10 デート
金曜日の夜は大変なことになってしまった。
早希は八重と街に出かけるための服というものを、まったく思いつくことができなかった。休日なのに制服を着ていくのも変な気がしたし、かといって普段着ている服で八重の隣を歩く姿を想像すると、たちまち自分のみすぼらしさに羞恥を覚えてしまう。
結局、夜になって帰ってきた母に、服を貸してほしいと願い出た。
母は仕事終わりに飲んできたらしく、いくらか機嫌がよかった。母と早希は現時点で体型がほとんど変わらず、時々母がふざけて自分の服を早希に着させることがあった。
なんで、と訊ねる母に、早希は明日、街のほうに出かけるのだと告げた。そういえばまだ明日の予定について家族の誰にも話していなかったことをここで思い出す。
母は爛々と目を輝かせた。
デートか? デートなのか? とぐいぐい迫ってくる。早希は必死に否定したが、「友達と遊びに行く」と簡単な嘘を吐かなかったのは失策だった。八重とのことを話したくないがために、結果的に母の中では完全に早希が人生初のデートに行くのだと結論づけられてしまった。
母の部屋に連れ込まれ、クローゼットを全開にして早希へのコーディネートが始まる。凄まじい気合いの入りようで、途中で早希は音を上げたが、母は一向に解放してはくれなかった。
帽子にバッグ、サンダルまで用意され、最後に一万円札を三枚渡された。
こんなに必要ないと固辞しようとしたが、有無を言わせず握らされ、出かける前にもう一度チェックを行うと念を押されて服一式と帽子、バッグにサンダルを抱えて自分の部屋に帰された。
皺にならないように服をハンガーで壁に吊すと、どっと疲れが出て早希はすぐに寝入ってしまった。
そして現在、土曜日。午前八時半過ぎ。
早希は半泣きになりながら昨夜用意してもらった服を母の手を借りながら身に着けていた。
スマートフォンのアラームの設定を忘れ、目が覚めたのはついさっきだ。時計を確認した時は思わず悲鳴を上げてしまった。
間抜けなことに、母に約束の時間が午前九時だと伝えることも忘れていた。悲鳴に驚き慌てて部屋に入ってきた母に事の次第を伝えると、とにかく準備をしろと洗面所へと蹴り出された。
この家から駅まで徒歩で二十分はかかる。自転車でも時間的にギリギリ。焦る早希の髪を梳かして帽子を乗せた母が車で送っていくと請け負ってくれた。
「しゃんと立つ!」
背中を叩かれ、姿見の前で母の服を身に着けた早希は鏡に向かって気をつけをした。
自分がいま身に着けている服の名称を母が説明してくれたが、早希にとっては全部が呪文のようでほとんど理解できなかった。とりあえず自分が着ている服がワンピースなのだということだけは頭に入れておく。
確かにいつもと雰囲気は違うが、所詮早希は早希のままだ。むしろ華やかな母の服を着たせいで、かえって自分のみすぼらしさが増した気さえする。
「うん、かわいい! ほら、ぼけっとしてないで車乗りなさい! 昨日渡したサンダル履くのも忘れずに」
足がもつれそうになりながらもサンダルを引っ掴み、階段を駆け下りる。玄関で初めて履いてみると、ヒールのないぺたんこタイプのおかげで歩きやすい。サイズもぴったりだ。
母の運転する車の助手席に乗り込んで駅に向かう。待ち合わせの時間まであと五分。早希は何度も母にスピードを出しすぎないよう注意をしなければならなかった。
車内でかかっているラジオが九時の時報を鳴らしたのと同時に車は駅のロータリーに到着した。停車と同時に早希は車から降りる。
「お母さん」
八重のもとへ走り出す前に、早希は開いたままのドアから声をかけた。
「ありがとう!」
母がぐっと右手を挙げたのを見て、早希はドアを閉めて駆け出した。
車が必須である小さな町の駅なので、ロータリーは広いが駅自体は小さなものだ。線路を挟んで一番ホーム側と二番ホーム側にそれぞれ自動改札があり、街のほうへ向かうのはロータリーからそのまま行ける一番ホーム。
改札前の券売機に、いつもと同じ姿の八重が立っていた。
「どうした、今井」
