22 過去への負債

「私に朱鷺沢の術は効かない」

 襲いかかってくる河童を瞬く間に三体、麻縄で縛り上げた加古川八重は、怯えた様子で遠巻きに眺めていた早希に向かって河童を蹴り飛ばした。

 悲鳴を上げることはしない。河童はすでに八重によって無力化されている。

「朱鷺沢の式は情報流そのものへの介入。おそらくは陰陽師の中でも類を見ない異能だ。ただ」

 八重は自分の頭をこつんと叩く。

「私がここにいるということは、〈ジロチョウ河童〉という識別子が含まれるスコープ内で、同じ識別子を自分の中に持っている状態になる。私の識別子と朱鷺沢の式の識別子の意味は同じになるように組んであるだろうが、複数の意味を持っている状態にはなっている」

「つまり、先生がいれば、朱鷺沢さんの式を無効化できる……?」

「話はそう簡単じゃない。見ての通り、無効化できているのは私個人に向けられた式だけだ。この町の情報流に直接介入できるようなことを、私はしてこなかったからな」

「そんなことは――」

 これまで郷土史部で行ってきた、時漏町の歴史を編纂していく作業。八重は自身の長年の活動がまったく無意味であったと述懐している。

 認めたくない。でなければ八重を否定してしまう。

 だけどこの町が現実に許容してきたものは、朱鷺沢が作らせた偽りの伝統だ。偽物の歴史はこの町の深くまで根を張り、こうして朱鷺沢の式を動かしている。

 早希は頭を振るって雑念を追い払う。大切なのは現状の打破。であるならば歯がゆい現実もきちんと受け入れなければならない。正論を押し通すだけではこの町は救えないことくらい、もうわかっている。

「今井。お前はどうだ。か?」

 河童がまた数体、早希たちの周りを取り囲んでいた。公園から公民館に向かう道中。陽光を照り返すアスファルトの上で、早希は大きく息を整える。

「私、ひとを殴ったこともないんですけど」

「心配するな。殴る蹴りはただの前振りでしかない。重要なのは河童懲罰の精神だ」

「なんですかそれ……」

 早希にも河童を懲罰することができるか。八重が考えているのは『時漏れ』を読み、ジロチョウ河童の一次資料に触れた早希にも、自分と同じく朱鷺沢の式を無効化するだけの情報が流れているのではないかということ。

 早希が身構えたのを見て取った河童がまず一体、目の前に飛び出してきた。

 落ち着いて動きをよく見る。動体視力に自信はないはずなのに、なぜか河童の動きは半分止まって見えた。静止した相手に向けて振り下ろされる一撃は、逆に凄まじくスムーズに身体が反応してくれる。

 早希が放ったのは横っ面へのビンタ。ろくに力も入らずスナップも利いていない素人以下のへなちょこだったが、放たれた掌が当たると河童は珍妙な声を上げて吹き飛んだ。

 続いて第二第三の河童が同時に襲ってくる。だがやはり動きは止まって見えた。落ち着いて身体の向きを整え、二発三発と横っ面にビンタを入れていく。

 あっという間に熱されたアスファルトの上に計六体の河童が転がされていた。半ば呆然とした状態の早希の肩にぽんと手を置いた八重は、そのまま早希が懲罰した三体の河童を素早く縛り上げる。

 さすがに疲れたのか、八重は脇の民家に生えている松の木の木陰に入った。

 朱鷺沢の式が八重に効かない――おそらく術者である朱鷺沢にはとっくにわかっていた〈ジロチョウ河童〉の弱点。だからこそ去り際に放った言葉が気にかかる。

 ジロチョウ河童伝説では八重を殺すことはできない。なのに朱鷺沢は八重を河童で殺すと宣言している。

 あのあと――朱鷺沢が立ち去ってしばらくの間、打ちひしがれていた八重は、急に立ち上がってふらふらと道路へと出ていった。死に場所を求めに向かったのではないかと慌ててあとを追った早希の目の前で、八重は襲ってきて河童をたちどころに懲罰してしまった。

