本を開く

 ぼう、と淡く広がる筒型灯の黄色い灯りによって、文字が照らされている。

 文章の続く方向へ、灯りを移動させていく。

 蛇、怒り、洞窟。その本には頁の隅から隅までびっしりと墨で書き付けてあったが、トウカが読むことが出来たのは、その内のほんの少しの単語だけだった。全て何か意味のある線の連なりだというのは、紙面から漂って来る熱量から察せられるのだが、どうも様々な言語を織り交ぜて使っているようだ。あるいは、著者が独自に作り出した暗号かも知れない。

 ひとまず読める単語だけを追っていく。最終的に、この本には自分が求める知識は書かれていなさそうだと感じて、徒労感とともに本棚の元あった場所に戻した。その隣の本を手に取って、同じように分かる部分にだけ目を通す。

 きちんと読める物もあれば、こうして全く読めない物もある。読めたとしても、文章の意味が理解出来ない物も。頁を開くと宙に像が浮き上がる物、墨で図が描かれている物、走り書き、白紙だが魔力を感じる物。ここには色々な本がある。

 未来、時間、変化、運命。

 そんな単語が目に入った時だけ手を止めて、読める物は灯りで照らしながら、じっくりと読む。もしかしたら自分の求める知識が書かれているかも知れないと、諦め半分に思いながら。

「トウカ。そろそろ休んだらどうだい。学舎の方も、放課のようだよ」

 暗闇からの声に、「うむ」と一言答えて、手にしていた本を閉じた。本棚の一番上の段を筒型灯で照らし、隙間に本を戻そうと手をのばす。すると、横から人間の手のような形をした黒い塊がぬっと現れて、トウカの手から本を奪い取り、本棚にあっさりと収めてしまった。

 その黒い塊からは細かな粒子が漂っている。しかと目を凝らそうとしても、曖昧模糊として上手く焦点を合わせることの出来ない、奇妙な塊である。

「ありがとう、メル」

 闇に顔を向けて言うと、「ふ、ふ、ふ」と妖しい声がした。

「どういたしまして。……しかしトウカ、灯りをこちらへ向けないでくれるかね?」

「む。すまぬ」

「いいよ。それより夕飯はどうする? 食堂へ行くかい。それとも軽食を盗りに行こうか」

「今日はもう外へ出る気が起きん。備蓄はもうなかったか」

 暗闇を振り返る。そこにはいざという時にすぐ持ち出せるようにした備蓄があり、雨に打たれずに眠ることの出来る寝床があった。よく見るために筒型灯で照らそうとするも、手首を軽く押されて、光は何もない床を照らす。

「あるけれど、せっかくなら温かいご飯を食べようじゃないか。人のいる場所で賑やかに。うん、食堂へ行こう!」

 手首をつかまれて、そのまま強引にメルの世界に落とされた。

 先程までいた場所と同じく真っ黒だが、ただ黒いだけで、暗くはない世界。

「お節介じゃのう……」

 もういっそ夕食などいらないくらいに疲れているのだが、手を引かれるので歩いていくしかない。距離もあやふやな真っ黒の世界を歩いていると、より疲れが増すようだ。手首から伝わるメルの、熱いくらいに思える体温も絶妙に心地よい。空いている手で頬を軽く叩く。

「眠いし……」

「ずっと本を読んでいたものね。お疲れ様。何か分かったことはあったかい?」

 ただトウカを起こし続けるためだけの問いかけだ。特に興味はないのだろうと思いながら、つらつらと答える。今日主に読んでいたのは、ある旅人が各地の伝説を聞き書きしたものだった。製本すらされていない紙の束だったが読み応えがあり、目的とはあまり関係ない話が多かったにも関わらず、夢中になって読んでしまった。印象に残った話をいくつか話すも、メルは気のない相槌を打つばかり。

「扉は開けたよ。鍵を返して来るから、先に行っておいで」

 背中を押されて気配が消えた。歩いてはみるものの、上も下も分からなくなりそうなくらいに真っ黒である。扉を開けたと言われても、そもそもどこに扉があるのか分からないし、どちらに歩いて行けば先に行くことになるのかも分からない。

 しかし、恐らくメルの目には壁や道が見えているのだろう。

 魔物はそれぞれ、全く異なる現実認識を持っている。身体能力や使える魔術が全く異なるのだから当然だ。だから分かっているつもりで、本当の意味では、何も理解出来ていないかも知れない。