八重は早希の姿を見て少しだけ眉を上げた。
早希はかっと顔が熱くなるのを感じる。やはりこの恰好はおかしかっただろうか。早希のような子供が一丁前に大人の服を着るなど、間抜けにしか映らないのでは――。
「なんでまた走る。電車が来るにはまだ時間があるが」
急速に、焦燥した頭が冷めていく。
待ち合わせの時間に遅れてしまったことと朝のドタバタのせいで、早希の気は逸って仕方がなかった。だがよく考えれば問題なのは電車の時刻のほうで、八重はあらかじめ余裕を持った待ち合わせ時間を提示していたのだ。
「す、すみません」
それでも、待ち合わせ時間に遅れてしまったのは失態だ。早希がしどろもどろになりながらその旨を告げると、八重は小さく笑った。
「確かに今日は郷土史部の活動という名目だが、私がお前を気晴らしに誘っただけだ。お前も、そのつもりなんだろう。見ればわかる」
早希は分不相応な服に押しつぶされる感覚に身体を縮こまらせる。部活動なのだから、なぜすなおに制服を着てこなかったのか。早希の頭からは部活動だということなどすっかり抜け落ちていた。ただ、八重とふたりで街に出かけるということばかりに囚われていた。
「しかし、困ったな」
八重の言葉に早希は身体を固くする。今すぐとって返して制服に着替えてくるべきだろうか。
「こんな綺麗な相手と歩くとなると、私がどうにも不釣り合いだ」
呆然と立ち尽くす早希を怪訝な目で見てから、八重は音を立てて笑った。
切符を買って、自動改札を抜ける。さっきからずっと夢の中を歩いているように落ち着かない。ホームに転落でもしたら洒落にならないので、早希は意識して線路から離れて歩いた。
電車はすぐに来た。どうやら改札の外でのやりとりは、思った以上に時間を食ったらしい。早希はもうほとんど覚えていない状態だったが、隣でいつもの仏頂面をしている八重の頬が時折緩むのを見るたび、羞恥と昂揚で顔が熱くなる。
休日なので通勤客の姿はあまり見当たらないが、代わりに早希たちと同じように街に出かける客は結構な数になっている。ドアのすぐ横の座席が空いていたので八重に勧めたが、お前が座れと逆に譲られてしまった。
年寄り扱いしたと思われて気分を害してしまっただろうか。隅の座席で縮こまる早希の目の前の吊革を掴んでいる八重の顔を見上げるのも変な気がして、早希はずっと自分の膝小僧に目を落としていた。
「落ち着いたか」
頭の上から小さく声をかけられる。顔を上げかけて、目を合わせるのがあまりに気恥ずかしくなっていたことに途中で気づき、こくりと頷く動きをすることでごまかした。
電車に揺られること一時間弱。早希の心臓はずっと高鳴りっぱなしだった。居心地が悪かったわけではない。目の前に八重が立っていてくれたのは、ひとりで街にまで出かけたことのない早希にとって安心を担保してくれるものだった。
小学生のころは年に数度の頻度で両親か親戚に連れられて街に車で出かけたが、行き先は決まってデパートか動物園か水族館だった。なのでよく考えればこうして電車を使って街に向かうこと自体が初めてだ。
同級生たちは当たり前に休日は街に出かけている。行き先もデパートや動物園や水族館ではなく、古着屋や飲食店やデートスポットだ。
早希にとって、街は自分の足では向かうことのできない、すぐ隣にある異世界だった。
終点に到着した電車からいっせいにひとが降りていく。早希も立ち上がって外に出ようとしたが、八重に手で制された。
車内に完全にひとがいなくなる。この電車はこのあと車庫に入るので乗車はできないとアナウンスが流れていた。
「じゃあ行くか」
八重はすっと手を差し出す。早希は困惑しながら八重の腕をとって、座席から立ち上がった。早希がふらついていないことを確かめると、八重はすぐに手を放す。思わずあっと声が出そうになるのを懸命にこらえた。
「駅の中は迷いやすいからな。あまり離れるな」
八重はとっくに早希が電車で街に出るのが初めてだと見抜いていたらしい。確かに電車の中のひとの多さに半ば酔いかけていたし、駅構内にはそれ以上の数のひとがひしめいている。少しでも早希の負担を減らすため、八重はひとの波が去るまで待っていてくれた。
