【小説】六本木

紀瀬川 沙

本文

 四月半ばの冷える望月夜、外苑東通りから六本木通りに出て、六本木交差点の信号を待つ混雑のなかで立ち止まった青年の一群がある。

 時刻ははや午後十一時半になんなんとしており、渋谷から溜池まで走る国道の路肩には、これからの時間帯できたる活躍の場を今か今かと待つタクシーがテールライトを妖しく明滅させて行列をなしている。絵に描いたような都会の夜である。

 一群の構成は、大学院生が一人、私を含む大学四年生が二人、その他三年生一人のあわせて四人である。私は知らぬが、他の三人は確かに明日の日本の舵を取る有為の若者である。しかし有為の若者たちは今宵、しだらもなく遊びに出た帰りであった。

 たった今までお伽の国にいた者にとって、六本木の天を切り裂く首都高や星を模したようなネオンはもう目にも入らない。無論、周囲の喧騒も耳には。お伽の国の美酒に酔ってか、あるいは羽衣の美人に酔ってか、みな一様に醒めずの態であり平生の怜悧も影を潜めている。わずかに惚けたような顔つきをしている。酒の後の、美事な月と頬を冷ます夜風は、先刻までの宴に最後の華を添えるかのように心地良い。

 四人は麻布に面する地区にたつビルの五階、クラブ「エル・ドラード」で遊興した帰り道であった。この夜にはおよそ二時間半の甘い夢を見た。最初の一時間半はあらかじめ定められた単位で、もちろんそれなりのチャージが発生している。しかしそれだけではいっこうに物足りないし、横に侍る天女も我々を帰すことがなかった。ここでの夢は財布次第で無尽蔵に引き延ばすことができた。さらに一時間、夢の続きを見てようやく夢から覚めること相なった。夢のなかの莫迦話は何も取り上げて書くに足るようなことではなかった。美しくとも芸術に不向きの美しさとでもいおうか。

 クラブ「エル・ドラード」は何も銀座並木通り界隈の向こうを張るような東京で有数の店舗というわけではない。ここ六本木に限っては多少名の知れた店だった。一見の客である若者風情などはそれ相応の対応をされる恐れはあった。軽んぜられないよう、学生の身分は明かすつもりはなかった。格好は、さながら詐欺にでも携わっているようなスーツ姿である。

 事の発端は、新学期匆々四月の初め、ひょんなことから私の手元に予想だにしない金が舞い込んだことだった。前年度末の二月から三月にかけて作った、さる文芸作品の原稿料としての金であった。関係者もいるためその金額をつまびらかにすることはできないが、名代の雑誌だったことやこれから叙する顛末も含めて考えれば決して少額ではないことがお分かりいただけるはずだ。

 私はそれを昔ながらの茶封筒に詰められたままの形で渡された。場所は交詢社通りのとあるビルだった。そこでの仔細は物語ることをしない。

 私の身分はというと、冒頭にも示した通り、大学の新四年生で、一昨年までの駒場での教養課程を修了したのち本郷へと進んで今年で二年目、つまり学部の最終学年である。それまで何か労働経験があったわけでもなく、高家の子女の家庭教師といった知的労働にも従事せず、もっぱら高邁な理想を掲げて何の役に立つかもわからぬ著作に目下の全頭脳、全精力を傾けていた。

 とにもかくにも、思いも寄らず受け取った額面は、大学四年生にとって、知的労働に恪勤と励んでも一年間で得られるかどうかという大金であった。

 しかし、そんな金が手元に舞い込んだ私がさぞ大童になって、その処遇に右往左往していたかというと、そうでもない。私が自身の部屋にある文机の抽斗奥深くに鎮座する肉厚の茶封筒を見て考えていたことは、すこぶる冷静・淡白に、

