15 呪詛祓い
新島が「報瀬川のジロチョウ河童」の存在を思い出し、記憶の限りにすべてを話すと、堀川は逐一その内容をどこかへ電話で報告していた。新島がもう話すことはないところまでくると、電話を受けた堀川が新島を解放した。
「本当にありがとうよ……俺たちもこれで助かる……」
丁重に座らされたセダンの中で、堀川は何度も新島に感謝を伝えてきた。
本来拉致監禁された身である新島はこの場で口を塞がれていてもおかしくなかった。ところが車に乗り込んですぐ、やくざのひとりが分厚い茶封筒をうやうやしく差し出してきた。
「ほんの気持ちだ。受け取ってくれ」
どの口が言うのかと怒鳴りたかったが、幸い新島にそんな度胸はなかった。
車内のやくざたちは緊張の糸が解けたかのように、騒がしく穏やかに話し合っていた。
「あの――」
新島はこの監禁を警察に相談に行くつもりでいた。ところが車内の和気藹々とした雰囲気に、なんというか毒気を抜かれてしまっていた。
「いったい、なんだったんですか?」
結局、間抜けな質問をしてしまうことになった。
「俺たちも知らねえんだ。知らねえが、逆らえば命がなかった」
缶ビールで祝杯を挙げている堀川はもう酔っているのか、新島に絡むように話しかけてくる。
「滝尾……先生は、そんなに危ないひとには見えませんでしたけど」
「いや。俺はあのひとが恐ろしい。恐ろしくって眠れねえ」
見れば堀川の目は真っ赤に充血していた。冗談で言っているわけではないらしい。新島を監禁してからこっち、ずっと眠れない日々を送ってきたのかもしれない。
堀川はビールをひと息で飲み干すと、五年前に滝尾と初めて会った時のことを語り始めた。
時漏組に対してアポイントメントを取ってくるような相手はほとんどいない。時漏町を
だからその日の来客は、組全体が剣呑な視線で迎え入れることになった。
滝尾彼方はよく喋った。
町の祭りの改革案。自身の肩書きを利用しての宣伝活動の用意。実現には清濁併せ呑むことが必要であり、なにより時漏組の協力が不可欠であること。そして成功した際のリターンの概算。
すると突然、組長が喉を掻き毟り始めた。
慌てふためく事務所の中で、滝尾はただ静かに、その趨勢を見守っていた。
組長がやっとのことで息を吹き返すと、滝尾は厳かに口を開いた。
「この町の地脈に異変が起きています」
誰もが言葉の意味を理解できないまま、滝尾は続ける。
「長年の意味を持たない祭礼により、この町に流れる霊道は腐り始めています。いいですか、このままでは」
町は近いうちに死ぬ――滝尾の言葉は、なぜだか凄まじいまでの真実味を帯びていたという。
「地脈が乱れれば、その上に暮らす人々の身体にも様々な不調が起こります。社長さん、あなたの身体を診たところ、ずいぶん悪い気を溜め込んでいるようだ」
そういえば組長は数日前から、体調が悪い様子を見せていた。年齢も年齢だったが、滝尾の言葉はまさしく痛いところを突き、痒いところに手が届いた。
応接ソファに組長と向かい合って座っていた滝尾は、すっと立ち上がると背後に回り込んだ。
「ハッ! エーイッ!」
滝尾は気合いの声を入れ、組長の背中を強く掌で押す。
組長が激しく咳き込む。組員たちが殺気を向けるが、滝尾は無表情でもとのソファに戻っていく。
しだいに、組長の呼吸が整っていった。組員が持ってきたコップの水をひとくちで呷ると、大きく息を吐いてソファへと腰かける。
顔色が先ほどまでとは別人のようによくなっていた。
そこからの話は早かった。組長はどうやら滝尾を完全に信用したらしかった。不満げに思う組員もいたが、滝尾の話すプランは確かに魅力的なものであり、すでに市のほうも動き始めていると聞くと、出遅れるわけにはいかないという縄張り意識が刺激される。
なにより組長が滝尾に心酔していた。さっきまで死にそうだった自分の身体を、あっという間に快復させた滝尾の力は本物だと信じて疑わない。こればかりは自分の身体で味わった当人にしかわからない奇跡だったが、とにかく滝尾は奇跡を起こせる人物だと信じ込まされているのは確かだった。
かくいう堀川もまた滝尾を信用したひとりだった。滝尾の提示したプランに食いつけば、相当な額の実入りがある。きちんと地域の祭りと密接に関わる時漏組に話を通しに表れたことがまず、彼の実直さを証明していた。
滝尾が帰ったあとで組員たちが相談する中、堀川は滝尾が時漏組のために筋を通したことを高く評価して組員たちを説き伏せた。暴対法のせいで祭りに夜店すら出しにくくなっている現状を憂うべきであり、滝尾の話に乗れば確実に今よりは甘い汁が吸えるようになると。
そこまで言うなら――と、堀川は滝尾との連絡係を任じられた。何度か滝尾と会って話すうち、堀川は自分の心証は間違っていなかったと確信するに至った。巧みな話術とそれに見合った実務能力。
新島をマークしておいてほしいと頼まれて、堀川は理由も聞かずに頷いた。
「マーク?」
新島は堀川の話がいったん落ち着いたらしいタイミングで聞き返す。
滝尾が新島をマークしていた。確かにこれまでの厚遇は、新島を自分の掌中から逃がさないための策と取ることもできる。それに加えて堀川にも新島を見張るように指示していた。
