21 河童の町

 公民館が臨時の避難所となっていた。

 と言っても、この町の地理を理解している者に限って、であるが。時漏町の住人たちは突如として襲ってきた河童たちの情報を地域のネットワークを利用して共有していく。地域のネットワークとはすなわちこの土地に住む人間が有するスマートフォンのメッセージアプリであった。年代やグループによって接触のない者も多いが、地域全体が恐慌に陥ったとなれば、親子間などでの情報の共有が架橋となって地域住民全体に情報が行き渡る。

 河童の出現という一大事は、時間こそかかったが真実であると受け止められた。

 家にいる者は決して外に出ないこと。祭りで外に出ていた者は公民館に逃げ込むことが推奨された。

 観光客はまったく考慮に入れられていなかった。河童に襲われて絶命していく知らない顔の人間はおとりとして役に立つ程度の認識であった。

「どこに逃げれば……!」

 河童から逃げる中、観光客からそう聞かれた地域住民は最後の良心で、

「公民館だよ!」

 と叫んでその場をあとにする。無論土地勘のない観光客には公民館の場所はわからない。とにかく逃げていく住民のあとをついていくことしかできず、そうなると彼らは自然に河童へのおとりとしての役目を与えられていった。

 ひとでごった返し、あちこちで怒号が上がる公民館の中で、新島正人は酒を飲んでいた。

 あまりのショックで正気を失いそうな者に、気つけとして酒が出されていた。新島は十分に酒を飲むに足る理由を有していると言えるだろう。彼の空けたビールはひと瓶やふた瓶ではすまないが。

「おう、電気屋のおっさん。無事だったか」

 背の低いやくざ――堀川が人混みをかき分けて新島へと駆け寄ってくる。挨拶を返すこともなく、新島は酒をグラスに注ぐ。

「滝尾先生と連絡が取れねえ。あのひとは今日祭りの中心に来てただろ? あんたになんか連絡はねえか?」

「ないです」

 グラスを呷る。

「心配だな。これも全部、あのガキのせいなのか……」

「親父」

 ひとりでぶつぶつと呟いている堀川を見つけて、若い男が駆け寄ってくる。

「なんだ隼人。ガキは見つかったのか」

「いや、まだだ。あの女が連れ去ってから誰も見かけてない」

「ああ、こいつ、俺の息子だよ」

「堀川隼人っす」

 ふたりのやりとりに目を向けるでもなくビールを飲んでいる新島に、堀川は律儀に息子を紹介する。はあどうもと気のない返事をして、新島はまたビールをグラスに注ぐ。

「おっさん、今井早希っていうガキを知らねえか? こいつと同い年なんだが、俺らはジロチョウ祭りが始まる前に、そいつを捕まえてきてくれと滝尾先生に頼まれてたんだ。こいつにも手伝わせて、うまいこと家に連れ込むまではいったんだが、途中で黒ずくめの女にさらわれたらしい」

「すみません。知らないですね」

 今から滝尾にその娘を献上でもするつもりなのか。危険な匂いを感じ取りこそすれ、突っ込んだことを聞くつもりはなかった。

「滝尾先生によれば、そのガキさえ捕まえれば全部丸く収まるって話だった。滝尾先生はやっぱり筋の通ったひとだよ。あのあと、俺らの組にかけられた呪いについてきちんと説明してくれた。滝尾先生は、組にかけられた呪いを必死に抑えていてくれたんだ。ジロチョウ祭りを快く思わねえ輩がいて、妨害工作だとかいうナメた真似をしてたらしい。その鍵が今井早希っていうガキだって話だ」

 急に公民館にどよめきが起こった。先生、先生、と声が次々に上がる。

「みなさん、落ち着いて。落ち着いて、私の話を聞いてください」

 ホールの入り口付近に立った男を中心に、静寂が広まっていく。同時にひとの山も引いていき、自然と全員がその男の姿を見ることのできるかたちへと整列していった。

「先生!」

 堀川が歓声を上げて駆け寄ろうとするが、だがすぐに群衆によって押し止められ、先に進むことができなくなる。

「みなさん、これは喜ぶべきことなのです」

 滝尾彼方は、朗々と声を張り上げる。

「ジロチョウ河童は伝説ではなく、実際に姿を現した。ジロチョウ河童伝説は本当だったのです。今はつらい局面かもしれません。ですが、これを乗り切れば、この町はより素晴らしい伝説となるのです。真に河童の暮らす町として、この町は史上初の伝説と共生する伝説の生きる町となるのです」

「ひとが死んでる!」

「三毛別羆事件をご存知ですか。日本史上最悪の人食い熊による獣害です。現在の三毛別では当時の悲劇を伝えることによって、観光地化も行われています。まして今回は河童です。伝説の存在、UMAが現れた。今ここを、ここさえ乗り切れば、この町は文字通りの伝説となることができるのです。ジロチョウ祭りはさらに盛り上がるでしょう。ジロチョウ祭りの時期以外にも、多くの観光客を見込めます。今だけ、今だけなんです。その先のビジョンを持ちましょう」

「では、どうすればいいんですか!」

「警察がすでに動いています。そのさらに上も、動いていることでしょう。まもなく、河童は鎮圧されます」

 急速に安堵の輪が広がっていく。

 住民が怯えていたのは、なによりも正体の見えない怪物に対してである。それを警察や自衛隊が鎮圧すると請け負ってもらえれば、たちどころに不安は消えていく。こうして公民館に籠城さえしていれば、やがて外の河童は射殺される。

 そして醸成されていくのは、この危機を乗り越えた先への期待だった。滝尾の言葉通りの未来が待っているのなら、時漏町は間違いなく有数の観光地となることができるだろう。

 滝尾は自身を取り囲む群衆に握手を求められれば応じ、感涙に咽ぶ相手には優しく抱擁を返し、見事なまでの立ち回りを見せた。

 滝尾への評価は下がるどころか、さらに高まっていく。

 堀川は人混みをかき分けて滝尾の前に進み出ると、二言三言耳打ちをして、すぐさま離れていく。信頼関係、協力関係は堅固なものとなっているようだった。

 裏で脅されていたのもすでに過去のこと。ひょっとしたら滝尾はきちんと落とし前をつけたのかもしれない。

 滝尾は代わる代わるやってくる人波をすり抜け、テーブルで延々と酒を飲んでいる新島のもとへと近づいてきた。

「新島さん、あなたには感謝してもしきれません」

「はあ」

 目が霞んできていた。アルコールによる眠気が押し寄せてきている。

「あなたのおかげで識別子〈ジロチョウ河童〉は完全に自律起動し、術者の支配からもこうして逃れることができるようになった。この男はもとよりこの時のために用意されていたようですが、なかなかどうして人格の掌握という段階にまで進むことはないのでね。じきに私による汚染が完全に進行し、この町の情報流も私によって食い尽くされるでしょう」

「そうですか」

 何を言っているのかまったくわからない。ただここまでアルコールの回った状態で聞く話など全部同じようなものだ。

 激しい物音と同時に悲鳴が上がった。滝尾の時とは違った動きでひとが一気に引いていく。

「か、河童……」

 公民館のホールの中に、河童が一体転がされていた。初めて実物の河童を目にする者も多いが、みなすぐに河童だと理解して距離を取る。パニックが起きる寸前、若い女の声がした。

「みなさん、今から、本当のジロチョウ河童伝説について、お話しします」

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