20 日本史談会
どうしてこんなことをするのか。
やっと発言することを許された今井早希は、まずそう訊いた。
「気に食わないからです」
笑顔で答える朱鷺沢未来の表情を見て、早希はぞっと肝を冷やす。
「加古川先生に新しい教え子がいるなんて許せない。あのひとは永遠に、私だけの先生でいてほしい。それだけですよ?」
言葉を違えれば――死ぬ。
直感が早希に告げていた。この女はだめだ。少しでもボタンをかけ違えてしまえば、そこから破滅まではあっという間。
「――私のことはいいんです。訊いているのは、今のこの町についてです」
早希はセダンの助手席から、遠巻きに神社周辺の様子を見ることを許されていた。
河童だ。
突如現れた河童が、住人も観光客も関係なく襲いかかり――殺し回っている。
最初にここは安全だと聞かされていたが、かえって胸くそが悪くなるだけだった。これでは早希まで高みの見物を決め込む観客ではないか。
運転席の朱鷺沢は、おやおやとわざとらしく首を傾げる。
「ジロチョウ河童なる伝説を掲げて町おこしに利用していたのはこの町の方々でしょう。私にはまるで介在する余地がありません」
とぼけやがって――悪態を吐きそうになるのをぐっとこらえる。
この女は呪いを操る。しかも相当悪質な手順を用いて。
堀川の家にしかけられた呪い――あれを早希が破ったことで、朱鷺沢は姿を現した。本来なら起こるはずだった呪詛返しを、逆に探知機のように使って、早希の居場所を探り当てたのだ。
朱鷺沢はこの町のあちこちに同じような呪いをしかけていた。早希を捕らえたあとの朱鷺沢はよく喋った。だから早希は今では、この女が自在に呪いを操ることも知っている。どういうからくりなのかまでは明かしていないが、勘所は押さえてある。
だからこの河童の襲撃も、朱鷺沢のしかけたものだとすぐにわかった。
「あなたは、文脈を使うんでしょう」
今のところの、早希が出した答えだ。
文脈――前後の文章における対応関係。その展開。そして大局的な流れ。
早希が言いたいことには、無論この辞書的な意味合いも含まれている。それ以上に強く意識しているのは、いわゆるインターネット上のジャーゴン的な用い方。
アニメや漫画といった作品のストーリーの大筋や、細かい表現の理解と解釈に際して援用されてくる、別のアニメや漫画、または作品群の一連の流れ――そうしたものを文脈と呼称することは日常的に行われている。
文脈に乗せる。文脈に寄せる。文脈に乗っかる。
つまり朱鷺沢は、すでに存在する文脈に、己のしこんだ呪いを勝手に乗せて流すということを行っている。
過去に起こった呪殺事件。存在する過去という流れを、実際の新聞記事という触媒を用いて呼び起こし、援用して本物の呪いへと化けさせる。
結果として呪いというかたちになっているが、朱鷺沢が操るものの本質は文脈にほかならない。
河童もまた大きな目で見れば呪いのようなものであり、同時に時漏町を流れていく文脈も存在している。
「ああいやだ。加古川先生に何を教わったんでしょう。まさか加古川先生が他人に私の式を教えることはないとは思いますが」
「大丈夫です」
少し、笑う。
「加古川先生は自分のことについて、何も話してくれませんでしたから」
殺気。早希の言葉を挑発と受け取った証だ。
八重の入れ知恵がなくても、早希は自分で朱鷺沢の呪いの本質にたどり着いた。八重を信奉している様子の朱鷺沢からすれば、自分の手の内が割れたことに対するもっとも安全な言い訳を塞がれたかたちになる。
「――そうですか。なら、あなたは加古川先生について何も知らないと」
「社会科の先生で、郷土史部の顧問であること以外は、何も」
本当のことだ。早希は八重のことを何も知らない。なぜ呪いを振りまく女が八重に執着しているのか。ふたりは過去にどういう関係だったのか。
「でも先生は言ってました。昔、私と似た教え子を受け持ったと」
朱鷺沢の表情が寸の間、歓喜に歪み、途中で憎悪へと変わった。
八重はかつて早希とふたりで街に出かけた時に、早希に似ていたという教え子について少しだけ話した。だがそれは過去の回顧ではなく、迷っている早希を導くための例示にすぎない。
考えてみれば八重は絶対に自身の情報の領域に早希を立ち入れさせなかった。少し異常に思えるほどにまで、八重は自分自身について何も語らない。
だけど、早希は八重と同じ時間を過ごした。
