オンニ
どこか辿り着いたのかと思うが、覆いが外されない。指示があるまでは外には出ない方がいいだろうとじっとしていると、覆いの外から声が聞こえた。
「そこの君。この辺りでユウケイを見なかったか?」
司書長だ。速い、と息を飲む。まだ距離的には随分と離れていたはずだ。さすが、急角度の曲線や高低差のある坂道が続き、冒険野郎を死に追い込むという投身峠で、風神と呼ばれた元人間。心臓が胸を叩くが、ユウケイには何も出来ない。話しかけられた人物に願をかけて、息を潜める。
「見てねッ。ヒヒッ」
答えたのは、触れれば誰もが病に冒される、病魔のオンニの声である。
司書長に追いつかれる場所に、腹心の配置。シャラクの計画通りではあるのだろうが、胃が痛い。
「……だろうな。ところで、お前の後ろに見えるその荷物、誰が運んでいたかは知らないか?」
「誰かは知らねッけど、そっち歩ッて行ったのは見たかもな。見てねッかもな? さて、どッだったかなー」
司書長の声は底這うように低くなった。
「分かってんだろうな。業務妨害だぞ」
「何が? オレはただ立ってるだけだろが。つか本見てんだけど。悪い?」
普段からシャラクと一緒にいるだけあって、司書長相手であってもオンニは全く怯まない。
「こんな危ねッ体で生きてんのが罪つって言われりゃ、否定はしねッけどな。ヒヒッ」
「言う訳ねぇだろ。……ちょっとその後ろの台車に用があるだけだ。そこ、退いてくれねえか?」
覆いには穴は空いていないため、位置関係は分からない。だがこの口ぶりだと、ユウケイを載せた台車と司書長の間にオンニが立っているのだろう。本を見ているということは、本棚の間にでもいるのか。
「ンだよ、本見てるつったろ。生徒の邪魔すんの? 急ぎの用事? でもオレも忙しんだよ。小論前で正直くっちゃべってる暇もねッつか。そだ、アンタに聞きゃいいんじゃん。ね、ね、東方医術に関する本ってさ」
「お、おい」
「何だよ、近づくなって? ビビッてんの? 投身峠の風神とまで呼ばれた御方がさッ。やっぱり雷神もいねッと駄目かよ」
「テメェ……!」
心臓が縮む。司書長は直接手を触れなくても、風で攻撃が出来る。オンニの体質は特効にはなり切らない。もちろん、司書長は司書長であるという矜持に懸けて、取り返しのつかないことはしないだろうが、基本的に頭に血が上りやすい性質であることも確かだ。
それとも、司書長を挑発して手を出させて、あえて問題にするつもりか。口出しはしない約束だが、そこまで来ると気が咎める。
「ヒヒヒッ。やるか?」
覆いの中でもヒリつく空気を肌身に感じて、息を詰める。
ところが突然、「アガッ」と声がして、争いの気配が止んだ。
以降、司書長の声は聞こえなくなった。
「あー、ヤベ。怖ァッ」
「……怖かったんですか? かなり手慣れて聞こえましたよ」
たぶんもう大丈夫だろうと思って声をかける。オンニは舌打ちした。
「あッたりまえ。アレ本気出したら、オレみてッなヒョロガリ秒で木っ端だッつー。これはこれで悪くねッけど、飛び降りのが良かったぜ」
軽く台車を蹴られて苦笑する。
「飛び降りもかなり怖かったですけどね」
「ヒヒッ。分かってねぇな。怖ェのはいんだよ。大事なンは楽しさ」
外でぼそぼそと声が聞こえた。オンニは「りょ」と言って、また台車を蹴る。
「次やる時はテメェ、もっと楽しい役用意しろよ」
「善処します。また遊びましょう」
台車が再び動き出した。一番の障害を排除したからか、先程のように無茶な動きはしない。少しして台車が停まり、覆いが外された。
目の前には、ヘルメスの書斎へと繋がる、初期型運搬機の扉があった。
誰に言われなくてもするべきことは分かる。立ち上がって扉を開けようとしたが、立ちくらみ、軽くよろける。
しかし、扉の中からのびて来た手に引き込まれ、抱き留められた。
「ユウケイ。鍵はちゃんと持って来たな?」
意図的に塗り分けたかのような白黒の顔。
「シャラクさん……。色々言いたいことはありますが、とりあえず、鍵はこの通り、ここに」
鍵が取り上げられる。シャラクはそれを、運搬機の中にいるもう一人に手渡した。
シャラクの腕の中から抜け出しつつ、鍵を受け取る人物を見て、目をしばたたいた。
年季のいった仏頂面に、首から提げた厳つい魔眼鏡。直接会ったことはないが、一度だけその姿を紙面で見たことがあった。