理由は――もはやひとつしか思い浮かばない。
ジロチョウ河童。その名前を口にした新島は、どういうわけか危険分子としてぴったりとマークされていた。
堀川は新島の声など聞こえなかったかのように、この誘拐劇の発端を話し始めた。
一週間ほど前から、組長の体調が悪化した。
滝尾が現れてからすっかりよくなっていたはずの身体が、急にあちこち痛み出し、しばらくすると布団から起き上がることすらままならなくなっていった。
堀川は組長からの頼みで滝尾に連絡した。なんとかならないかと神にもすがる気持ちで訴える堀川に、滝尾は予想外の返答をよこした。
「では、私からの頼みを聞いてもらえませんでしょうか」
「な、なんですか」
「新島正人さんから、ジロチョウ河童という言葉の出所を吐かせてほしいんです。どんな手を使っていただいても構いません。ただし期限はジロチョウ祭りの前日までに」
「なんだそりゃ――俺らに堅気のおっさんを拷問しろとでも言ってるんですか? そりゃ受けられねえ。今のご時世を考えてくださいよ。ただでさえ
「堀川さん」
急に、滝尾の声がはるか遠くから聞こえたような気がした。いや、確かに電話越しである以上、滝尾の声ははるか遠くから電波に乗って聞こえている。理解していることと、体験することは別だ。堀川にとっては、耳元から聞こえていたはずの滝尾の声が、ふとしたきっかけで果てしなく遠く感じてしまった。そう感じさせる、声だった。
「大丈夫ですか」
やはり滝尾の声は遠くから聞こえる。錯覚に陥っている堀川を気遣うような口ぶりに、堀川は少し寒気がした。
「なにがですか」
「体調のほうは、お変わりありませんか」
身体を這いずり回っている悪寒は錯覚ではない。滝尾の言葉で自分の身体に起き始めている異変を、否応なく感じさせられる。
「痛むところはありませんか」
言われて、身体の節々が痛むことに気づく。
「立っていられますか」
ぐらり、と視界が揺れる。堀川の足腰は萎びたように力が入らず、自宅のリビングでぱたりと倒れてしまった。
「先生、なにが、どうなって」
「落ち着いて、私の話を聞いてください。私の話を受けていただけないようなら、これがもっと酷くなると考えてください」
毒でも盛られたのか。いや、時のひと滝尾彼方のスケジュールは多忙を極める。時漏町に来たのも一年以上は前になる。
怒りよりも、わけのわからない身体の異変に対する恐怖が勝った。まったく得体の知れないものを相手にしたことは、やくざとしてもへっぴり腰の堀川にあるわけがなかった。
「わかった。受ける。受けるから」
無言の続く電話を意味もないのに凝視する。
どれだけ沈黙が続いただろうか。堀川はふと身体が軽くなっていることに気づく。さっきまで枯れたように崩れ落ちたことが嘘のように、真っ直ぐに立ち上がることができる。
「ありがとうございます」
電話からやっと、滝尾の声が聞こえた。
「では前日までに。よろしくお願いします」
電話は切れた。
堀川は震え上がった。
どこまで。どこまでがあの男の仕業なのか。怒りではない。実体の見えない相手をせめて理解しようと試みる哀れな防衛本能だった。つまりは途方もない恐怖であった。
車内のやくざたちはしきりに会話をしていて、後部座席の隅に置かれた新島と堀川の会話の内容を聞いている様子はない。
新島は話を聞いても半信半疑のままだった。滝尾が超自然の力によって堀川を襲ったと受け取れるような話しぶりだったが、新島にはどうしても納得がいかない。
滝尾は超能力や霊能力を、研究する側の人間としてメディアに出ている。あくまで知識人、コメンテーターとしての仕事が主である。仕事ぶりを鑑みると、滝尾自身が超常の力を用いるとは考えにくいのだ。
「まあ、これであんたも俺も晴れて自由の身ってわけだ」
堀川は缶ビールを取り出して新島に向ける。長い監禁生活の直後で酒を口にする気にはなれず、新島は手を振って断った。
いつの間にか警察に駆け込む気はすっかりなくなっていた。
まるで自分も被害者のように語る堀川に同情したわけではない。なんというか、今さら何を言っても無駄なような気がしていた。マラソンを走り終わった時の感覚に似ているかもしれない。走っている間は苦痛で苦痛で仕方がないのに、ゴールしてみればあまりにあっさりと走っていた間の苦痛が過ぎ去っていってしまう。
堀川の話を聞いたあとでは、監禁という体験が、すでに過ぎ去ってしまったどうでもいいものとして処理できてしまっていた。
そう考えればこの分厚い封筒も相応の価値を持ってくる。新島が通り過ぎた時間の分だけの報酬。これを受け取ってしまえば、警察に相談に行くことはできなくなるだろう。だが、それがなんだというのか。もはや過ぎてしまったものに対してうじうじ悩むより、手元にある金を懐に入れたほうが建設的ではないか。
電気店の前で停まった車から降りた新島は、去っていく車に向けて頭を下げていた。
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