かけがえのない時間だ。八重から教わったことは授業以外の内容はあまりないが、放課後に図書室でふたり、机を挟んで向かい合っていた時間は誰にも奪えない。
「あなただったんですね」
「――先生が私のことを覚えていてくださったことはいいでしょう。ですが、私があなたと似ている?」
互いに視線をぶつけて、微動だにしない。思っていることは同じだ。
――こんな奴と私を一緒にされたくない。
だからこそ、ふたりを似ていると八重は評したのかもしれない。互いに一歩も譲らない意地の張り合いをしている早希と朱鷺沢は、確かに同じひとに憧れた。今も。まだ、ずっと。
「あなたが術者ではないことは見ればわかります。先生から何も教わっていないのも、何も知らないのも本当でしょう。ですがあなたは私の式を見つけだし、破った。自覚がないだけで、その実鋭敏な霊感を有している。先生はきっと、あなたのその才を――」
「いいえ」
言わせない。言わせてやらない。
「先生にとって私は、ただの教え子のひとりです。たまたま郷土史部に部員が私しか存在しなかったから、まだ覚えてもらえているだけ」
朱鷺沢は八重が、早希の隠された才能を見出そうとしていたのだと思いついた。いつか自分を脅かす伏兵を育てるために。そう考えれば八重が早希と朱鷺沢を似ていると言ったことに説明がつくから。
だが、そんなはずはない。早希は本当に八重から何も教えられていない。東京に進学した早希が時漏町に祭りの時期に戻ってきていたのもただの夏休みの都合。
むしろ、八重は――早希に目の前の女のようにだけはなってほしくなかったのではないか。
「――本当に、気に食わないですね」
そうだろうな。早希も同じ気持ちだった。出会ってから大した時間も経っていないのに、早希は朱鷺沢の気持ちが手に取るようにわかる。朱鷺沢も同じはずだ。だから互いに譲らないし譲れない。
隼人の家で早希を捕らえた朱鷺沢は、市の中心にあるホテルの一室を早希に与えた。自分はその隣に泊まっていると告げて、逃げようとしても無駄であると念を押された。
スマートフォンは取り上げられ、外部との連絡は絶たれたが、その実ホテルでの生活はなんの不自由もなかった。食事はすべてルームサービス。使えるものは何を使ってもよく、早希は飲まなかったが酒類も自由だった。代金はすべて向こう持ち。さすがにこの状況で増長したりはしなかったが、早希は初めて与えられたそれなりのホテルでの一日というものを思いのほか快適に過ごすことができた。
ジロチョウ祭り当日には解放すると言われていたし、ただ一日をホテルで過ごすだけだと簡単に割り切ってしまえた。
ただ、鞄から『時漏れ』が抜かれていたことに気づいた時は、大きく動揺した。
あの冊子を誰にも見せないというのは、八重と交わした約束である。しかも八重は朱鷺沢が図書室に現れてすぐ、『時漏れ』を引っ張り出して早希に預けている。つまり朱鷺沢の手から『時漏れ』を守ることこそが、早希に与えられた役割。
だというのに早希は簡単に朱鷺沢に捕まり、『時漏れ』を奪われてしまった。自分の不甲斐なさに歯噛みしつつ、朱鷺沢の手から本を奪い返すことは不可能であろうとも気づいていた。この時点でもう、早希は朱鷺沢が尋常ならざる術を操る人物であると理解していた。
本来なら、早希は『時漏れ』を奪われた段階で用済みとして殺されていてもおかしくなかった。
今なお、早希は朱鷺沢に囚われているかたちになる。立場上は朱鷺沢が圧倒的優位に立っている。この女には早希ひとりの命など容易に手折ってしまえるだけの技術と精神がある。
だが、加古川八重というひとを通して見ると、ふたりは驚くほど対等だった。朱鷺沢が今日まで早希を手にかけなかったのも、八重の存在を背後に感じ続けていたからにほかならない。
朱鷺沢は八重に激しく執着している。早希にははっきりとわかる。でなければ早希がこの場で話すことすら不可能のはずだ。
「なぜですか、先生――先生ならこの子を術者に仕立て上げることくらい簡単だったでっしょうに」
「先生は、そんなことはしません」
「知ったような口を利かないでください。私はかつて先生に自分のすべてを晒したんです。私という人間の人生、得た技術、式を操る方法――先生なら、それをあなたにそのまま伝授することなど容易かったはずです。何より、あなたにはその才がある」
「でも、先生はそんなことはしませんでした」
「不可解ですよ、本当に。先生が私の暗躍に気づかなかったはずがない。私を超える術者を育てる時間もたっぷりあった。この光景は、本来防げたはずだったのに」