 そのまま八重はあてもなく町の中を歩き回った。襲ってくる河童を軒並み懲罰しながら、だが目的はないままに歩き回る。

 そしていよいよ疲労が限界を迎えたいま、八重は早希にも河童を懲罰してみろと迫った。確かに早希は『時漏れ』を読んで、ジロチョウ河童の一次資料――という名の八重による虚偽の記述に触れている。

 最悪、八重が助けてくれるだろうと信じた早希は、八重と同じように迫り来る河童を無力化してしまった。

「今井」

「はい」

「私は死ぬべきだ。朱鷺沢に殺されるべきだ」

「それは、違うと思います」

「お前は優しい。特に私には。私が書いた虚飾が、巡り巡って殺しにきた。責任は、果たさなくてはならない」

「だから――」

 早希は松の木陰に踏み込む。

「違いますよ! 先生は確かに間違いを犯した。だけどいま、実際に死んでるのはこの町の住人で、殺されているのはなんの関係もないひとたちじゃないですか! 責任の果たし方は、先生が死ぬことなんかじゃない!」

 八重は目を丸くして、慣れない大声を張り上げる早希を見つめる。

「厳しいこと言いますよ。先生は生きて、ジロチョウ河童というのは自分が吐いた嘘なんだと主張しないといけません。それが先生の責任の取り方でしょう。先生がこのまま死んだら、ジロチョウ河童伝説は本当にジロチョウ河童伝説になっちゃいますよ。いいんですか! 自分の嘘がそのまま勝手に使われ続けても!」

 腹から声を出したせいで、呼吸が荒い。はあははと息を吐きながら、早希は狭い木陰の中で、じっと八重と見つめ合った。

「お前――そんな顔をするんだな」

 小さく笑うと、八重は高々と拳を振り上げた。ちょうど松の木の上から河童が飛び降りてきて、八重の拳を腹にめり込ませて地面に転がる。

「わかった。私は私の責任を果たす。お前に言われるまで、怖くて逃げていた。だがもうやめだ。どんな醜態を晒そうと、きちんと責任は取らせてもらう。さて――では始めるか。〈征文形代コンテキスタドール〉破りの方策を」

 八重は新しい河童を縛り上げると、しばらくその身体に触れてなにやら思案顔をする。

「私に朱鷺沢の式は効かない。そしていま、お前にも同じことが言えるとわかった。私がかつて書いた『報瀬川のジロチョウ河童』というテキストをその身に保有していることが、朱鷺沢の〈ジロチョウ河童〉へのカウンターとなると考えていいだろう」

「なら!」

 この町の全員でなくとも大勢に、「報瀬川のジロチョウ河童」を読ませることができれば。だが早希の考えは言葉にする間もなく即座に八重に棄却された。

「第一に、現実に河童という存在が実在化している。これがいかに重大な意味を持つか、お前ならわかるはずだ。河童というものは、そもそもが存在しない。だがこの町に流されたジロチョウ河童伝説という情報流に朱鷺沢の式が取り入り、河童を実在化させるまでに至った。これはすなわち、河童が存在するに足るだけの河童への認識が、すでにこの町に深く根差してしまっていることの証明だ」

「でもそれは……」

「そうだ。朱鷺沢が作らせた一から――ゼロから十まで作り物の偽史。偽史は偽史であるがゆえに堅牢なんだ。現実に残っている河童の伝承が、果たしてどれだけ各地で機能しているか。実際の河童伝承など、たいてい不潔で猥褻でつまらない。逆に言えば、朱鷺沢が流した〈ジロチョウ河童〉は作り物だからこそ、ここまで人口に膾炙することができた。偽史が堅牢なのは何よりも、ひとの心につけ込むために作られたという構造そのもののおかげと言えるだろう」

 対して――八重は表情を曇らせることなく、淡々と続ける。

「私がでっち上げた『報瀬川のジロチョウ河童』というテキストは、偽史となることを目的としたものではない。言うなれば課題の提出をむりやり間に合わすために作られた出任せだ。当時の私は狡い人間だった。地方の伝承に紛れ込んでいても違和感のないように、特に目立つところもなく虚偽の報告を上げた。問題は、成立過程からして、このテキストにはひとの心を掴むに足る力が欠落しているということだ」

