魔獣は大口を開けた。蝿のように周囲にまとわりつく生徒たちを、音波で一掃するためだろうが、こちらにとっては待ち望んだ好機だ。

「今!」

 ユウケイの合図を聞き、控えていた生徒が縮小魔術を解除する。

 途端、魔獣の口の中に、石の体を持つ人型の魔物が現れた。

 伸びをするように石人は両手を上げる。

 食堂で魔獣と対峙していた人々が、石人へ向かって、次々に防御魔術をかけていく。元々の体の硬さに加えて、多重に防御魔術を重ねられれば、牙そのものが魔力器官の魔物でもなければ噛み砕くことなど出来ない。この魔獣最大の強みである音波による攻撃も、口への負荷や障害物のお陰で、威力自体が半減する。

 人で出来たつっかえ棒によって、魔獣は大口を開けたままで硬直した。

 すぐに立ち直るだろうが、この学舎に通う戦闘職種にとっては、充分な時間だ。

 複数人の生徒が食堂のテーブルにしがみつき、頑強な杭となる。その杭に、一人が尻尾や足を巻き付けて、さらに両手で魔物に捕まる。そんな風に各々の体の特性を活かしながら、鎖のように連なった生徒たちは、がっちりと魔獣を拘束した。魔獣は暴れ振り払おうとするが、ここにいるのは己の力や研究成果を試すために、自ら危険に身を晒しに来た魔術研究院附属第一学舎の生徒たち。容易には崩れない。

 だが、このままでは魔獣を外へ運び出すことが出来ない。そこで切り札。

「妖精さん、お願いします」

 合図と共に獣人に投げられた妖精は、魔獣の羽ばたきや音波に邪魔されることなく、無事に魔獣の顔に着地する。振り落とされることもない。

 そのまま、とユウケイは拳を握る。

 妖精は魔獣の右目の淵に指をかけ、その中を覗き込んだ。

 あの妖精が使うのは、強力な麻酔効果のある魔術。

 読心など使えなくとも、魔獣のまとう空気が変わったのが分かる。効いている。

「……皆さん、まだ抑えておいてくださいねー」

 妖精が微かな羽を懸命に動かし、左目へ向かう。

 食堂に空いた大穴から、学庭側の扉へ、気持ちの良い風が吹き抜けた。



「口を抑えている方、お一人テーブルを持ち上げる方に回ってください。長卓側が手薄です」

 ユウケイが指示すると、獣人が一人、敏捷な身のこなしで魔獣から降りて、魔獣を載せたテーブル板に取り付く。少し傾いでいたテーブル板が平行を取り戻した。

 魔獣の口もそのまま抑え込めている。完全に沈静化した訳ではないため油断は禁物だが、ユウケイの見立てでは、あと一人減っても持ちこたえられる。それならば、あと一人テーブルに回そうか。

 手前側でテーブルを支えている一人が、軽くユウケイを振り返った。

「なぁ代表、これこのまま扉まで運ぶの? 重いんだけど。下に丸太か何か噛まそうぜ」

「そうですね……。テーブルのように、何か代替物があればいいですが」

 ざっと周囲を見渡すが、代替物となりそうなものは食堂には見当たらない。少し思考の範囲を広げて周辺施設なども考慮にいれるが、やはり思い当たらなかった。

 一応、丸太自体は簡単に手に入る。学舎の周囲には「無辺の森」と呼ばれる、果てが存在しない森が広がっており、丸太の材料は潤沢にある。しかし、今から木を切って持って来るのと、このまま人力で運ぶのとどちらが容易かは、判断がつきかねた。魔獣にかけた魔術は、恐らく木を切り倒して運搬するのを待たずに効果が切れる。かと言って魔術をかけ過ぎれば、後遺症が気にかかる。

 軽量の魔術を使うなど別の方法もあるが、あいにくと、有効な魔術を使う者がこの場にはいない。探しに出て、すぐに見つかるとも限らない。

「……今はそのまま運んでください」

「えー」

「すみませんね。発明家でも策士でもないので、そう簡単に方法を思いつかないんです」

 今までよりも強い風が吹いて、魔獣が喉元で唸った。翼や口を抑えている者たちが身構える。ユウケイは、魔獣を抑える者と運ぶ者の人数配分は、このままにしておこうと決めた。