町は近いうちに死ぬ――早希はみながそう諦め、願い続けた町の中で育った。
その中で死ぬことのない唯一のひと――加古川八重は、きっと朱鷺沢の言う通り、ジロチョウ祭りという動きの背後に朱鷺沢の影があることに気づいたのだろう。
時間はあった。ジロチョウ祭りが地域に根差し、高名を轟かせるようになるまでの時間が、たっぷりと。
だが、八重自身はあくまで中学校の教員。朱鷺沢のような特殊な力は持っていない。あるいは、持つことをよしとしなかった。
朱鷺沢の式が町に流れ込む間、八重の手元には早希がいた。ジロチョウ祭りという名前が決定されたまさにその時、早希は中学生として八重が顧問を務める郷土史部に所属していた。部員は後にも先にも早希ひとりだけ。そして早希には、朱鷺沢に比肩しうる才能があった――らしい。
朱鷺沢の脅威が目に見えていたのなら、八重には早希を朱鷺沢への対抗策として育成することが可能だった。中学を卒業しても、家は時漏町の中にある。八重が個人的に早希を鍛える時間はいくらでもあった。
現実は、早希が中学を卒業してから今年帰省するまで、両者は一度も顔を合わせることはなかった。
八重はあくまで早希を生徒のひとりとして扱った。
早希を、町と心中させないために。
早希は若い――あのころは幼いと言ってもよかった。町から逃げ出すことは八重が教えてくれた通りに簡単で、時漏町というコミュニティと完全に縁を切ることも可能だった。
時漏町が朱鷺沢の式に食い荒らされたとしても、町を出た早希には関係のないことになるはずだった。
八重は早希の未来を重んじた。こんな町のために早希の自由を奪うことをよしとしなかった。
ただ、その中でも八重は朱鷺沢の式への切り札となる『時漏れ』を秘匿し続けた。朱鷺沢の手に渡れば、文脈が完成し、式が現実への侵食を始める――それほどの爆弾を、図書室の閉架に隠し続け、自ら監視し続けた。
朱鷺沢が『時漏れ』の存在に気づいた時、八重の目の前には早希がいた。どれほどの葛藤があったのかは推し量れない。八重は『時漏れ』を早希に託した。早希の霊感を買ったわけではなく、ひとりの教え子としての早希をただ信頼して。
「先生は」
早希は悔恨のあまり、我知らず声を漏らしていた。
「私を信じてくれた――」
その言葉は早希にとって、『時漏れ』を奪われてしまった自分の不甲斐なさを悔いる言葉だった。
ところが、運転席で絶句している朱鷺沢にとっては違う。
ふたりはいま、奇妙な一体感の中にあった。互いを絶対に認めないかたちでのシンクロによって、異様なまでに互いを理解することができていた。
そのただ中、朱鷺沢を向いてではなく、己の内省というかたちで漏れ出た早希の言葉。朱鷺沢にとっては、それもまた己に向けられたものだと錯覚する。
結果として、早希の言葉は致命的なまでの挑発と嘲弄となって朱鷺沢を襲った。
一拍遅れて、早希にもまた自分の不意の言葉のおよぼす作用がはっきりと理解できた。肌が焦げそうになるほどの凄まじい殺気を朱鷺沢が隠そうともしなくなったからだ。
早希は、少しだけ後悔した。このひとと自分は絶対にわかり合えない。だが互いに八重を思う気持ちだけは本物だった。あるいは朱鷺沢を思いとどまらせ、この惨劇を止めてもらうことも可能だったかもしれない。
同時に、せいせいした、というのも本心だった。図らずも朱鷺沢の一番弱く柔らかい部分を貫いたことで、彼女から真っ直ぐな殺意を引き出すことができた。
朱鷺沢はハンドルに顔を突っ伏して口の中で何事か早口でつぶやくと、その体勢のまま顔だけを早希に向けた。
「降りなさい」
早希は朱鷺沢から視線を逸らさない。そのせいで車外の様子は見えないが、先ほどまでと同じなら、河童による殺戮の嵐が巻き起こっている最中だ。
その中に早希を放り出す。今日まで大事に身柄を確保しておいた相手に対する最後の仕打ち。
「河童に殺されるくらいがあなたにはお似合いでしょう」
早希は口の中で笑った。
それは、あなたが負けを認めたことを意味する。
対等の立場ではどうしようもなくなって、もとの優位性を取り戻し、早希を死地に追いやる。
対決することを恐れ、目先の命のやりとりだけに注目した結果の愚策。
だが同時に、早希にとっては間違いなく絶体絶命の危機であることも事実だった。車外に出れば河童が襲ってくる。身を守るすべはない。
