。何を言われても、たとえ、未来を変えられて、メルを守ることが出来るのだとしても、儂はお前にだけは頼まん」

 その声は笑っている。

「お前が大嫌いだからな」

 さすがに言葉に窮した。トウカは「あはは」と声を上げて笑う。

「大嫌いなお前に頼むくらいなら、メルと一緒に、悪者になった方が良い。どうせ儂にはメルの他に大切なものはない。こんな不公平な世界、大嫌いじゃ。みんな死んでしまえ!」

「嘘はいらねぇんですわ」

 逃げた足を、筒型灯で追いかけて照らした。

「未来を変える方法を見つけるために、はるばる学舎まで来て、たった一人で、こんな暗い場所で調べていた人が、そんなこと思ってるはずねぇだろうが」

 トウカは口を噤んだ。

 直接その理由を聞いた訳ではないが、それしか考えられない。極力学舎で姿を隠しているのも、図書館にこもっているのも、メルの存在を隠しながら、自分の魔術について知るためだ。

 小さな舌打ちが聞こえる。

「……お前が嫌いだと言うのは、少しも嘘ではない。お前に頼むくらいなら、知らん奴らが死ぬ方がマシだと思うのも」

「でも、そうは出来ないでしょう」

 それだけ嫌われていたのかと驚きはするけれど、自分が良ければ他の人は死んでもいいと思うような人でないことには、確信が持てる。

 知識を得ることを楽しんで、美しいものを見て未知に思いを馳せる。

 そんな人が、見知らぬ人の死に何も思わないはずがない。

 トウカは微かに息を吐いた。

「……自分の無力さが嫌になる」

 絞められた喉から、辛うじて出しているような声だった。

「一人じゃ何も出来ない……」

 聞いている方が悲しくなる。ユウケイも身に覚えがある悔しさだけに、哀れを感じた。

「無力ではないでしょう。誰だって、一人じゃ出来ることに限りがあるってだけで。人の助けを借りるしかないんですよ」

「――だから、嫌いなんじゃ」

 震える声が、ユウケイを責めた。

「諦められないのであれば、お前のように助けを得られたら、どんなにいいかと思うたわ。――こう言えば、素直になれとか、つまらぬ意地を張るなとか言うのであろうな、どうせ。……分かっておるわ、そんなこと」

 震えながらも投げやりで、ユウケイを呆れさせようとするかのような、すねた態度だった。しかし、少しだって呆れたとは思わない。

「分かっておるが、人に助けを求めるのは、怖い。でも、メルを助けるためなら、それくらい乗り越えられるに決まっていると、思って……。だけど、それすらも出来ない。……愚か者と笑うがいい」

 それどころか、懐かしさを感じていた。

「いや……」

 自分がユウケイでしかなかったら、単純に呆れていたかも知れない。しかし、ユウケイの中には、前世の記憶がある。奥本悠という人の人生がある。

 自分の優秀さを鼻にかけて他人を見下していた奥本悠は、この世界に生まれ直して、数多の魔物と出会い、努力では覆せない能力の差を痛感した。

 しかし、それを本当の意味で認め、諦めるのには、少し時間がかかった。

 覆せないと分かっていても、悔しい。頼りたくない。称えたくない。ありがとうと言いたくない。そうした方が楽なのだと分かっていても、何かが自分を阻む。素直になりなよ、なんて簡単に言うけれど、それがどうしたって自分には難しい。

 奥本悠が共感している。

 トウカの感情が、腑に落ちる。

「笑えませんよ。分かるから」

「ハッ。お前のような者に分かるはずもない。お前は……友達が多くて、みんなに信頼されていて、きちんと生きていて、この場所で一番正しい奴だろうが。そんな奴に分かるものか」

「分かるんですって。……いやもう、分からないってことでもいいし、俺が嫌いでもいいから、一つだけ覚えておいてください」

 どんなに優しく救済の手を差し伸べられても、その手がユウケイのものである限り、トウカは、その手を払ってしまう。

 別の人に助けを求めようにも、トウカ自身にも御しきれない心によって、その言葉は喉の奥に沈んでしまう。

 だからと言って、人の死を見過ごすことも出来ずに、己の性を恨みながら、一人でもがく。

 それは確かに、傍から見れば、愚か者の所業に思えるのだろう。本人すらそう思い込んでしまうくらいだ。

 しかし、行動の全てが、思考の末に決まるのではない。必ずしも理に適った道筋が、その人にとって正しい訳ではない。

 例えば、分かりやすく解釈するのなら、トウカの場合、光の街で人々から受けた仕打ちがある。死の未来が待つ人を助けたいという思いと、自分を苛んだ人々がいる世界など滅んでしまえという気持ちは、両立し得る。

