再び死にかける

 碧玉のように輝く青の瞳が、ユウケイを見下ろしていた。

 蜘蛛の糸のように細い白金ホワイトゴールドの髪が、さらさらと揺れている。

「ん? 何度見ても、ということは……もしかしてトウカ、この未来を見ていたのかい? 早く言ってくれたら良かったのに」

「言ったところで変わらんし」

「心構えくらいは出来たじゃないか。ユウケイ君の頭にたんこぶを作らずに済んだかも」

「生憎と、此奴の頭にたんこぶが出来るまでが「未来」じゃ。メルがどれだけ十全に準備してもたんこぶは出来るわ」

「何とまあ……」

「滑稽じゃろう? 今だけは此奴のこと、好きになれそうじゃ。今だけだけども」

 頭上の美人はユウケイに向かって、笑みを浮かべた。心底馬鹿にするような笑みである。

「間の抜けた顔じゃのう。死んだとでも思うたか?」

 死んでいないことを確信する。

 少し腹を立てつつ、頭上の顔を手のひらで押しやるようにして体を起こした。

 そして、何が来てもおかしくないと薄々覚悟はしていたのに、目の前に広がる光景に言葉を失った。

 黒。天も地も、黒い。

 その黒は夜闇とは違った。光が失われたことによって暗くなっているのではなく、元から黒いのだとユウケイは推測する。何故ならば、側に立つ人間の少女のような見た目をした人物が、はっきりと目に映っているからだ。光がなくて黒いのならば、この人物も見えなくなるはずである。

 普通の世界にはない光景だ。魔術によって操作されたどこかしらの空間かと思ったが、それにしては風景があまりにも異質である。もしかして、ここは「異界」ではないかと思って、ユウケイはぞっとした。

 異界とは魔法使いによって創られた、風力や重力など、ある特定の力が極端に強化された特異点のことである。この世には様々な種類の異界が存在しているが、全ての存在が知られている訳ではなく、未発見の異界は数多くあると言われている。

 だが、ユウケイがぞっとしたのは、異界だからではない。

 異界は珍しいが、けして未知の存在ではない。魔術研究院附属第一学舎も、通常よりも魔力が強い異界、「魔界」に建てられている。だから異界自体は怖くない。

 ユウケイがぞっとしたのは、この場所に、「知らない」異界があるという事実に対してだった。

 ここは魔術研究院に所属する研究者たちも使う食堂――すなわち、この世界で最も魔術に関して詳しい者が集う組織のお膝元。未発見の異界があるとは、考えにくい。

 聞いたことはないが、移動する異界か、あるいは──新創の異界。

 新創だとしたら、とんでもないことだ。

 創ったのはこの人物だろうかと、傍らに立つ人物を見上げる。

「……もっと慌てふためく様が見たかったんじゃがのう。無言とは。芸人魂に欠けとるな」

 とてもそうは見えない。

「トウカ。怪我人に絡むのはその辺にしておきなさい」

 もう一つ別の方向から声が聞こえて、ユウケイはそちらを向いた。妙に深みと色気のある低い声は、人間で言えば壮年の男性を思わせた。しかし、声のした辺りには黒が広がっているばかりだ。

「こんにちは。はじめまして、ユウケイ君。お噂はかねがね伺っているよ。あらためてこうして顔を合わせることが出来てとても光栄だ」

 相変わらず姿は見えないので、ユウケイにとっては顔を合わせるも何もないのだが、声はするので、一応軽く頭を下げておく。

 トウカと呼ばれた人物が呆れたように言った。

「メル。姿を取るのを忘れておるぞ」

「おや? 失敬」

 最初は何だか目がチラつくと思っただけだったが、気がつけば黒の中に、より濃度の高い黒の塊が出来上がっていた。同じ黒でも微妙に質感が異なるのか、朧げに犬のような形が見える。

「私はメルと言う。そちらの跳ねっ返りはトウカだ。二人共々、よろしく」

「勝手に儂を含むでないわ。よろしくなど、する気はないでの」

 どうも、と答えて、ふと我に返った。

「魔獣はどうなりました!?」

「おお? 急じゃの。落ち着け。後ろを見よ。……上じゃ、上」

 視線を上へ向けると、黒い天井にいくつもの穴が空いていた。地面の中から仰ぎ見るような奇妙な視点だったが、穴から見えるのは先程までユウケイがいたはずの食堂に違いなかった。音は聞こえないが、生徒たちも魔獣も見える。

 ざっと視線を走らせて、倒れている者がいないことを確かめた。瓦礫などによる死角が多く、全員の姿を見ることは出来なかったものの、誰かが致命的な怪我を負ったという絶望的な雰囲気はない。そもそも一体目の周辺は、ユウケイの記憶とあまり違いがなかった。やはり一体目の周辺は安全だったのだろう。二体目が器用に攻撃を避けたか、あるいは一体目の方に避ける術があったのかも知れない。