「降りなさい。降りないのなら、私が直接手を下しますが」
もはや殺意を隠そうともしない。
早希はシートベルトを外し、ドアを開けて車から降りた。ドアを閉めても、車は走り出したりしない。朱鷺沢はここで早希の断末魔を見物していくつもりらしい。
目の前の神社ではいまだに悲鳴が上がっている。あそこには河童がいるらしい。果たして気づかれずに逃げ切れるだろうか。
駆け出そうとはしなかった。無駄に気配を立てて気づかれるほうが怖い。ならばそそくさと立ち去るのが一番生還する確率が高いのではないかと踏んだ。
大きく、クラクション。
朱鷺沢が乗っている車のハンドルの中央を思いきり押したのだ。これは早希への警告であると同時に、処刑宣告。
クラクションに気づいた河童が何体か、こちらへと寄ってくる。その視界のうちにすでに早希は入っており、こっそり逃げ出す算段は早くもご破算となった。
走るか。走るしかないか。
ぺたんこ靴で家を出たのは正解だった。思ったよりは走れている。ただもともと体力には微塵も自信がない早希である。どんどんスピードは落ちていき、河童の生臭い体臭がすぐ近くまで迫っていることがわかる。
しかし、なんでまた河童に襲われなければならないのか。
だって、ジロチョウ河童というのは、もともと――。
べしゃり、と腐った野菜を地面に叩きつけたような音がした。
振り向くと、早希を追っていた河童が、二匹まとめてスクーターに跳ね飛ばされていた。
停車したスクーターから降りた人物はどこから取り出したのか麻縄を轢かれた河童に巻き付け、二匹まとめて電柱に吊し上げた。
「河童が人間に悪さをするとどうなるか知っているか」
声を聞いて、早希の背筋がピンと伸びる。
「それは――」
「一般的にだ。一般的な民話、伝承の文脈で、悪さをした河童がどうなるか」
河童が人間に悪さをする民話は無数に存在する。中には筆舌に尽くしがたい悪事を行うものや、ただ人間を殺して終わりというものもあるが、一般的な文脈で言えば――。
「――懲罰です」
河童が悪事を行うと、人間から手痛い仕置きを受けることとなる。河童は許してもらうために、詫び証文を書いたり、薬の製法を教えたりする。懲らしめ、罰するというサイクルは河童伝承の中で自然に位置づけられている。
「そうだ。悪い河童は即、懲罰だよ」
ヘルメットを外した加古川八重は、不敵に笑っていた。
「先生――!」
早希は八重のもとに駆け寄ろうとして、膝が笑っていることに気づいた。ずっと続いていた朱鷺沢との対峙と河童から逃げ続けるという恐怖が、もっとも安堵できるひとの顔を見た途端に遅れて押し寄せてきた。
「すまなかった」
八重はそう言って、地面に倒れそうになる早希の身体を抱きとめた。思わず変な声が出てしまうが、早希は必死に言葉を振り絞る。
「すみません、先生。あの本を朱鷺沢さんに読まれてしまいました。ごめんなさい……先生が私に託してくれたのに」
「それについていま、謝っている。すまなかった。お前を巻き込むべきではなかった。お前は私が思っているよりも、ずっと聡明だった。あいつの網に引っかかるようなことはないだろうと見くびっていたんだ」
八重は早希に何も教えていない。つまり朱鷺沢のしかけた呪いのトラップに対し、気づくこともなく、ましてや呪いを打ち破るような真似をしでかすはずがないと八重は考えていた。朱鷺沢のほうはどうやら早希が八重から教えを受けていると勘違いした上で呪いを探知機としてしかけていたようだから、八重の見積もりは正しかったことになる。本来なら早希はもっとも安全な『時漏れ』の保管者になるはずだった。
だが早希は自力で朱鷺沢の呪いを破壊してしまった。その結果朱鷺沢を呼び寄せ、『時漏れ』を奪われた。
自分の失態だと早希は思っていた。だが八重からすれば、これは早希の能力を低く見積もりすぎた結果招いた過失となる。
申し訳ないという気持ちもあったが、それ以上に早希は妙な誇らしさを覚えていた。
八重の教え子として、朱鷺沢に対等に嫌悪される存在となっているこの状態は、確かに恐ろしい。だが、自分もまたれっきとした八重の教え子なのだと胸を張れることは、そんな恐怖を振り払ってあまりある。
「先生――」
「さて。今井、私はこれから朱鷺沢と話すことになる。お前には何も教えてこなかったが、最後に隣で聞いておいてほしい。それくらいしか、私に償えることはない」
黒ずくめの女がゆっくりと歩いてくる。
朱鷺沢未来。加古川八重、最後の教え子。
