16 迫る町

 尾けられていると気づいたのは、朝一番に時漏中学校に向かった帰り道でのことだった。

 昨日八重から託された『時漏れ』についての説明を求めるべく、早希はまた時漏中学校の図書館に顔を出した。

 ところが、八重の姿はなかった。

 今日は気合いを入れて、職員室にまで顔を出す。

「失礼します。加古川先生はいらっしゃいますか」

 驚いたことに、早希が職員室に入ってそう口にすると、教員のひとりが慌ててこちらに駆け寄ってきた。

「君は? 加古川先生のことをなにか知っているのか?」

 いやな予感が悪寒となって身体を震わす。

 早希は自分が在学中に郷土史部だったこと、昨日図書室で八重と会っていたことを説明する。

「そうか、郷土史部の――ちょっと待ってもらえるかな」

 教員は職員室中を駆け回って、なにやら急いで資料を探しているようであった。目当てのものを見つけると、その場で電話をかける。話し声は抑えられていて、早希の耳にまでは届かなかった。

「お待たせしてすまない。今井早希さん、だね」

 頷く。教員は職員室内に設置されているソファへと早希を案内した。在学中には生徒の間で「説教席」と呼ばれていた場所だ。

「加古川先生はいま、連絡が取れない状態なんだ」

 二年生の学年主任、中園なかぞのと名乗った教員は早希に向かい合うかたちでソファに腰を下ろすと、そう切り出した。

「普段なら――夏休み中でも、きちんと時間通りに職員室に来て、職員会議にも参加していた。僕の知っている限りでは、加古川先生が遅刻したり、休んだりしたことは一度もない。それが今日は姿が見えない。加古川先生はずっと、郷土史部の顧問として、夏休み中も出勤することになっている。まあ、実体のない部活動ではあったけど、あのひとに逆らえるひとはここにはいないから……。それでも欠勤するのならするで連絡を入れてもらわないとこちらとしては困る。でも一向に連絡がないから、痺れを切らしてこちらから連絡しようとしたんだが、まったく捕まらない」

 妙によく喋る中園は、なぜだか落ち着かない様子であった。

 早希ははっと昨日の黒ずくめの女を思い出す。

「昨日、加古川先生を訪ねてきたひとがいませんでしたか?」

「いや。いない」

 あれだけ饒舌に喋っていた中園が、早希の質問に対してだけは極めて短く否定する。

 先刻のやりとり――早希が郷土史部だと告げたあとの中園の動きに妙なところはなかったか。早希本人からは名前を聞かず、学校の資料で早希の素性を調べて――どこかへ連絡していた。

 よくない予感がする。

 早希はソファから立ち上がり、有無を言わさず頭を下げる。

「じゃあ私はこれで。失礼しました」

 呼び止めようとする中園を無視して職員室を出る。昇降口で焦りからもたつきながら靴を履いて、学校の敷地内を出た。

 真夏の午前中。すでに容赦のない日差しとアスファルトの照り返しが勢いを増している。日焼け止めを塗りたくってもなおじりじりと肌が焦げるような感覚。

 早希は通学路の中に唯一ある信号で足を止めた。基本的にずっと赤信号が点滅し続け、対応する信号では黄信号が点滅し続けている。歩行者用の信号はあるが押しボタン式になっており、歩行者が道を渡るにはボタンを押し、しばらく待つ必要がある。

 そのおかげで、早希は後ろを歩いている何者かが不審な尾行者だと気づいた。車の往来が優先され、ボタンを押さなければずっと赤のまま渡ることのできない信号が、青になってくれるのはほんの短い間だけ。この町に住んでいる普通の人間なら、早希がボタンを押した時点で信号の前に来て短い青信号のタイミングを逸さないように身構える。

 ところが早希の背後を歩く何者かは、早希がボタンを押し、ピヒョロロロロ――と音が鳴り響いたにも関わらずまだ早希から距離を取っている。赤の他人であっても、このような距離の取り方はしない。

 早希は振り向くことなく相手の気配を探った。うまく気配を消しているつもりらしいが、今の行動のせいで悪目立ちしすぎている。住宅のブロック塀に張りつくようにして姿を隠しているつもりらしい。

 信号が青に変わる。早希は背後を気にしながら道路を横断した。少し経つと小走りの足音が背後から聞こえた。どうやらまだ尾行を続ける気らしい。

 不気味ではある。加えて早希は若い女ときている。東京でこんな真似をされればひと息に駆け出してコンビニにでも駆け込むだろう。

 だが、今はなぜだか妙に肝が据わっていた。相手の正体を見定めてやろうという気概すらある。

 わかっているのだ。

 昨日から、全部つながっている。

 図書室に現れた女。八重が預けた本。その内容。ジロチョウ祭り。職員室に顔を出した早希。八重の失踪。郷土史部――。

 早希を尾行している何者かは、八重と『時漏れ』の行方を捜している可能性が高い。早希はそう結論づけた。

「早希!」

 前方から声をかけられた。

 昨日と同じ、堀川隼人が浮ついた笑みを浮かべて近寄ってくる。

 たまたま出くわした――にしてはタイミングがよすぎる。そこで初めて早希は立ち止まって背後へと振り向く。身を隠す場所がないせいで、道路の隅に突っ立っている男はすぐに見つかった。見覚えがあるようなないような顔。ただ年齢はおそらく早希と同じくらい。

 隼人の息のかかった「地元のツレ」かなにかだ。昨日も早希が駅を出たところを見た者が隼人へと連絡している。この男も「地域のネットワーク」を構築する一員ということだろう。