ホームを下りて長い通路を歩き、改札を出る。この単純な工程も、八重のサポートがなければままならなかっただろう。ホームを下りる階段は複数存在し、改札もあちこちに点在している。出る場所を間違えれば延々歩き続ける羽目になることだけは、早希も知っていた。
八重はぴったりと早希の隣に立ちながら、歩幅を合わせ、時々顔色を確認する。電車に乗っていた間、よほど酷い顔をしていたらしい。
階段を下りて地下鉄に向かう。八重は目的の駅を告げて、早希が切符を買うのを離れた場所で待っていた。ICカードは持っていないので、同じタイミングで改札を通れないのが申し訳なかったが、八重は律儀に早希を待っていた。
少し、寂しかった。
早希を信頼して先に地下鉄のホームで待っているということを八重はしない。間違いなく正しい判断だ。早希は切符を買うことすら覚束ない有様で、八重の先導がなければ下りるホームを間違えて迷子になりかねない。
当然のことだが、八重にとって早希は生徒のひとりだ。名目上は部活動でここにやってきた以上、早希を監督する義務が八重にはある。
わかってはいる。早希が八重に好意を伝えることはできない。八重にとって早希は毎年入れ替わる教え子たちのひとりに過ぎず、特別な感情を抱く余地はない。早希がどんな感情を寄せようと、八重にとっては迷惑以外の何物でもない。
四苦八苦しながら切符を買い、八重のもとに駆け寄る。早希がついてくることを確認すると、八重は無言で改札を抜けた。
八重の背中を追って改札を抜けた早希は改札から吐き出された切符を掴み、ぴったりとあとについていく。
後ろについていける――今はこれで十分。
地下鉄の車内は思ったよりも空いていたが、八重はすぐに着くからと言って座ろうとはしなかった。確かに在来線と違い、地下鉄ではひと駅ひと駅の間隔が短い。こんなことすらこの年になるまで知らなかった。
八重に座っていろと促された結果、意図せず在来線に乗ってきた時と同じ体勢になっていた。また膝小僧にだけ視線を集中させ、じっと揺れる車内で固まる。
「今井、次だ」
八重に言われて、早希は初めて顔を上げた。車内はもうガラガラで、立っているのは八重ひとりしかいない。今はちょうど駅に停車し、乗っていたほとんどの乗客を吐き出したタイミングだった。
この次の駅が目的地の最寄り駅。これまでの感覚から、あっという間に到着するだろう。
早希は下車の際にもたつくことのないように今から立っていようと思ったのだが、意外なことに八重が早希の隣に腰を下ろしたので座ったまま飛び上がりそうになってしまった。
「大丈夫か」
早希のすぐ隣で、八重が目を合わせてくる。
図書室では考えられない距離感だった。早希は自分の胸の高鳴りを悟られないようにと無意識に息を止め、ぶんぶんと首を縦に振り続けた。
「いや、今日ずっと、顔色が悪かったように見えたのでな。疲れたならすぐに言え。気兼ねする必要はない」
「は、はい。大丈夫、です。本当に――」
掠れた声になっていて、説得力が皆無ではないかと頭を抱える。
まもなく目的の駅に到着すると車内アナウンスが流れ、早希は慌てて立ち上がった。
「先生、今日はどこに行くんですか?」
言ってから、なぜそのことをここまでの道中に訊ねなかったのだと後悔する。何も聞かずに押し黙っていた早希の姿を見て、八重が心配するのも当然ではないか。
「ああ。ただの古書店街だ。このあたりでは一番大きいが、あまり期待はしないほうがいい」
八重も立ち上がる。早希の様子を見て、調子が悪いわけではないと悟ったのだろう。
地下鉄の駅から地上に出ると、車の往来の激しい道路がまず目に入った。信号と幅の広い横断歩道があちこちに散らばり、頭上では自転車も通れる歩道橋があちこちに脚を伸ばしている。