「加古川先生、今までどこにいらしたんですか?」
朱鷺沢は小さく笑みを浮かべていた。ああ、よくない笑顔だな、と早希は理解する。気を抜けば即座に喉元に食らいついてくる、獣の笑み。
「お前の知らないところだ。場所を移すぞ。道路の真ん中に突っ立って話すわけにもいかないだろう」
歩き出す八重に続いて、早希も歩を進めたのを見た朱鷺沢が凍りつくような殺気を放つ。
「その子はいらないでしょう。邪魔をするなと言っておいてください」
「いや。今井にはちゃんと最後まで話を聞いてもらう。私の教え子だからな」
「先生ッ!」
朱鷺沢はいきなり声を荒らげた。早希は怯むことなく、八重のあとについていく。
「お前もそのつもりで、こいつを捕らえていたんじゃないのか」
そうだ。朱鷺沢は確かに早希のことを『気に食わない』と評している。八重の教え子が自分以外にいることが腹立たしい。それこそが早希を捕らえた理由だと。早希と朱鷺沢は互いにその真意を理解し合っていた。
ならば臆することはない。朱鷺沢の勘違いを、八重が肯定してしまった。こうなればもはや朱鷺沢に逃げ場はない。
八重は悲鳴の上がり続ける神社に面した公園の出店の間を歩いていく。とっくに出店の人間も全員が退散しており、祭り当日とは思えない閑散ぶりだ。
公園の中央付近、イベントテントの下には長机とパイプ椅子が並べられ、テントの支柱には酒類のメニューが書かれた短冊が貼りつけられている。地元の者たちが出店で買った食べ物をつまみながら酒を酌み交わすスペース。当然ここにもひとはいない。
八重はパイプ椅子に腰を下ろした。机を挟んで向かい合うかたちで朱鷺沢も座る。早希は思わずあっと声を上げそうになった。そのポジションは、自分が八重と過ごした時と同じものだったからだ。
八重は自分のすぐ隣のパイプ椅子を引いて、早希に座るように促す。少しドキドキしながらも、早希は慣れない八重の隣という位置に腰を据えた。
「まずきちんと自己紹介をしてもらおうか」
「朱鷺沢未来。日本史談会特務技官――元、ですが」
「辞めたのか」
「ちょうど先ほど、罷免の通達がありました。耳が早いことです」
「いくら今の史談会でも、こんな暴走を見過ごすはずはない、か」
八重は咳払いをすると、まず、と授業を始めるように口を開いた。
「日本史談会という組織について、聞いたことはあるか?」
「すみません。初耳です」
早希が答えると、八重は当然だと頷いた。
「日本史談会は政府組織ではあるが、存在は非公開となっている。早い話が裏国家機関というやつだ。陰陽寮は知っているな?」
「はい。陰陽師が所属する機関で、明治の初めに廃止されたという――」
「それと似たようなものだ。こいつはもともと陰陽寮出身だからな」
思わず変な声が出た。非公開の政府組織が存在し、さらに言えば廃止されたはずの陰陽寮が今日まで存続している。いきなり情報量が多すぎる。
「日本史談会というのは、簡単に言えば『正しい日本史をつくる』組織だ」
八重の語るところによると――。
日本史談会の発足は戦後すぐ。当時日本各地で起こっていた、地方の民俗を収集し記録し発表していく活動を取りまとめるために、中央の学者たちによって自発的に生まれたものだという。
当時は「日本史談会」という名称は存在しなかった。各地に生まれた郷土研究会や史談会といった組織を取りなす組織として、存在しているかどうかも曖昧な立場であった。その中で上位組織をおおまかに言い表す語として、地域名や団体名が付属しない、「史談会」という三文字だけの抽象的な名称が用いられていた。
ところがこのぼんやりとした史談会の中で強権を振るった者がいた。早希ですら名前を知っている民俗学者――と言えばおおよそ了解いただけるはずだ。この民俗学者の存在がすなわちそのまま日本民俗学と言ってしまえる状態が長く続いたとも聞く。
民俗学者は史談会を日本の中央に組み込もうと暗躍した。もともと中央省庁出身の彼は老いたあとも狡猾な強かさは失っておらず、結果として公にはならない組織として、日本史談会は中央機関の中に取り込まれた。
公にならなかった理由として、この時期――現代でも――に自国の歴史や民俗に国家機関が介入するという行為のデリケートさが挙げられる。いまだ戦後の空気が漂う中において国主導で日本の歴史を編むということは大いに憚れた。