 だが、その矛盾した気持ちを、自分の中で上手く処理出来ずに、片方を存在しないものとしてしまう。

 あるいは、それがトウカという魔物の習性であるとも、信頼に足る相手がいないとも、単なる怠惰であるとも、全く関係のない、ユウケイには思いも寄らない感情があるのだとも考えられる。トウカ自身分かっていないのだから、それが明かされることはないだろう。

 しかし、理由がどうあれ、そう出来ないということに変わりはない。そしてその不明さは、けして悪ではない。善いことをする時に、一々理由を考えなくてもいいのと同じように。

「トウカさん。トウカさんは、愚か者ではないし――」

 怒られるだろうと思いはしたが、それでも、言いたくなった。

「悪い子でもない」

 トウカはいい子が過ぎる。人が死ぬのを見過ごすことを、悪いと思う悪者がどこにいる。

 ユウケイが出会って来た、根っからの悪党だと言われるような人物は、その行いの酷さに関わらず、自分が悪いとは露程も思っていなかった。彼の人らにとっては、それは善いことだったからだ。

 本当に誰もが眉をひそめるような、悪いことをする人は、自分で善悪を決めているものだ。

 そして、ユウケイも彼の人らと、そう遠くない場所にいる。

 この世で道徳と言われているものは、一人一人が自分に都合が良くなるように想像しているだけの仮想。大体嫌だと思うことなんて同じだから、何となく結果が共通しているだけ。前世の歴史で「道徳は便宜の異名である」と言った偉人がいた。これ以上なく端的に、事実を示している言葉だと思う。

 善悪は、自分のためにあるものだ。

 しかし、トウカは、それとは全く真逆。自分ではない誰かのためにある善悪に雁字搦めになって、自分を責めて、挙句の果てに、その善悪の中で、悪者になろうとしている。

 そんなことをしている時点で、もう悪者とは呼べないのに。

「……そうじゃ。言われなくても分かっておる。儂は、悪くない」

 予想に反して、トウカは怒らなかった。声はかなり沈んでいて、本当に言葉通りに思っているのではなさそうだったが、言葉でだけでも、自分を追い詰めるものを跳ね除けようとするくらいの自尊心は残っていると、ユウケイは安堵する。ちらと、メルのおかげかもと思った。

「えぇ。トウカさんは悪くないです。そして、メルさんも、光の街の人たちも、誰も悪くない」

「彼奴らもか。いや……うん」

 そう、とトウカは呟くように言った。

 やはり、苦しくなるくらいのいい子だ。

 まだ自分の中で感情を整理し切れている訳ではないだろうが、少し自身の感情に自覚を持って、自分を傷つけるための悪態は控えてほしい。

 こっそりとため息をついて、少し思考を戻す。目的はメルの頼み、トウカの研究だ。何とか研究対象になることを了承してもらえないかと説得してみたが、いくら良い条件を用意しようと、研究するのがユウケイである限り、トウカはうなずかないと分かった。

 諦めてもいいのだが、このトウカの追い詰められ様を見ると、メルの頼みであることを差し引いても、このままで放っておけない。

 だが、ユウケイ以外の研究者を新たに呼び寄せるのは、難しいだろう。まず見つかるか分からないし、信頼出来るか分からないし、トウカは恐らく拒絶するだろうし、メルが了承するか分からない。

 すると、トウカの研究が出来るのは、一人しかいない。

 どうするか、と漠然と上を見る。

 一応の考えはあるが、単純に言っても聞いてくれなさそうなのが問題だ。遠回しに誘導した方がいいのだろうが、一つ聞き損ねたことがある。これがかなり致命的な失敗で、二の足を踏んでいる主な原因である。

 考えていると、不意にユウケイの後方から、書斎に弱い光が広がった。運搬機の天井につけられていた灯りと同じ、夕日のような色の光だ。ニコが修理か改造でもしたのだろうか。

 微かにトウカの顔が浮かび上がっている。瑠璃のような目が、不思議そうにユウケイの背後を見ている。

「……それだけ分かってもらえれば、いいです」

 ぱちりと目が合った。

「トウカさんの研究は諦めるしかないですね。メルさんには悪ぃけど」

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