 尾行者が隼人に連絡し、挟み撃ちのかたちで早希を待ち構えていたことになる。

 この町に入った時点で、早希に逃げ場はなかった。地域住民の目は常に張り巡らされており、隼人のような人間はそれを自在に利用することができる。

 隼人は早希と対等に話ができると思っているようだが、とんでもない勘違いか思い上がりだ。自分の優位性を使ってむりやり会話を行おうとするような人間が相手を対等に見ているわけがない。強権を行使している隼人自身は、その構図に気づくことがないのだろう。あくまで対等だと信じ込んでいる分、余計に始末が悪い。

 無視して突っ切るにはこの道は狭すぎる。最悪すれ違いざまに手を出されかねない。仕方なく早希は立ち止まり、素早く周囲の地理を確認する。中学の時の通学路だけあって土地勘はあるが、その分逃げ出しても追いつかれるだけだとすぐにわかった。道沿いには住宅が並んで建っているので、最悪大声を出すことも考慮しておくべきだろう。それで助けが来るかは別問題になるが。

「何」

 歩み寄ってくる隼人を牽制するかたちで声を上げる。かなり怒気を含ませたつもりだったが、怯んだ様子はなく近寄ってくる。

「なあ、今から俺の家に来ないか?」

「行かない」

 即答する。

「そう言うけどさ、お前帰ってきてから地元のやつらとちゃんと会ってないだろ? みんな集まるから、ちょっと顔出してやってくれよ」

 笑ってしまう。早希がこの土地でどうやって育ったのか。どうやって過ごしてきたのか。それを一番間近で見てきた連中が、今さら早希になんの用があるというのだ。

 こいつはなにもわかっていない。地元の同年代の人間はみんな仲間で、自分が頭を張っているという世界観で生きている。当人にとってはなんの問題なく生きていける世界観だが、巻き込まれる側からすればたまったものではない。くだらない腐臭を放つ人間関係に、勝手にひとを入れるんじゃない。

 言ってやればいいのか。いや、言っても理解できないだろう。

 背後の男は無言でスマートフォンをいじっている。来た道を引き返すルートでもすぐに追いつかれてしまうことは頭に入っている。

 待て――男の怠そうな態度を見て、早希は急激に冷めていく。

 隼人が早希のこの町でのポジションを把握していないはずがない。隼人はこの土地でリーダー格としてやっていくために、排斥すべき相手の見極めは得意中の得意だったはずだ。

 早希は集団に対して逆らうことなく、存在を置いてだけいた。なので中学や高校で実際に手を下されたことはない。だがその分、クラスの片隅で罵倒され嘲笑され続ける人間の存在はいやでも目についた。常に明日は我が身かもしれないという恐怖に震えていたからだ。

 早希は排斥されていなかった。同時に、集団の輪の中に加わってもいない。

 そんな中途半端な早希を、隼人が「地元のツレ」の集まりに呼び込むことは考えにくい。

 これは――だ。

 隼人なりに、早希を気分よくさせようと言葉を選んだのだろう。早希のために地元の連中が集まると言えば、中途半端なポジションにいた早希が自分も地元の一員だったのだと感涙すると勘違いしている。

 隼人は早希のポジションは理解しているが、渦中の心情までは理解できていない。ゆえにこんなちぐはぐな誘い文句が飛び出る。

 目的は最初に口にしている。早希を自宅に連れ込むこと。

「なんで、私がお前の家に行かないといけない」

 慎重に言葉を選んだ早希に、隼人は少し目の色を変える。

「昨日話したよな。親父のこと」

 隼人の声が急に低くなる。早希は意を決して、続きを聞くべく頷く。

「いま、かなりやばい状態みたいなんだ。よくは知らない。けどさっき、電話がかかってきた。ろくに連絡もよこさないから、何年かぶりの電話だ。用件はひとつ。『お前の同窓の今井早希っていうガキを連れてこい』」

 身構える。隼人は首を横に振った。

「俺がお前を誘拐するわけないだろ。ただ、親父たちより先にお前を捕まえておきたかった。連中、何しでかすかわからないくらい参ってるから」

「保護するとでも? お前が?」

「無理だろって言いたいんだろ。わかってるよ。俺はなんの力もねえガキだ。でも、地元のツレのひとりくらい、守ってやれるだけの力はあると思ってる」

 いまいち、理解ができない。隼人の早希に対する当たりが柔らかいことは以前から気づいていたが、勝手に「地元のツレ」にされる覚えはない。

「ひとまず身を隠すべきだ。時漏組の連中がお前を捜して家に行くかもしれない。俺の家なら親父もまず帰ってこないし、灯台もと暗しってやつでしばらくはやり過ごせると思う」

 隼人の言葉を全部信用する気は起きない。だが、何者かが早希を――それに連なる八重を追っていることは実感できている。

「おい隼人、なんだそれ。俺ら聞いてないぞ」

 早希の背後の男が慌てた声を上げる。この土地に根差した人間関係を構築しているのなら、時漏組に逆らうことがどれだけ危ない橋なのかをよく理解しているだろう。

「悪い。お前はもう抜けてくれもいい。ただ、チクってみろ――」

 ドスの利いた声で念押しする隼人に嫌気が差したのか、男はさっさと来た道を引き返していった。

「あれは?」

「ツレだよ。お前を見つけたら連絡するようにみんなに言っておいた。おかげで親父より先に見つけられた」

 ジロチョウ祭り前日ということもあり、地元に戻ってきている人間も多い。ひとまず背後の男が消えたことで、逃げ道はできた。ただ、ここから逃げ出しても、ほかの猟犬のような連中から追われるだけだとわかっている。

 早希はいったん、観念することにした。

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