無論、民俗学者もこの危険性を十二分に理解していた。日本史談会内にだけ伝わる彼の発足に寄せた言葉の中にも、彼がいかに政治と民俗学の関係を重視し注意していたかがわかるという。
その上で、日本史談会はある種のストッパーとしての役割を担わされることとなった。
学術的視点で常に日本の歴史を監視し、ねじ曲げられたり修正されたりする前に諫言を行い、正しい日本史を保持する。
言うなれば歴史修正の修正者として、日本史談会は国の裏にずっと控えていた。
「ここまでが日本史談会の成り立ちだ。何か思うところはあるか?」
八重に訊かれ、早希は言っていいのかどうか迷いながら、自分の考えを口にした。
「なんというか、その……理想論が過ぎないか――と」
八重は深く深く頷いた。早希の言葉を強く噛み締め、じっくりと嚥下していくようであった。
「そうだな。この理想論のままで、日本史談会が勢力を維持し続けることは当然できなかった。ちょうど私が日本史談会に所属していたころに、大きな変革が始まった」
公になっていない組織の内情についてなぜ八重がこうも詳しいのか。もはやその疑問については直接答えるつもりも隠すつもりもないようだった。
加古川八重はかつて、日本史談会に所属していた。
「日本史談会は公的機関であり、同時に非公開の機関である。日本史談会は政府機関でありながら、理念上は国家から独立し権力の監視装置であることを定めている。だが当然日本史談会における人事や財務は常に秘匿され、すべてが密室の中で行われることになる」
早希は思わず苦い顔をした。
考えたくもないが、似たような事例は表側でも起きている。
「権力による強引な介入。秘匿された組織に政府が直接手を入れれば、組織のほうは手の出しようがない。なにせ日本史談会は発足からずっと非公開。今さら自分たちの存在を世間に認知させようとすれば、無用な混乱を招くことは容易に想像がつく。それくらい日本史談会という組織はセンシティブな存在だった。史談会のほうは国のためを思って口を噤み、政府のほうは目先の権力にしか目を向けない。こうなればもう思うつぼだ。世論の反発も気にする必要すらないとなれば、向こうは好き放題に史談会を飼い慣らすことができる」
こうして、日本史談会は理念上の死を迎えた。八重のように史談会に見切りをつけて離れていった者もいたが、自分たちが最後の砦となるべく変わり果てた組織に骨を埋める覚悟を持った者も多く残った。
「私が知っているのはここまでだ。あとのことは知らんし、興味も持たなかった。ただ、朱鷺沢が史談会に合流した時に指導役として史談会本来の理念を叩き込んだ。その時に朱鷺沢から見せられた式を理解して、これからの史談会が何をしたいのか、だいたいの予想はついた。それで史談会を離れる決意が固まったわけだが」
溜め息とともに話を止め、朱鷺沢に水を向ける。
「加古川先生の教えは今でも私の中に生きています。痛すぎるほどに」
朱鷺沢は手袋をはめた掌で顔を覆っている。黒い絹の手袋で陰を作ると、朱鷺沢のすべてが漆黒に呑まれていくように感じられる。
漆黒の奥で、炯々とした光が燃える。朱鷺沢の瞳は闇の中、静かにこちらを見据えていた。
「この国の自治体の人間がいま、私たちに何を言っているかご存知ですか」
八重は無言。おそらく答えを知っているゆえの沈黙。
「歴史をくれ――ですよ。真実でなくてもいい。嘘だとわかっていてもいい。最初から作り物でもいい。我々に自分たちの土地を愛するに足る保障をくれと、みなが言ってくるんです。子供たちに地域の歴史に興味を持ってもらうため。地域の豊かさをアピールするため。死にゆく町を蘇らせるため。理由はなんであれ、理屈は同じです。虚偽でもいいから、今すぐに面白い歴史をくれ――」
朱鷺沢はきっと、今の早希と同じ気持ちだったはずだ。八重の教えを受けたというのなら、そこに差異は生まれない。
ふざけるな。
虚偽であることを知りながら、それをばらまくどころか、自分たちの郷土愛とやらに利用しようと目論む。
歴史の利用などではない。これは歴史そのものの否定にほかならない。
歴史とは今日に至るまで多くの人間の言葉、知識、研鑽、覚悟、憎悪、祈り――無数の声が幾重にも積み重なってできている。
偽りの歴史は、いとも容易く無数の声をかき消してしまう。
これは未来へと遺産を残す行為では断じてない。ただ、過去への負債を積み重ねる。破滅を呼び込むだけの愚行だ。
以前に八重から聞いたことがある。
――もっとも簡単に嘘を本当に変える方法を知っているか?
