19 河童嵐

 河童、河童、としきりに声が響いていた。

 ジロチョウ祭り当日、いよいよ河童神輿が登場しようかというころには、神社の前の人だかりは凄まじいことになっていた。

 地方テレビ局の撮影クルーも複数が揃っている。観光客たちはその姿を見てやはりジロチョウ祭りは注目度の高いトレンドなのだと理解する。

 河童、河童、という声はどんどん大きくなっていた。

 かけ声や煽りではない。そうした決まり事はまだ存在しない。

 では、このざわめきはいったいなんなのか。新島は自分の地区が担当する河童神輿をいつでも出発できるようにスタンバイしながら、外で鳴り響く河童コールに首を傾げていた。

「新島さーん」

 法被姿の西原省吾がちらちらと周囲を見ながら神輿が置かれた裏スペースに顔を出す。

 神社の裏手にあるこのスペースは祭りがジロチョウ祭りと名を与えられるより前から、神輿や担ぎ手のスタンバイポジションだった。表からは様子を窺うことができず、正確な位置を知っている者でなければ中に入ってくることはできない。

 今は最終調整の時間で、この中には新島と西原しかいない。もう少しすれば神輿の担ぎ手たちが気合いと酒を入れてぞくぞくと集まってくるはずだ。

「どうした? なんだか騒がしいけれど」

「あー、それがっすね――」

 西原は最初は言いよどんだが、奥歯に物の挟まった言い方で状況を説明した。

――って騒ぎになってるみたいなんすわ」

「河童ァ?」

 思わず新島は笑ってしまう。ジロチョウ祭りでは河童伝説を下敷きにしているが、あくまで伝説だ。しかも今の新島はそれが正確なものではないという確信すら持っている。

 西原もまた半笑いだ。

「今年から河童の仮装アトラクションとか、ないっすよね?」

「聞いてないな。ハロウィン気分の観光客がコスプレでもしてきたとか」

「いいっすねそれ。来年から仮装参加をアピールするとかありかも」

 笑い合うふたり。

 途端に外から、無数の悲鳴が上がった。

 河童、河童、と悲鳴が響いていた。

 笑った顔のまま硬直した新島と西原は、どうすればいいのかもわからずにずっとその場に立ち尽くしていた。観光客たちの悲鳴や絶叫は増していく。

 ぴた、ぴた、と湿っぽい音が近づいてくる。

 足音だと気づいた時にはもう、それは神輿スペースに入ってきていた。

 

 一発でわかる。新島のイメージする河童そのものの姿をしたそれは、どうやっても着ぐるみや仮装や特殊メイクでは再現できない、異形の存在感を持っていた。

 人間が河童の真似をすることはできるだろう。着ぐるみなり仮装なり特殊メイクを施せば、いい線はいける。むしろ現代の人間による河童のイメージは、人間が化けた河童の比重のほうが大きいのではないか。

 だが、この河童はまったく違う。

 この河童が人間の真似をすることは不可能だろう。そもそもの骨格が違う。背中の甲羅、手足の水かき、湿った表皮。これらはどう取り繕っても人間の特徴とは乖離してしまっている。

「ジロチョウの親分の申しつけで参った」

 河童の声はキンキンと耳に響く甲高いものだった。

「これまでの狼藉、親分は決して許さぬ。この町の人間は残さず水に沈めるようにとの申しつけである」

 ヒョー、と奇声を上げ、河童はいきなり飛び上がった。子供くらいの大きさの河童はそのまま西原の顔面に張りつき、水かきのついた手で西原の首をくるりとねじった。

 西原の顔が、真後ろを向いていた。

 河童は倒れていく身体から飛び降りると、物言わぬ死体となった西原を踏みつけながら新島に狙いを定める。

 新島は絶叫し、外へと逃げ出した。

 なんだ。なんだこれは。悪夢だとしたら冗談がキツすぎる。

 神社の前に出ると、パニックとなった人混みに巻き込まれそうになる。さっきの河童の仲間がここにも現れたのだろう。最悪のタイミングと言っていい。ごった返すひとの山の中で、いきなり河童による殺傷が起こる。間近で目撃した者は我先に逃げ出そうとする。だが密集した群衆をかき分けて抜け出すことは困難を極める。

 そのうちパニックだけが伝播していき、人混みは逃げる先すらわからないまま狂乱の渦に巻き込まれていく。

 新島はここは危険だと踵を返す。パニックを収めるだの、避難を誘導するだのといった馬鹿げた考えは毛頭ない。自分は今も河童に狙われている。とにかく真っ先に逃げることだけを考える必要があった。

 境内を突っ切り、神社の裏側に面するひとの集まっていない道路を目指す。本来は通り抜けはできないが、この町で育った新島は強引に藪を抜ければ道路にまで出られることを知っていた。

 道路に出ると、ここまで神社正面の騒ぎは聞こえてきていた。神輿を担いでいる時よりも大きな声がいくつも上がっているので当然ではあった。

「おう正人くん。なんだいこの騒ぎは」

 道路を走っていくと、法被姿の早川弘道と遭遇した。五年経ってもいまだ衰えない意気軒昂さで、ジロチョウ祭りを裏から引っ張ってきた長老だ。

「か、河童が――」

「河童? 河童はジロチョウ祭りの華だよ。それがどうしたんだね」

「か――河童――」

 はあはあと息を切らす新島を怪訝そうに見て、早川は首を傾げる。

 その傾けた首が、ぐるんと真後ろを向く。

 熱されたアスファルトに倒れた早川の背中から、先ほどとはまた別の河童が飛び降りた。

 新島は絶叫して駆け出す。腰はほとんど抜けていたが、とにかく走ることだけを考える。

 とにかく、ひとの多いところへ。真っ先に思いついたのは祭りの運営本部となっている公民館。ここからだと、かなり遠い。

 いつまた河童が現れ襲ってくるかもわからない。限界を超えた恐怖の中、新島はひたすらに走った。

 疲れは感じなかった。命の危機の前に新島の身体は全力以上の力を発揮していた。恐怖によって強引に分泌された脳内物質が駆け巡っている。半分夢の中にいるような心地で、新島は飛ぶように走った。