「風が出て来ているので、皆さん慎重に急いでください」

 普段であれば大したことのない強さだが、魔獣を運ぼうとする今は、少々注意を要する程度の風だ。

「言うだけは楽なんだよなぁ。慎重に急ぐってどうやんだよ。手本見せろ」

「手本は日頃の俺です」

「「こんなの生徒代表の仕事じゃねえだろ……」って言いながら運ぶか?」

「皆さんは好きで来たんでしょうが」

「後始末には興味ねぇってのー。戦わせろー」

 馬鹿を言いながらも、危なげなく運んでいく。

 そろそろ一息ついてもいいかと、ユウケイは肩の力を抜いた。

 あらためて魔獣を見上げる。首の角度はちょうど、縮小魔術をかけられた後の巨人族を見上げる時と同じくらいだ。

 大小様々な傷をこさえた、粘土のようにのっぺりとした皮膚。

 視線に気がついたかのように、卵ほどの大きさの瞳孔が、ぎょろりとユウケイを見返した。妖精の魔術が効いているためやや虚ろだ。

 この辺りにはいない魔獣だ。食堂に来た時には既に存在していたという下腹部についた傷からしても、何らかの非常事態に巻き込まれたと見て間違いない。

「……早めに帰すから」

 言っても伝わらないが、言わずにはいられなかった。

 自ら生息地へ帰ってくれるならばいいが、難しければ統括局に連絡しなければならない。

 だが、出来れば統括局に連絡する前に、原因の究明をしたい。原因が学舎の生徒であった場合には、対処がまた違って来る。

 それと、食堂の復旧作業もこれからだ。ここにいるのは戦闘目当ての有志で、復旧作業にまで力を貸してくれるかは時と場合による。大抵は帰る。だから、復旧作業用の人員も募集しなければならない。戦闘職種と同様に、復旧作業だったらやりたいという生徒も多いから、呼べば労せず集まりはするだろう。

 ユウケイが到着するまで、食堂で魔獣を抑えていた十人への補償も、考える必要がある。

 もしかしたら「十一人」かも知れないが。

 助け出された数名が、姿は見えないがもう一人いる、と訴えていたのだ。自分たちを影から助けた人物がいるはずだ、と。姿を隠す魔物は少なくない。複数人が証言しているのだから、「いる」と考えるべきだ。それで一応注意していたのだが、今のところそれらしい者はいない。既に状況から離脱しているかも知れない。だが、自分事ではない面倒事に巻き込まれながらも、逃げずに状況を収めようと努めてくれた功労者の一人を、不利益を被ったままで放っておくのは仁義にもとる。

 いつものことだが、やることが山積みだ。

 しかし、全く、こんなのは生徒代表の仕事ではない。

「代表、少し……いいですか」

 我に返って振り向くと、眉を寄せたチルエルが立っていた。その姿を見て、何も自分でやらなくてもいいのだと気づいた。今はもう、全て学生講に任せてしまえばいい。

 自ら進んで仕事をしようと考えるなんて、久しぶりの大事だったせいで、まだ少し気が昂っているのかも知れない。苦笑しながら聞き返す。

「何ですか。また事件ですか」

 チルエルはユウケイの軽口に微妙な笑みで応えてから、何かに追い立てられるよう口調で問いかけた。

「何か……空気が、変な感じがしませんか?」

 特に思い当たることはなかったが、一度周囲を見渡してみる。しかし、やはり気がつくことはなかった。

「変、ですか」

「すみません、曖昧で。……気の所為かも知れませんが、一応、僕の役割としては言うべきことだと思ったので」

 食堂に入る前にチルエルには、全体を見るという仕事を任せた。

 空気に注意を払ってみる。風は益々強くなっている。

「この風のことですか?」

「そう……かも知れません。どことなく嫌な風だと思います。肌が泡立つような……。何となく」

 言うほどに自信をなくしていくようだった。

 だが、仕事を任せたユウケイには、全力でチルエルの報告を汲み取る義務がある。自分が仕事を任せた相手の報告を顧みないというのは、自分を軽んじることと変わらない。

 しかし、自分では風以外には、何も感じることが出来なかった。

 ならば、もっと鋭敏な感覚を持つ人々に頼るまでだ。

「誰か異常を感じる方はいますか? この場の空気感でもこの風でも、それ以外のことでも、些細なことで結構です」

 唐突なユウケイの言葉に、魔獣を運搬している人々は首をかしげる。しかし少しして、魔獣の左翼を抑えていた獣人が、軽く手を上げた。

「微かだが――音がする」

 その言葉に触発されて、皆が自身の感覚器に注意を向け、そして気がつく。

「旦那ァ、これ、もう一体来てるかもなぁ!」

「ウワーッ! 上! 見えます!? 見えないか!」

「あ、もしかして……探索音?」

 ゴルグの楽しそうな声に続いて、次々と声が上がった。

「ありがとうございます、もういいです。……もういいですってば。うるせぇ! 静かに!」

 ユウケイは思い切り顔をしかめながら、皆が指し示す、天井付近に空けられた大穴を仰ぎ見る。

 最初は青空に、小さな黒っぽい点があるようにしか見えなかった。しかし、それはみるみる内に、点とは言えない大きさになっていった。

 一際強い風が吹いて、ユウケイの足に、食堂に放置されていた食器がからから転がって来て勢いよくぶつかる。よろけて膝をついたユウケイは、足をさすりながら顔を上げて、上空で旋回するその姿を注視した。

 一体目と同じ顔をしているのが見えた。同型の魔獣だ。しかし一つ、全く異なる点があった。

 巨大である。一体目より、遥かに。

「全体、全力で防御態勢! 上空に同型の魔獣をもう一体確認――ただし、大きさは倍以上と思われます!」

 慌ててそう指示をするものの、皆魔獣を運ぶのにかかりきりで、すぐには防御態勢を取るのは難しい。この風の中では魔獣を下ろすのも一苦労だ。

「無茶言うなッ!」

 当然の返答だった。

 冷や汗が出る。

 あの巨大な二体目は、一体目と同じく、攻撃に音波を主として用いる可能性が高い。だがその破壊力は一体目とは比べ物にならないだろう。

 もし、あの魔獣に攻撃されれば。

 最悪、学舎全体が崩壊する。

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