14 時漏れ

 重苦しい沈黙が心地いい。

 時漏中学校の図書館で早希と八重は、昔と同じように長机に腰かけていた。

 八重のほうから何か言ってくることはない。蛍光灯の点いた室内で、老眼鏡の奥の目を伸ばしたり縮めたりしながら、机の上に広げられた本を読み続けている。

 普通ならば焦燥して話題を探す状況だが、早希のほうもまた口を開くことをしなかった。

 八重の作業の邪魔をしたくない。ただこうして、八重の姿を机の反対側から見ているだけで、勝手にかつての思い出が再生されていく。

 そして今、やっぱり思う。

 八重のことが、今でもずっと好きだった。

「大学」

 本を開いて目を走らせながら、八重が小さくつぶやく。

「はい、東京のほうの……理系なんですけど」

「それはいい」

 当意即妙。あのころのやりとりそのままに、早希は八重の言葉を打って響かせた。

 少し、驚いた。

 八重のほうから話しかけてくるとは。それも早希個人の進路について。

 だけどやはり、軽々に言葉のやりとりをすることは八重もしなかった。すぐに目の前の本に集中し、早希のほうには目もくれない。

 話したいことも聞きたいことも、たくさんある。早希のこれまでや、八重と郷土史部のその後。町を離れたあとのジロチョウ祭りの隆盛。対する八重の所感。

 ただ、昔と変わらない空気の中にふたりでいることがとても嬉しく思えて、それ以上の刺激を求めたくない不思議な躊躇が生まれていた。この時間がずっと続けばいい。早希は傍から見れば押しつぶされそうなほどまでの沈黙のただ中で、大切に大切に時間が過ぎることを噛み締めていた。

 かつ、かつ、と。

 廊下を進む足音が近づいてきていた。この幸せな沈黙の中、その音はあまりに無遠慮に耳によく届く。

 この時期と時間に図書館を訪れる者は珍しい。今は中学校も夏休み期間であるし、時刻は夕暮れに近い。早希の時代と同じなら、夏休みにこの図書館は基本的に閉まっている決まりになっており、休み前に図書館の本をまとめて借りることができる仕組みになっていた。

 そろそろ部活動も終わる時間帯であるし、見回りの教員が来たのかもしれない。

 足音が止まるのと同時に、図書室のドアが開いた。

「お久しぶりです。加古川先生」

 冷ややかな女の声がした。

 早希と八重の沈黙を破ったのは、黒いスーツ姿の女性だった。とにかく、黒という色に全身が呑まれてしまっているようなひとだった。ぴったりと身体のラインに合わせられた三つ揃いの黒のスーツ。ズボンは足下まで届いており、靴下も黒い。腕に張りつくように仕立てられたその手首から先は、葬儀屋か鑑定士が身に着けるような絹の手袋で覆われている。その絹もまた、漆黒だった。黒、黒、黒の中、ベストの下に見えるブラウスだけが白い。艶やかな黒髪を長く伸ばし、その黒で全身を覆っているかのように錯覚してしまう。

朱鷺沢ときざわ

 八重は振り向くこともせず相手の名を呼ぶ。

「史談会がこんなところになんの用だ」

 女は吐き捨てるように笑った。

「ああ、いやだ。何も言わなくてもどうせ全部お見通しのくせに」

「話があるなら外で聞く。ここは図書館だ。私語は控えろ」

「それがいやだと言っているんですけど。用ならありますよ。この図書館に」

 八重はそこで、本を閉じた。

「きちんと手続きを踏んだのか」

「身分を明かせば学校のほうから進んで明け渡しますよ」

「つまり、手続きは踏んでいないと」

「ええ。緊急事態ですから」

 やっと――八重は女のほうへと振り向く。

「私が許可しない」

「中学校の教師に、そんな権限は――」

「あるさ。中学校の教師だからな。ここは私たちの学校であり、図書館だ。部外者がなんの手続きも踏まずに立ち入っていい場所ではない」

 ぎり、と女が歯を軋ませる音が聞こえた。

「上に掛け合えば、たかが中学校の教師ひとり、どうとでもできますよ」

「なら上とやらに掛け合え。きちんとな。話はそれからだ」

 早希とふたりだった時とはまったく異なる、張り詰めた空気。わずかな沈黙だけでも呼吸を忘れてしまうほどの圧迫感。女は自ら空気の重さを増してやるとばかりに無言で八重を睨む。対する八重も微動だにせず女を真っ正面から見据えていた。

 すっと、女が短く息を吐いた。

「わかりました。今日はこれで失礼します。覚えておいてくださいね、加古川先生」

 来た時と同じ足音を鳴らして女が去っていくと、早希はどっと疲れてしまった。あと少しあの沈黙が続いていたら、どこか気をやられてしまっていたかもしれない。これまでまったく味わったことのない緊迫感だった。

 八重は素早く立ち上がって図書館のドアを閉めて鍵をかける。続いて大股で普段立ち入ることのできない、閉架されている部屋へと入っていった。

 すぐに戻ってきた八重の手には、古びた冊子が握られていた。見た目から、商業出版物ではなく、同人誌か学校の文集のように見える。

「今井」

 八重はその本を、早希へと押しつけた。

「頼みがある。この本を、お前が持っていてくれ。中身は読んでも読まなくてもいい。だが、決して誰にも見せず、誰にも渡さないでほしい」

「あの、先生――」

「頼む」

 それだけ言うと、八重は荷物をまとめて図書室を出ていった。

 早希は呆然と、手渡された本のタイトルを見た。

 