「え、工作屋ニコさんだ!」
ニコは胡乱そうにちらと目を上げた。
「……何だァ? 会ったことあったか?」
「すみません、初対面です。ただ以前月刊魔道新報に載っていた記事を拝見して、以来。最近のだと複数属性対応回転式魔銃が超かっこよ……個人の可能性を広げる革新的な発明で感動しました。応援してます」
ニコは顔をしかめた。
「あー……そりゃどうも」
記事からうっすらと察していたが、騒がれるのは苦手そうだ。まさか協力してくれているとは、シャラクと知己だったとは、などと驚きたくはあったが堪え、声を抑えて問いかけた。
「それで、その鍵がそうなんですか?」
期待を込めて聞いたが、誰も答えない。
がたんと音を立てて、運搬機が動き始めた。操縦桿から手を離したシャラクは、腕を組んでニコを見やる。
小さな鍵を矯めつ眇めつしたニコは、何の盛り上がりもなくあっさりと、鍵穴に鍵を差し込もうとした。だが、上手く入らない。鍵の大きさが異なっている。
「期待してもらったとこ悪ぃが、ハズレだな」
「ハズレなんですか!?」
「大声を出すな」
てっきりこの鍵が、ヘルメスの書斎へと続く鍵なのだと思って、大事に持って来たのに。違うとなると、一体目当ての鍵はどこにあるのだろう。
そもそも、シャラクはどういう計画を立てて、どういう必然性があって最上階からユウケイをぶん投げさせたのか。
ともあれ少し気が抜けてため息を吐き、運搬機の床に座り込んだ。備え付けられていた安楽椅子と円卓は外してしまったようだが、大柄なシャラクや、恐らくニコが持ち込んだのであろう様々な工具があるせいで、大分狭苦しくなっている。
「鍵はあと十ある。ネリハスを落としたから、そう時間はかからない」
言っている傍から運搬機が止まり、少しして外から新たな鍵がもたらされる。鍵は鍵穴から弾かれて「これもハズレだな」とニコが言う。鍵を持って来た人員が、二つの鍵を受け取って戻って行った。
「総当りですか?」
「期間中、絞れるだけ絞り込んだ。それでもどこの鍵か分からなかったのが二十。秘密だらけだ、ここは」
「まあ、あの学長の建てた施設ですし、数の多さは仕方ありませんが……もっと簡単な方法があったでしょうに」
何故、大っぴらに司書長に追わせるような手段を取ったのかが、分からない。鍵束を盗まれたことに気付かせない方法や、司書長を遠ざけておく方法など、悪性研究會の会長として君臨する実力のあるシャラクならば、考えつかないはずがない。
「簡単、か」
じろりと睨まれた。
「ユウケイ。悪い遊びを楽しむのに、必要なものは何だと思う?」
唐突な問いに面食らったが、すぐに思い出した。「悪い遊び」は、悪性研究會を引っ張り出す時にユウケイ自身が口実として使った言葉だ。
しかし、それに何の関係があるのか、とはやっぱり思う。ただシャラクの威圧感を受けると中々口答えは出来ない。大人しく考えて、答えてみる。
「えー……友人とか、用意周到さとか。退路、言い訳」
「俺がそれを答えにすると思うか?」
悪い遊びを楽しむためには言い訳が必要だ、などと言うシャラクは見たくないし、想像がつかない。安心や安全とも言いかけていたが、これもシャラクの口から聞くには違和感のある言葉だ。口の中で留めて、別の言葉を探して少し頭をひねる。
つまり、シャラクが言いそうなことだ。そして恐らく、シャラクが鍵を得るために取った方法に関係がある。その方法とは、ユウケイのここまでの道程や、司書長との直接対決。
「絶叫? 恐怖?」
シャラクはうなずかなかったが、否定もしなかった。
「遊びであれば、面白さは簡単さより重要だ。そうだろう?」
冷ややかな視線を浴びて、「遊び」を口実としてしか使わなかったことへの嫌味であると、今やっと気がついた。
「……そうですね」
「俺たちを遊びに誘うのなら、一蓮托生の覚悟で来い」
シャラクはこの件を引き受ける時、面白くなさそうにしていた。報酬がないせいだと思っていたが、その時からシャラクは、ユウケイが「遊び」と言いながら、自分では本気で遊ぶつもりはないことに、苛立っていたのだろう。
「次はちゃんと遊びに誘います。今回はありがとう、楽しかった」
シャラクは笑った。
「それは何より」
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