 だが、ユウケイがいたはずの辺りを見ながら、慌てた顔をしている者はいた。

 その様子から、ユウケイがこの異界に引っ張り込まれてから、そう時間は経っていないことが分かる。

 そう、引っ張り込まれたのだ、と足首を見下ろした。

 記憶を少し戻す。

 二体目が食堂全体に音波を放ったあの瞬間。ユウケイは咄嗟の本能で頭を守るように両手を上げたが、音波が届く直前に足首をつかまれる感触があって、そのまま地面に向かって引っ張られたのである。普通ならばそんなことをされても転ぶだけだが、何故か体は床をすり抜けて沈んだ。それで音波は避けられたものの、勢いが良すぎて、床の下にあったこの空間で頭を打ち、気づけば倒れていたのである。

 状況把握が済んだところで、あらためて二人を見る。

「アンタらが俺を、助けてくれたんですか?」

 二人は顔を見合せた。

「そういうことになるかのう。恩に着ろ。言うこと聞け」

「トウカは何もしていないじゃないか。まあ多少の便宜を計ってもらいたい、というのには同意見だがね」

「め、面倒臭ぇ」

 思わず口をついて出た。しかしあまり謝る気にはなれない。二人はしらっとした顔をしている。

「……分かりました。貸しにしておいてください。今は少し忙しい」

 この異界は時間には作用しないようで、頭上の穴の向こうでは着々と事態が進行していた。援軍を連れて戻って来たチルエルが、青ざめた顔をしながらも懸命に指示を出そうとしているのが見える。

「戻るのかい?」

「はい。どうやったら戻れますか」

「今、扉を開けよう」

 すぐ、ユウケイの目の前に四角い穴が現れた。何故か頭上にある穴と同じく、食堂の景色が見える。食堂の入口辺りから見た景色だ。この空間は、単純に食堂の真下に存在しているものではないらしい。

「その穴を潜れば戻れる。健闘を祈るよ」

 この様子だと、この異界の主はメルである。「ありがとうございます、色々と」と何でもないような口振りで礼を言いながらも、ユウケイはじっとメルを観察する。いくら見ても、黒以外に何も見えなかったが。

 異界が新しく創られた。

 それはつまり、新たな魔法使いが生じた、ということである。

 もし、新たな魔法使いが生じたのなら、それは文字通りに世界が変わる発見だ。全世界の魔術の研究者がひっくり返る。――それだけなら、まだいい。異界は上手く利用することが出来れば、多大なる力を手にすることが出来る。

 主祭する力によっては、戦争が起きる可能性だってある。

 こんな緊急事態でなければ追究していた。いや、こんな緊急事態であっても、研究者を志すのなら追及すべきなのだろう。

 しかし、ユウケイは名残惜しさを振り切って、メルに言われた通りに四角い穴に歩み寄る。

 今の自分の仕事は事態の収束であって、異界とその主への追究ではない。ともかく早く戻らなければと、意気込んで四角い穴を潜る。

「何も出来ない奴が戻ったところで、何の意味がある」


 振り返ると、食堂の扉が目の前にあった。まるでたった今食堂に入ってきたかのように。

「……はい?」

 しかし、ユウケイの呟きはそれに向けられたものではない。

 今、独り言のような小声ではあったが、去り際に悪態をつかれた。あの声はトウカだった。

 内容は大したことではない。何度も言われて落ち込んだこともあったがとうの昔に乗り越えた、今更と呆れるような悪口だ。悪態をつかれたことも、そもそも目覚めた時点であれこれ言われていたのだし、目くじら立てるほどのことではない。

 ただ、妙に真剣な調子だったのが気にかかった。

「無事でしたか、代表!」

 チルエルが呼びかけて来る。

 今は置いておくしかない。

「……。はい、無事です。ご心配をおかけしました。こちらで把握していなかった方がいまして、間一髪助けていただきました」

「良かった! それじゃあ一体目を運び出す方の指揮をしてもらっていいですか!」

 あっさりとした対応に少し面食らった。その顔を、指示が通らなかったと思ったのか、チルエルは慌ただしく説明し出す。

「あ、えっと、二体目は恐らく一体目の親だと提言があって! それで――」

「あぁ……大丈夫。委細承知しました」

 即座にざっと場を見渡して状況は把握した。援軍はおおよそ三十、負傷者が二十。今は一体目に対して少数で見張りを立てて、残りで二体目の対処と負傷者の避難をしているようだ。軍部部長であるゴルグは前線に立ちつつ指示を飛ばしている。

「結構。やりましょう」

「よろしくお願いします。僕は引き続き負傷者を」

「はい」

 チルエルは騒乱の中へと駆け込んでいく。

「……俺は俺に出来ることを」

 呪文のように呟いて、ユウケイも駆け出した。

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