「ただいま。……どうしたんだい?」

「……魔物同士の意思伝達の困難さについて考えておった」

「ふぅむ。興味深い話だが、今考えるようなことかい?」

「そうじゃの。行くか」

「お腹が減ると、益体もないことを考えてしまうよねぇ」

 メルに手を引かれて歩いていくと、ふっと一瞬周囲が色づいて、また黒くなる。たまに立ち止まってメルが扉を開けるのを待つ。繰り返しているうちに頭上に、雨上がりの後の水たまりのような窓が増えて来た。あの窓は、人のそばに出来る物であるらしい。窓が増えれば、人が増えたということになる。

 夕食時の食堂ともなれば、頭上はほとんどの範囲が透ける。

 わざわざ混雑の中に飛び込みたくないとゴネて、メルに食事を取りに行かせる。待っている間にぼんやりと食堂を見上げていると、小憎たらしい知った顔が目に入った。

 顔立ちは人間の中でも並程度、とにかく凡庸で取るに足らない。しかし、表情には自然な自信が備わっているおかげか、何となく地味な感じはしない。不思議と、人込みの中でもすぐに見つけられる。

 そう言えば、まだ借りを返してもらっていない。

 これと言って叶えてもらいたい頼み事などないのだが、せっかくの機会だ。あの顔が困り果てて歪むところを見てみたい。

 しかし、今は難しい。まずメルが戻って来ないとトウカはこの空間から出られないし、ユウケイの向かいには、軽薄が服を着て歩いているような雰囲気の魔物がいて、ずっとユウケイに話しかけている。とてもあの場に割って入ることは出来ない。

 次に会った時、どういう無理難題を言おうか考えていると、不意に視界の端で、星が瞬き始めた。

 日が落ちて色彩の変わる空を早送りするように、視界が変化し、突然、停止する。

 十日後の同時刻。

 四人の女性型の魔物や人間が、人を取り囲み、唾を飛ばして責め立てている。中心にいるのはあの軽薄そうな魔物。軽薄そうな魔物が軽く手を振りながら口を開いた瞬間、一人の女性が涙を零しながら平手を打った。

 また、目まぐるしく視界が変化していく。真っ黒の視界。元の時間に戻って来た。

「……見た目通りの輩じゃのー」

 死ぬ程どうでもいい未来だ。あの人間がたんこぶ作って目を回している未来を見る方がまだ良い。

 呆れているうちにメルが膳を持って戻って来た。

 膳をトウカがつついている内に、ユウケイと軟派の二人は、連れ立って食堂を出て行った。二人の姿が完全に見えなくなってからメルに問いかけた。

「なぁメル。彼奴への貸しのこと、覚えてるか?」

「もちろん。せっかくの機会だからね、使わないのは損ってものさ。だから私はもう話をつけたよ」

「何!? いつの間に!」

「ふふふ。内緒。トウカも早く返してもらった方がいい。踏み倒されるかも知れない」

「な……」

 いつも一緒にいる相手が自分の知らない内に行動を起こしていることに、軽く衝撃を受けてしまう。

 しかし、冷静に考えてみれば、メルと一緒にいない時間は結構ある。先程のように使い走りをさせている時も、寄り道しようと思えば出来るだろう。さらに言えばトウカの睡眠時間など、あらためて考えてみると、何をしているのか全く分からない。漠然と眠っているのだろうと思っていたが、果たしてこの魔物は睡眠を取る物か。

 何となく裏切られたような気がして、むっとする。

「ずるい。何を頼んだか教えよ」

「秘密秘密。……口止めはしていないから、ユウケイ君に直接聞けば教えてくれるかも知れないけれど」

「なぁんで秘密なんじゃ。儂に知られたら困ることなんか」

「困りはしないけれど、少し恥ずかしくて。あまり私らしくない願い事だから」

「別に嗤わんぞ? ……いや、嗤うかも知れんけど……」

「嗤われるかどうかは関係ないよ」

 表情はないが、雰囲気からメルらしくもないはにかみ笑顔の気配を感じて、しつこく聞くのも躊躇われた。それに、問い詰めている内に、メルの願い事の内容が知りたいのではなく、隠し事をされているのが嫌なのだと気がついてしまって、恥ずかしくなった。

「じゃあ、儂も秘密にする」

 決まり悪さを吹き飛ばすように鼻を鳴らした。

「今度一人で出かける。儂がついて来るなと言う日はついて来るなよ」

「おや。大丈夫かい? ついて来るなと言われれば、もちろんついては行かないけれど……あらためて言われると、子離れのようで寂しいものだ」

「友と思うたことはあっても、親と思ったことはないわ」

 照れるメルを他所に、トウカは少し真剣に考え始める。

 メルが割と真面目に頼み事をしたらしいのを知って、ただ嫌がらせのためだけにこの機会を使うのは、もったいないような気がして来ていた。

 一つだけ、誰かに、教えてほしいことがある。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る