それは嘘を吐き続けることであると、八重は暗い目をしていた。
特に歴史、民俗、文化において、虚偽の言説を否定する行為には、決まって虚偽の言説を流布するよりもはるかに重いコストがかかる。
悪魔の証明――証明することが不可能である領域に足を踏み込んだような論も出てくる。相手取るには膨大な知識と資料の収集、時間が必要となる。ところが虚偽の言説を流した側は、そんな手間を端から必要としない。反証にリソースを割かれている間に、新たな虚偽を次々と打ち出せば、すべての反証を行うためには膨大なリソースが必要となってしまう。
加えて厄介なのは、そうした言説は、聞く側にとって心地のいいものばかりであることだ。学術的立場から否定しようとすれば、虚偽の言説を聞いて悦に入っていた人間から無粋なことをするなと野次を飛ばされる。
さらに最悪なのが、聞き心地のいい虚偽は容易に地域ナショナリズムと合流する。
朱鷺沢の言う通りの、虚飾でできた歴史は誇りも見識も何もない地方に簡単に溶け込んでしまう。
許せない――はずだ。
八重の教え子なら。真っ当な価値観を有する人間なら。
「だから、私はこの町を選びました。滝尾彼方というライターを表に立て、地方創生の看板を立てている間、呆れるくらい無数の相談が寄せられてきました。その中に時漏町の名前を見つけて、すぐに先生の故郷だと気づいたんです」
この町の誰かが、滝尾彼方に依頼をしたことがきっかけ――早希もジロチョウ祭りの勃興と周辺展開を見てきたから、すぐに理解がおよぶ。
「滝尾に時漏町の案件に取りかかるように指示を出し、私は彼のマネージャーの立場につくことですぐ近くから指示を出すことにしました。滝尾は弁舌とパフォーマンスだけの無能ですが、私の指示にさえ従っていればすべてがうまくいくことを経験から知っています。滝尾が出してきたアイデアの中にジロチョウ河童というものがあったので採用し、河童を使った町おこしを推し進める方向で決定。ただ、予想外の事態がひとつ」
朱鷺沢が持ち去ったあの冊子。早希が八重から託された、ジロチョウ河童の一次資料。
「ジロチョウ河童という言葉はてっきり滝尾の口から出任せだと思っていたのですが、あの男はこの町の人間から名前を聞いていたことを、ずっと隠していました。うまくすればジロチョウ祭りの手柄をひとり占めできると踏んで、あえて報告をしなかった。あまりにも愚かです。そんな工作などせずとも、史談会の絡んだ案件はすべて表に立つ人間の功績として計上されるのに」
朱鷺沢は文脈を使う。予定では、滝尾が作ったということにしたジロチョウ河童伝説という文脈を使うはずだったのだろう。だが、その奥に流れる文脈の見落としは、下手をすれば術者に致命的な急所を生み出す。
「私の式、〈
情報流――早希の思う文脈のことだろう。河童という妖怪の情報流は太く長い。だがジロチョウ河童伝説という情報流は、そもそも存在しなかった。河童というメインストリームから流れを引き込み、新しく生み出した流れを式によってねじ曲げ、補強する。ジロチョウ河童という情報流は最初から朱鷺沢の意のままだった。
遠くからはまだ悲鳴が聞こえてくる。朱鷺沢の式によって形成されたジロチョウ河童伝説に登場する河童たちが人々を襲い続けている。
「無論、何もないところに式を打てるわけではありません。この町の人間がジロチョウ河童伝説を受諾し、自ら拡散を行っていなければ情報流そのものが存在しないからです。自ら生み出し育てた河童伝説によって滅びを迎える。私が考えたのはそんな意趣返しでした」
