トウカとメル

 アメンボが水面に波紋を作るように、頭上に「窓」が開いていく。

 「窓」からは「地上」が見えた。瓦礫や料理が散乱し、惨憺たる有り様だ。そこを大勢の人が足元など気にせずに慌ただしく駆け回る。「窓」は一人一人を追いかけた。

「助かるよ。さすがの私も、そろそろ限界だった」

 メルがそう言いながら、徐々にまとまっていく。あまりにも素早く動くせいで靄のように広がっていた体は、少しして、人型になった。地上で魔獣の対処をする生徒たちが、音波を受けたり足元の瓦礫で転けそうになった時、気付かれないように助けていたのだ。

 元々肩などない体だというのに、調子を確かめるように肩をぐるぐると回すような仕草をする。

 呆れて見ていると、メルは顔を上向けて不思議そうに呟いた。

「……おや」

 顔と言っても、全身墨の塊のようなものだから、目鼻はほとんど見えない。これもやはり真似事だ。

 顔が向けられた方向に、トウカも目を向ける。

 「窓」の一つから、食堂の校舎側出入り口の近くが見えた。人間が二人いる。

「ユウケイ君が来たのか。道理で統率が取れている訳だ。さすがだね、彼の人は」

 一人は知らない人間。もう一人はメルの言うように、ユウケイという名の人間である。

「やっぱりさぁ、どうだい? 少し声をかけて……」

「誰だろうと関係ない。二度と言うな。次はない」

「もう。頑固だなぁ……」

 二人とも緊張した面持ちで魔獣と、その周りに集る人々を見ている。ユウケイの方は時々何か言っているが、この世界には向こうの音は届かないので、何を言っているかは分からない。ただ、ユウケイが口を開くと魔獣に集る人々の動きが少し変わるから、何か指示を出しているのだろうと分かった。

「……無力な人間風情が、偉そうに」

「トウカ」

 言うと、すぐに咎め立てるような声が飛んで来た。

「はいはい分かっておるわ。人間と魔物の対等な関係を築き、真なる平和の実現を目標に日々邁進する」

「それを言っておけば良いというものではないんだけどね」

 メルは両腕を広げて、やれやれと首を振った。いつものことだが、若干苛々する。

「確かに人間は、魔力を手繰ることが出来ない。しかし、それはけして、無力を意味しない。人間には人間なりに、魔物を凌駕する生存の力を持つからこそ、ここまで繁栄したんだ。あまり軽んじるものではないよ」

「……その生存の力とやらは、単に「神」に愛された、というだけじゃろう。そんなのは人間共自身に力があるとは言えん。ズルじゃ」

 魔物は、大勢の人間を殺すと、神から罰を受ける。

 逆に人間は、魔物を大勢殺しても、何のお咎めもない。

 人間は神の愛し子だから。

 人間は善で、魔物は悪。そういう風になっている。

「私が言いたいのは、そのことだけではないけど。それを言うなら魔物だって、魔力器官を得ているじゃないか。その理屈で言えば、これだって、私たち自身の力とは言えないだろう?」

「違う。人間はそも、神によって別の卓に上げられておるのじゃ。それだけならまだ良いが、それを自分の手柄のような顔しながら、儂らのいる卓を見下ろして、下等な存在と見なしおる」

「ううん。分からなくもないけど。やはり、人間は無力ではないと思うよ。今は人間と魔物で殺し合いをする時代でもないし、お互いに歩み寄らなきゃ」

 こう言いながら、別にメルも歩み寄るつもりはないと知っている。メルはトウカにばかり物分りの良さを押し付けてくるのだ。

 急に馬鹿らしくなった。

「……ハ、飽きた。別の話をせい」

「君を楽しませるための話ではなかったのだが……。楽しませようとしているように聞こえたかい? 参ったな。生来の芸人気質が話を盛り上げようとしてしまうのか?」

「痴れ者め」

 頭上では今も死闘が繰り広げられている。

 メルは気を取り直すように、少し真面目な声色で言った。

「まあ……どうせ、いつか彼の人が悪人になる未来でも見たのだろう? 気持ちは分かるが、しかし、現時点ではユウケイ君は善人だ。あまり過剰に嫌悪を露わにすれば、トウカ自身の品位を落とすよ。やめたまえ」

 最初からそれだけ言えばいいものを、生存の力だの人間だのと、わざわざ話を回りくどくする。芸人気質というよりは政治家気質だ。

 ため息を吐いて、トウカは言を蹴り飛ばした。

「ご高説は結構じゃが、せめて的を射た話をせよ。見当違いじゃ。彼奴は……少なくとも半年は善人のままよ。頭に花咲かせて、阿呆面で笑っとるわ」

「おや。それは失礼。……しかし、未来は見たのだね。それなら、何故――」

 誤魔化そうか認めようか迷って、視線を上へ向ける。

「見よ。扉が開いて、人が増えた。このまま無事に終わるといいのう」

 大嘘をつく。無事には終わらないことを、既にトウカは知っている。

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