 八重の言葉には、もっとほかの意味が含まれている。

 狡いと評したが、つまり当時の八重は狡い工作を行えるだけの知識と見識があったことを意味する。わかりやすくひとの心を打たない伝承をでっち上げることは、無論学問上では絶対に許されない蛮行である。伝承を収集する中で混入していた偽物を、偽物と即座に判断できないことは後の世に大きな混乱を招きかねない。

 なるほど確かに八重は狡い。書いたものを偽物だと見極めるだけの材料がないことを見越して、虚偽を紙面に載せることに成功した。

「報瀬川のジロチョウ河童」は、たまたまひとの目に触れることなく埋もれていった。だが下手をすればこの虚偽が、時漏町の伝承として日の目を見ることとなっていたかもしれない。

 結果としてこの町が選んだのは朱鷺沢の作ったジロチョウ河童伝説。河童を実在化させるまでに至ったこの情報流を、いまさら「報瀬川のジロチョウ河童」で書き換えることは不可能だろう。

 八重と早希は、朱鷺沢の式である〈ジロチョウ河童〉がフェイクであると知っている。加えて『時漏れ』に載った「報瀬川のジロチョウ河童」もまたフェイクであると知っている。その上で、源流としては「報瀬川のジロチョウ河童」のほうが先だと認識し、どちらも嘘だと理解した上で、「報瀬川のジロチョウ河童」という文脈に乗ることで、河童すなわち懲罰という単純明快な図式を己で描くことができている。

 だが、この単純明快な図式を描くために必要な前提知識は、あまりに膨大だ。虚実の境目を右往左往しながら、真に正しい情報を見極め、さらには嘘を嘘であると認めた上で援用しなければならない。

 とうていパニック下にある町の住人たちに実現可能な技術――思考法ではない。

 朱鷺沢の式を無効化できたのは、八重と早希が特殊な事象であるからということにしかならない。そしてこの式を完全に破却するためには、ふたりだけではどうにもならない。

 八重が縛り上げた河童を見下ろしながら、早希は妙な現実感を味わった。河童というものはそもそもが存在しない。だが今こうして目の前に河童が転がっている。朱鷺沢が嘘を真に変えてしまったから――。

「あ」

 早希ははっとして、懲罰されたことで力をなくしている河童を持ち上げる。

「先生。これはなんですか」

「河童だな」

「はい。河童です。河童は、現にここに存在している。伝承の中にでもなく、偽史の中にでもなく、今、ここに、河童がいる」

 怪訝な顔をする八重。早希の言葉は止まらない。

「先生、河童の伝承を生み出すもっとも簡単な方法はなんでしょう」

「実際の水難。土地土地のもとからあった伝承。それらが合わさって――」

「違います。はい。違います」

 早希は河童を高々と掲げた。

 呆気に取られた八重の顔を、早希は初めて見た。

「河童の伝承は、河童から生まれたものではない――それは確かに仰る通りです。私だって昔の日本に河童が生きていたなんて微塵も思いません。でも、これは」

「――

「はい。河童が出てきてしまったのなら、この河童を使って、新しく伝承を作ってしまえばいい。今この地点から、河童の伝承を始めるんです」

 八重は文字通り頭を抱えた。

「こんなこと――許されんぞ。史談会が黙っていない。朱鷺沢の話からして、連中はすでに動き始めている。いいか、今井。お前のやろうとしていることは、ねじ曲げられた歴史をさらにねじ曲げることにほかならない。確かに、この河童を利用して住民に河童懲罰ミームを植えつけることはできるかもしれない。そうなれば住民の手による反撃が可能となるだろう。だが、この町の情報流はめちゃくちゃだ」

「先生。先生は――責任を取ってくれるんですよね」

 鋭く、八重にまなじりを向ける。八重はジロチョウ河童という言葉の火元として、これがすべて虚偽であったと主張していく責任を果たすと誓った。

 ならば、同じこと。

「先生が否定してください。ジロチョウ河童伝説なんてないと。河童懲罰の伝承なんてないと。ずっと、ずっと。否定し続けてください」

「――それが、責任か」

 頷くと、早希は両腕に河童を一体ずつ抱えて、避難所となっている公民館へと向かう。

 八重を置き去りにして。ひとり、過去への負債を抱えて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る