「大学生協で五百円かそこらで買ったペンと原稿用紙がこれほどの金にうまく化けたものだ。いや、それにひと月分の深夜労働の価値も含まれるか。他にもまだまだ書ける構想はある。錬金術の元ネタか。いずれにせよ、こんな金は浮かんでは消えるようなあぶく銭だろう。もとより身につくはずもない。いっそのこと潔くつかってしまおうか」ということだった。

 そんな考えに基づいて、私は一つ花火のように打ち上げてしまおうと、所属する文学サークルで平素よりお世話になっている人々を誘って当地六本木まで至った。よしんば金が足りなくなったとしたら、その時は補ってもらえるようにも了解を得ていたのが滑稽であった。

 銀座に行くことも考え付いたが、今どきはおおかた敬老会に近い集まりばかりで我々が行ってもさしたる面白さはないと思って今回は敬遠した。

 銀座がないとなると、年増より芳紀、和服よりロングドレスということで遊ぶ街を今日日栄耀栄華を誇る六本木と定めた。そして、まさしく人知れず空に浮かぶ黄金郷のようなクラブ「エル・ドラード」をどのようにして知ったかというと、過去にある出版社の編集者に奨められて聞いていたからであった。

 して我々はビルのエレベーターに乗り込み、店の入り口に立った。上部にギリシアのオリーブを模したような飾りを施し、磨りガラスを金と銀とで縁取った重厚な扉を、手ずから開けた。オリーブの葉と葉のはざまに付けられた鈴が揺らぎ、玉が触れ合って綺麗な音がした。次いで間髪を入れず歓迎のうららかな嬌声が耳に届いた。

 声とともに、照り輝くようなドレスをまとったホステスが美人の笑顔をもって我々を出迎えた。あとあと話してゆくうちにわかったのだが、我々を出迎えたこのホステスは二十歳で、都内の小さな大学に通っているらしい。あるモデル事務所にも所属し、夜は密かにここで働いているという。そのようなことはたとい打ち明けられたとて、彼女の本名はもとより芸名も知らぬから心にも留まらない。双方の共通認識である。我々の間で確かなことは、「みゆき」という源氏名がこの店内では彼女を指すということと、彼女がその小ぢんまりとした胸をカバーするかのような長くなめらかな四肢を持っているということくらいであった。

 私が代表して一行の人数と希望の時間を伝えると、今度は「さき」と呼ばれた女性がきて我々を席まで案内してくれた。沙貴の着る、胸元や腰を締め上げるような衣装が彼女の体にぴったりとまとわりついていることがやけに目についた。

「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」

 こう言って一度こぼれるような笑みを呈してから前をゆく沙貴の、大きく素肌をはだけた背が無言のうちに夢の訪れを告げているような気がした。

 店内はほとんど全面にわたり、あるところは飴色、あるところは鶯色など、光沢を過剰なまでに拡散させている。天井に壁、円柱、テーブル、チェアまで、表面が光を最大限反射させていた。その一方で天井に懸かるシャンデリアや席を照らす間接灯は限られた光量に絞られていて、店内は全体として幽かな薄明かりに包まれている。これによってこの空間があたかも、あえかな光にくるまれた、天に鏤められた星々の一つのなかであるかのように思える。物の輪郭をぼやかす薄明かりのなかで、局所的な強い照明の前をよぎっていっそう強調されて浮かび上がる、ドレスアップした女性のボディーラインがどんな銀河よりも美しい。

 案内された席は段差をいくつかのぼった中二階にあって、薔薇や百合の透かし彫りが美しい柵によって隣席と区切られていた。途中瞥見すると、店内には先客も多数あり、中年から年配の者が多かった。一部の先客からのいぶかしむような目線も意識してか、我々は自分たちが場違いに思われているだろうかといった余計な自意識は投げ捨てて闊歩してゆく。

「こちらのお席でございます。すぐにお飲み物をお持ちいたします」

 濃やかな赤色の天鵞絨の敷かれた椅子と艶やかな黒のテーブルへと導かれた。すぐそばでは沙貴が嫣然として立っていた。何かを待っているような素振りだった。最初に気づいた後輩がすぐに、

