命の対価

「しかし、来てくれたって良いのにな。全く彼の人はつれない」

「よく言えますね……」

 学長に「行かない」と伝えることを頼まれた時、ユウケイは、学長が言っているのは、今日のこの会合のことだと直感した。あの学長が関係のないことの言伝てを頼むことはないだろうという、当然の勘である。

 行かない。どこにかと言えば、ヘルメスの書斎に決まっている。ヘルメスの書斎に入るための鍵は、司書長が持っている物の他にも存在している可能性がある。その一つを学長が持っていても、立場的に何ら不思議はない。

 あるいは、運搬機も鍵もなくても禁域に入ることが出来る方法を、知っているのかも知れない。そのくらいの秘密があっても、学長のことだと思えば、驚くに値しない。

 そして、もし学長が「予定通りに」ヘルメスの書斎に来ていたらと想像して、これは罠ではないかと思い至った。

 ヘルメスの書斎は、外部に知られたら非難殺到確定の、門外不出の禁忌事項だ。もし出入りしているのが見つかったら、最高に幸運だったとしても厳重注意、大体は口封じの上退学となる。そして悪ければ、何をされるか分からない。ちなみに研究院では、記憶の改変や消去の研究も行われている。

 その上、その場面を、よりにもよって学長に発見されたら、もう交渉の余地はない。

 それが偶然ならばともかく、その構図を意図的に作り出そうとしているのなら、それはもう罠でしかない。

 では、何故そんな罠を張ったのか。

 単純に考えれば、ユウケイを退学させるか、記憶操作をするためだ。記憶操作をされる心当たりはないでもないが、メルに関することで言えば、特に何もない。メルの存在すら、つい最近まで知らなかったのである。

「罠にかけるのは失敗したんだから、罠にかけようとした理由を教えてくれませんか。俺、そこまでされるようなことしました?」

「ん、怒っている?」

「そりゃそうでしょう。目的は俺の退学ですか、それとも記憶操作ですか」

「え? 記憶操作って何のこと? ここにはそんな魔術まであるの?」

「わくわくしないでください。絶対教えねぇ」

 残念そうに肩らしき部位を落としたが、追及はして来ない。

 やっとユウケイを罠にかけた理由が分かる。

「退学にだってさせないよ。ちゃんと学長君に見つかった後、執り成す予定だったさ。交換条件付きで。まあ、そっちが本命だね」

「交換条件?」

「命の恩だけじゃ、ちょっと心許なくてさ。でも、退学と天秤にかけて、行動を縛ってしまえば、さすがに聞いてくれるだろう?」

 意味を理解するのに時間がかかった。

 つまり、「恩」をよすがに頼み事をするのではなく、退学と引き換えの交換条件として命令することで、強制的に言うことを聞かせようとしたと言っている。

 学長がすぐにこの件から下りた理由も分かった。この作戦は学長とメルとの繋がりをユウケイが知っていた場合、機能しない。ユウケイが訪れたことで、学長はメルの作戦の失敗を悟ったのだ。

 理解はしたが、飲み込めない。

「何の意味が……」

「恩なんて、頼りないじゃないか。君なら聞いてくれるとは思うけれど、保険だよ」

 退学や記憶操作よりも、恐ろしく感じた。

「絶対じゃなきゃ困るんだ」

 すぐに頼み事の中身を聞くのは、思わず避けてしまった。

「……「協力者」と呼んだのは、便宜上のことでしたが、その頼み事は学長では駄目なんですか?」

「不安だね」

 メルは端的に答えた。学長は魔術研究院の創設者でもあり、ユウケイよりも余程社会的に認められている人物だ。金も権力もある。

 それでも不安だと言うのなら、メルの言う不安は物質的な不安ではない。

 ユウケイが知っている範囲で学長が二人にしたのは、学舎まで連れて来ることと、ヘルメスの書斎を教えたことくらいである。メルの失敗を知っても直接伝えず、ユウケイに伝言を託したことを鑑みると、密接な協力関係にあるようには思えない。

 だから、学長に頼むのに不安を感じることには納得した。しかし、だからと言って、ユウケイに頼む理由にはならない。

「それ、俺は安心出来るってことですか? ありがたくはありますけど、でも正直、俺はそんな……」

「いいや。君が思うよりも、君は善人だ」

 力強い断言に、つかの間言葉を失った。

「私はユウケイ君のことを高く買っている。この学舎で君よりも信用出来る人はいない。私の目には、君の姿は、一等星のように一際美しく輝いて見えるんだ」

「そこまで?」

 普通に予想外で照れたが、メルは思いのほか真面目にうなずいた。

「これは比喩ではなくてね、私はそういう魔物なんだ」

「……」

 思わぬところで出て来た情報に引っかかる。

 調査の段階で、トウカに関する情報は集まった。しかし、メルに関する情報は何も集まらなかった。実は今も、メルについては何も分かっていない。

 だが、先程からずっと心配そうな顔をしているもう一人も気にかかる。何を考えているかは、恐らく分かっている。あまり待たせると、また不安定になりそうだ。

「……メルさんの思いは分かりました。でも、それだけでは引き受けられません。まず聞かせてください。それから、俺に出来るかどうかも含めた上で、判断します」

「……分かった」

 そしてメルは、トウカに呼びかけた。

 この場面で自分に話が回ってくるとは思っていなかったようで、トウカは驚いたように目をしばたたく。

「何、メル」

 幾度となく呼んだ名前だろう。その響きは口によく馴染んでいて、自然な親しみがこめられていた。

 二人の関係はまだ分からない。

 けれど、きっと、トウカにとってメルは大切な人だ。

 夕食の提案をするかのような気軽さで、メルは言う。

「私はね、ユウケイ君に、君を研究してもらいたいんだ」

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