『時漏れ 三号』時漏中学校郷土史部 編

 

 相当に古い本であることは手触りや匂いでわかる。だが、今ここで中を見ることはためらわれた。

 図書室を出る。施錠すべきか迷ったが、鍵を職員室に持っていかなければならないのでそのままにしておいた。いくら八重が招き入れてくれたとはいえ、この恰好の早希が職員室に図書室の鍵を持っていけば質問は避けられない。

 八重が話をつけてくれている気はしなかった。それどころか去り際の様子から、八重がどこかへと完全に姿を消してしまうような気がしていた。

 昇降口に脱ぎっぱなしになっていた靴を履いて、家へと早足で戻る。太陽は相当傾いていて、時間的にはもう夕飯時を越しているだろう。

 八重から渡された本は鞄の中に入れてある。これはいったいなんなのか。早希は薄々気づき始めていた。

 五年前、古書店街で見つけた一冊の本。八重はそれを読んだ時、先ほどとまったく同じ調子で早希に頭を下げた。

 ジロチョウ河童という言葉が出てくる本だった。

 家に戻ると、ダイニングには顔を出さずそのまま自分の部屋へと階段を駆け上がる。

 冷房は入れっぱなしにしてあったが、真夏の夕暮れの中を急いで歩いてきたせいで身体中から汗が吹き出す。手にもじっとりと汗が浮いていたが、ハンカチで強引に水分を拭き取って『時漏れ』を取り出して中に目を通す。

 素早くページをめくる。こうした直感はいまだに衰えていない。すぐに目的のページが目に留まった。

「あった――」

 タイトル「報瀬川のジロチョウ河童」。筆者――加古川八重 時漏中学校二年生

 奥付を確認する。昭和四十八年発行。

 古書店で見つけた『旅と民俗』は昭和四十九年発行だと八重が声に出していた。あの時の記憶はまだ鮮明に残っている。

 手に浮いた汗で本のページが湿りかけていた。慌てて手をハンカチで拭い、「報瀬川のジロチョウ河童」という記事を読んでいく。

 何十年も前の少女によって書かれたとは思えない、堅硬な筆致。読んでいて、八重の書いた文章などほとんど読んだこともないのに、これは八重が書いたものだと確信した。今とまるで変わらない八重の息づかいが、文章によってそのまま伝わってくる。

 読み終えても、早希はじっと紙面を見つめたままだった。

 これは――この中に書かれたジロチョウ河童についての伝説は、いま時漏町で言われているジロチョウ河童伝説とはまったく異なるものだった。

 だけどなぜ、八重はこの文書を絶対に隠し通そうとしているのか。

 これは間違いなくジロチョウ河童の一次資料だ。現在の伝説とは異なる内容だが、それでも町のためには有用だと言える。

 いや――新しい伝説を撒き散らした町からすれば迷惑極まりない代物かもしれない。自分たちの町で言われていることになっている伝説が、単にでっち上げられた虚構だと露見しかねない。

 早希はまた頭を悩ませる。

 果たして八重は、町の観光資源を慮ってやるようなひとだろうか。

 八重はこの町の歴史を蒐集し続けてきた。そんなひとにとって、でたらめなでっち上げの伝説が町に根を下ろすことは、耐えがたい屈辱なのではないか。

 ならばこの一次資料は、でっち上げられた伝説をひっくり返す切り札になり得る。

 また最初の疑問に戻ってきてしまった。なぜ隠す――論争の火種となる危険な代物であることは確かだが、八重なら正しいことのために使うことができるはずだ。

 気になるのは、やはり、この記事の筆者が加古川八重そのひとであることだろう。

 書いた当人である八重ならば、ジロチョウ河童伝説がでっち上げられたことも、証明するための一次資料も知悉していたことになる。

 なのに、今日の今日までまったく言及することもなく、図書館の閉架にこの冊子を封印し続けていた。

 おそらくはジロチョウ河童についてもっとも詳しい人物が、ここまで沈黙を貫いた理由。単純にジロチョウ祭り自体にまるで興味がない、というのが一番有力な線である気もした。

 歴史を無視して組み上げられていったジロチョウ祭りに、八重が何も思うところがなかったはずはない。ただ、八重は郷土史家だ。この騒動をいつかまとめて、検証し、批判する準備を固めていたのかもしれない。

 現在進行形で進む町の狂騒は、確かに郷土史家が口を出した程度で止まるものではない。むしろ町の発展を阻害する邪魔者として、正論を述べた側が激しい攻撃に合う可能性も大いにあった。

 理不尽。正しさというものは、常に理不尽に襲われる。

 どれだけ歴史的に正しいことを言おうと、始まってしまった地域振興や地方創生という錦の御旗の前ではなんの力も持たずに封殺されてしまう。

 八重はそんなものを恐れはしないと早希は確信している。だからかえって混乱が増す。ジロチョウ河童の、文字通りの第一人者が息を殺し続ける理由。

 わからない。わからないが、八重から託された使命は必ず守らなければならない気がしていた。この一次資料を誰にも見せない。誰にも渡さない。

 八重は早希にこの本の中身を読む自由を与えた。つまりは早希がこうして混乱に陥ることも見越していたことになる。

 それでもなお、八重はこの本を早希に託した。

 早希が必ず、八重の頼みを聞いてくれると信じているからだ。

 今はこの本が、何よりも早希と八重のつながりを保証していてくれる。早希がひとり、ジロチョウ河童の一次情報を胸の中にしまっておくことが、八重との約束を守り続けることになる。

 ジロチョウ祭りまで、あと二日に迫っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る