今この町に流れているジロチョウ河童伝説は、滝尾彼方が考案し、本来の歴史や文化とはまったく無縁のかたちで組み上げられた代物。朱鷺沢の式は、そうした「でっち上げ」に対して有効に働く。おそらく本来は、でっち上げ自体を補強するために用いるものなのだろう。
だが、朱鷺沢は八重の教え子だ。
そんな蛮行を許せない心を持っている。それゆえに、このような凶行におよぶまで心が壊れてしまっている。
「加古川先生。最後に教えてください。先生の書いた『報瀬川のジロチョウ河童』。文中では祖父から聞いた話とされていますが、あれは――」
言いよどむ朱鷺沢を見て、八重は大きく溜め息を吐く。
「今井に祭りの名前を『ジロチョウ祭り』に変える話が出ていると聞いた時から、ずっと考えていた。相手はどこまで知って動いているのか。だが、今のお前の話を聞いて、少しがっかりしたよ、朱鷺沢。お前なら私を糾弾し、殺すことができたはずなのに」
「先生――では、やはり……」
「お前なら式を打った時点でわかっていただろう。そうだ。私がかつて書いた『報瀬川のジロチョウ河童』という報告は、全部でたらめの嘘っぱちなんだよ」
あのころ――八重はどっと疲れたようにパイプ椅子にもたれかかる。
「私はこの町にもきっと何か古い伝説が残っているはずだと、自分に言い聞かせ続けてきた。そうでなくてはこの町に生まれただけでほかの土地よりも劣っていると感じていた。お前の言うような愚かな地域ナショナリズムに染まりきっていたんだ。その結果として書いたのがあの文章だ。一から十まで私が自分の頭の中だけで考えた、どこにでもありそうな河童懲罰民話」
本来なら、八重の文章の載った『時漏れ』は埋もれていくはずであった。八重自身、誰もが『時漏れ』の存在など忘却すると信じていた。
「年を取るにつれ、私はかつての行いの愚かさを痛感するようになっていった。だけど『時漏れ』は少部数しか刷られていない部誌でしかない。誰の目にも留まることなく、私の愚行も露見しないだろうと思い続けてきた」
しかし、『時漏れ』を読んだ者は確かにいた。古書店で見つけた本に載っていたジロチョウ河童の名。刊行年を確認して、八重は絶句していた。『時漏れ』が出てから一年後にはすでに、八重の書いたでたらめを地域の伝承として引用する者が存在した。
あの時の八重の動揺は、隣にいた早希ですら困惑してしまうほどだった。
文章を書いて世に出すことの責任。八重は数十年越しにその重さに押しつぶされそうになっていたのだ。
だからなのか。
八重がジロチョウ祭りを止めようとしなかったのは。
「これが応報かと思ったよ。私がかつて犯した歴史に対する罪が、姿を変えて襲ってきたのかと。ならば私は甘んじて受け入れようと思った」
「先生、それは違い――」
「いいえ。違いませんよ」
思わず口を挟んだ早希を、朱鷺沢は射殺さんばかりの目つきで睨んだ。
「私は〈
「ああ、その通りだ」
うなだれる八重。ここまで打ちのめされた人間の姿を、早希は見たことがない。
「今からでも遅くはありませんか」
「ああ」
呻き声と変わらない返答の八重を見て、朱鷺沢はすくと立ち上がる。
「では私は当初の目的を遂行します。この町に根を下ろしたジロチョウ河童伝説という情報流を〈
テントから出た朱鷺沢は、振り向くのと同時にすっと指を八重に向ける。
「加古川先生。あなたへの糾弾の意味合いを加えます。日本史談会に籍を置いた者として、あなたが過去に犯した罪は看過できない。ですから、あなたはあなたがでっち上げた河童に殺されてください」
早希が立ち上がって何か言おうとする前に、朱鷺沢は影のように姿を消していた。
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