「ああ、みなさん、ウィスキーにしますか。ビールはもう飲みましたもんね」と言葉を継いだ。沙貴はこれを聞いていくつかの銘柄をあげて、いずれにするか尋ねた。山崎の十二年。ボトルキープしても次はないから大盤振る舞いだった。

「かしこまりました。少々お待ちを。ちょっと、舞ちゃんたち、こちらへ」

 沙貴は幾人かのホステスを席へと招いた。沙貴とすれ違うようにして紫や赤のロングドレスたちがスパンコールを煌めかせて近づいてきた。少し遅れて、先ほど我々を出迎えたみゆきがウィスキーのボトルを手にこちらへと来た。琥珀色のウィスキーボトルがみゆきの柳腰に当たるところから、なぜか目を離すことができなかった。

 私には女の子たちに何を頼めばよいのか分からなかったのだが、あたりさわりのなさそうなシャンパンのクリュッグにした。ブランドの高低なぞ知らず、元手の金からしたら安すぎもせず高すぎもせず、妥当なものだったか。

 みゆきが私の隣に腰を下ろした。ホステスがみな座り終え愛想よく話し始める寸前に、我々四人はお互いに他の三人を流し見た。誰一人として楽しまない者はなかった。

 しなを作って自己紹介を済ませた彼女たちが、おしゃべりしながら水割りかオン・ザ・ロックかなどの好みを聞いた。彼女たちがウィスキーを用意して次にシャンパンを注いでいるあいだ、私は何気なく腕時計を見た。いまさらセイコーの腕時計を隠すこともなかった。堅牢な国産の良品である私の腕時計は、今晩だけは、ホステスたちの洋装のように店内の明かりを反射して私の目を射った。文字盤は九時であった。夜ももう更けてゆくほかない。私は文字盤から目を離し、その離した目を隣のみゆきのスリットから露わな太ももに落とした。

 この時突然、私の脳裏に京都の舞妓の顔と声がよみがえってきた。それは、先年祇園の茶屋で別れ際、

「帰って東京で浮気しはったら許しまへんさかいね」と言って私の両の手をうやうやしく握った舞妓であった。思い出してなぜか私はある種の快感を覚えていた。女を裏切ることへの背徳感とそれから催される喜悦か。しょせんは京都も東京も生粋の商売女との遊び、という冷めた心は自分でしかと観察できているのに、心を観察するもう一つの心に悦びが湧き上がるといった心持ちの悪いものだった。

 隣のテーブルではどこかの会社員らしき中年同士が接待をしているようだった。発注や貴社など、私たちも数年後には用いるかもしれない言葉が取り交わされている。これを耳にした私はわずかに顎を突き出して、故意に彼らに聞こえるように、

「ここは商談スペースじゃないんだよ」と腐した。その実、隣のみゆきにしようもないことをアピールするためだけだった。私のこの発言は、自身の矮小なプライドを満たした以外、メリットは何もなかった。隣のテーブルに何の波紋も及ぼすことはなかった。相手にする価値のない酔言だった。

 私はわざと、背の低いオールド・ファッションド・グラスではなくそれに添えられたみゆきの手を握った。人肌の温さがなまなまと感じられたが、こなれたようにすぐにするりと抜け出されてしまった。戯れるように周囲と笑い合って、私は改めてグラスを手に取った。先ほどまで触れていた女の肌の温みのため余計に際立ったか、グラスの内側の丸い氷の冷えがまるで直接触れているかのように伝わって薄ら寒くなった。

 私は笑みを途中でかみ殺したあと、腰を一度軽く上げて椅子に浅く座りなおし、と同時に前方へとぞんざいに投げ出される脚を、さらに粗暴な様子で組んだ。


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【小説】六本木 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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