 公民館に駆け込むと、中は怒声の嵐だった。

 河童、河童、と喚き声が上がり続けている。

「新島さん、どうされたんですか。真っ青ですよ」

 スーツ姿の橋本誠也が中の罵声から逃げるように顔を出した。

「今、その、どうなって――」

「おかしな話ですよ。町中から『河童が出た』という電話がかかってきて鳴り止まないんです。いったい誰の悪戯なのか……」

「出たんだ」

「はい?」

「河童が、出た。人間を襲ってる」

 橋本はげらげらと笑い出した。やっと身につけた公務員としての対応ではなく、以前の悪童のころと同じひとを馬鹿にした笑い声だった。

「なーに言ってんすか。河童が出たって、それ今年のイベントかなんかっすか? 俺聞いてないっすけど」

「違うんだ」

 きっと公民館にかかってきた電話も、こうやって無視されてきたのだろう。当人たちからすれば必死の訴え――それこそ命の危機だというのに。

 相手が河童では、無理もない話ではあるのか。

 なにせ河童である。妖怪だかUMAだか知らないが、イラスト化されて広告や看板で見かける程度のキャラクターだ。

 それがいきなり出てきて、人間を襲う。

 話を聞いた者たちは、誰も信じないに決まっている。あまりにふざけている。スマホで現実の風景にゲームのキャラクターを登場させるほうがまだ真実味がある。

「本当なんだよ。河童が――」

「わかりました。河童が出たんすね。それで神輿のほうはどうなってます?」

 橋本は新島の言葉を妄言として取り合おうとしない。こんなことならここに河童が襲撃に来れば話がスムーズにすむだろうに。

 ぺた、ぺた、と足音。

 新島は祭り中は開け放たれている公民館のドアを瞬時に閉めた。鍵をかけ、中に向かって声を張り上げる。

「机とか重いもの持ってきてくれ! バリケードを作る!」

 橋本と同じく、中の誰も新島の言葉に耳を貸さない。

「ちょっと、新島さん。いい加減にしてくださいよ。ここ閉められたら俺ら外に出られないじゃないっすか」

 ドアを開けようとする橋本を怒鳴って止める。だが橋本は鬱陶しそうに舌打ちして、ドアの鍵を外した。

 いきなりなにかが激突し、分厚いドアがたわむ。さすがにこれにはぎょっとしたのか、橋本が一歩下がる。

「識別子は――〈ジロチョウ河童〉か。あいつの考えそうなことだ。さて、どこまで乗り込んでいるかだが」

 ドアの向こうで鳥のような悲鳴が上がる。

 そのままドアが開いた。

 外には老いた女教師が立っていた。なぜだかひと目で、この人物が教師であると理解させられてしまう、凄みのようなものがあった。

「加古川――先生」

 橋本が呆然とその名を口にする。そうだ。息子が中学校に通っていた時に何度か目にした、社会科の教師。加古川八重が倦み疲れた表情を浮かべて、公民館に入ってきた。

「河童だ」

 八重は淡々と、事実のみを口にする。

「見てみるといい」

 八重は橋本と新島を公民館の外の壁に案内する。それを見ると橋本が呻き声を上げる。

 河童が公民館の壁に磔にされていた。誰がどうやったのかはわからない。もはや抵抗する力さえも奪われた様子の河童は、ぐったりとうなだれて天日干しにされていた。

「これは――」

「河童だ。こいつが襲ってきた。西原くんや、早川のじいさんも――」

「そんな、馬鹿げてる」

 そう吐き捨てるも、橋本の口からはもう笑いは出てこないようだった。

 八重は新島と橋本を無視して公民館の中を見て回る。すぐに用件を終えたのか磔の河童の前に戻ってきて、ずっとそこに立ち尽くしていたふたりに胡乱な目を向けた。

「この連中を今さら文脈に乗せるのは無理そうだ。新しい文脈に乗せることがそもそもの目的なのだから当然だな。ひとまず、ここは川から距離がある」

 八重に言われて、新島ははたと気づく。河童が棲息するのは川――ジロチョウ河童伝説も報瀬川のものとされている。公民館から報瀬川まではかなりの距離があり、今までここが河童に襲撃されていないのもそう考えれば理屈が通る。

「当面は安心だろう。だから基地にしておくといい。相手は所詮河童だ。立てこもっておけば手出しはできんさ」

 八重は急に磔の河童に詰め寄ると、顔の横で何事か囁いた。河童がなんの反応も返さないのを確認すると、疲れたように嘆息して腹に鉄拳を見舞う。

 いきなりの八重の暴力に新島も橋本もぎょっとする。仏頂面で冷徹そうではあるが、理知的という言葉が似合う女性が意味不明な暴力を振るう。あまりのギャップにふたりは完全に度肝を抜かれていた。

「では私はこれで」

 立ち去ろうとする八重を、新島は思わず呼び止める。

「何か」

「あの、危ないですよ。あちこちに河童が出ている。いつ襲われるかもわからない」

 八重は無言で壁に拘束された河童を視線で指し示す。

「私の世界観においては、河童とはそういうものだ」

 嗄れた悲鳴のようなものを漏らす河童にふたりが目を奪われているうちに、八重は狂騒の町へと踏み入っていった。

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