八重は信号が赤なのを一瞥すると、すぐさま歩道橋の階段をすいすいと上り始めた。電車の中で一時間以上立ちっぱなしだったとは思えない健脚。階段一段一段の幅が広く、歩幅の狭い早希は自転車用に設けられた坂を上ることにした。半分駆け足気味でも、八重にはまるで追いつけない。ただ、八重も早希を気にかけて、時折明らかにペースを落としているのがわかった。
枝分かれした歩道橋の上で、早希はただ八重のあとを追い続けた。見蕩れるような街の風景ではない。無味乾燥でほこりっぽいこの空気は、早希になんの感慨も与えなかった。
だけど、八重と一緒に歩いていることが、この灰色の街を早希にとっての楽園に変えてくれる。余計な情緒は必要ない。八重の背中を追っているという、ただこれだけの体験で、早希は楽園を歩くことができる。
歩道橋を下りるとアーケード街らしき通りに出た。ただし屋根があるのはほんの少しの間だけで、あとはずっと歩道が続いている。歩道の隣は大きな道路で、しきりに自動車のエンジン音が前から後ろから迫ってくる。
八重はアーケード街の一番端に建っている小さな店舗のドアを開けた。通りに面した上半分がガラス張りのドアは引き戸になっており、開ける途中で何度も軋みを上げる。ちょっと難儀そうにドアを開け、八重は店の中へ入っていく。
ひとりで来たなら絶対に尻込みしてしまうような佇まい。置いてきぼりを食うわけにはいかないので、早希は迷うことなく八重のあとに続いた。
「わっ――」
薄暗い店内は狭かった。正確には、狭くなっていた。
中が全部本で埋まった本棚。本棚。そこからせり出した、普通の本屋では平積みのために用いる台の上や本棚そのものの上に山のように置かれた本。本。本。
店舗のスペースはほとんどが本に占領されていた。空いているスペースとは本棚と本棚の間であり、ふたりの人間が通るには互いが横向きにならねばならないほど細く狭い。
そして店内には、古い本の匂いが充満していた。学校の図書館でとびきり古い蔵書を引っ張り出してくると鼻を突いてくるあの匂い。早希は正直少し苦手だったが、ここまで堂々と匂ってくると、諦めがつくというか、圧倒されてしまう。
「今井、ドア」
「あっ、すみません」
呆然と突っ立っていた早希を八重がたしなめる。建てつけの悪いらしいドアをガタガタ言わせながらなんとか閉めることに成功すると、八重はすでに早希の視界から消えていた。
慌てる必要はないとはわかっていても、気は逸ってしまう。入り口の位置からは見えない棚に移動しただけ。そもそもこの古書店は大して広くない。だけど凄まじい数の本のせいで、途方もない迷宮に思えてしまう。
早希は鞄を引っかけて本の山を崩さないよう細心の注意を払いながら、本棚と本棚の間を通り抜ける。本棚に並んだ背表紙を見ていくと、早希にはなんのことやらわからないタイトルばかりが目に入ってくる。どうやら化学や物理学の本らしいとわかり、棚によってジャンルが分類されているという当たり前のことに気づく。
となると、八重がいるのはこのエリアではない。店の奥――レジの前まできた早希は九十度身体の向きを変えて隣の本棚のエリアに目を走らせる。
いない。となれば残るはもう最後の一列だけ。
店の入り口とは反対側の壁に並んだ古書に目を走らせている八重。早希はほっと胸を撫で下ろし、すぐ隣へと近寄った。
棚に並んでいるのはやはり宗教や民俗学関連の古書だった。八重は何度か棚から本を抜き、値札と奥付を確認して戻すということを繰り返していた。
早希も背表紙のタイトルを注意深く見ていく。当然だが都合よく「時漏町」というような単語の入っているものはない。
ここは学校の図書館ではない。ジャンルごとに棚分けはされているが、十進分類法が用いられているわけではない。頼りになるのは――やはり山勘か。
第三十三巻、と書かれた分厚い古書。『旅と民俗』というその本はがっしりとした函に収められ、中から本体を取り出すのにも一苦労だった。
ずしりと重い本を全身で支えるようにして、素早く中の文章に目を走らせていく。こうした流し読みは早希が郷土史部で身につけた数少ない特技だった。目当ての単語や関係しそうな記述だけを拾い読みし、関係なしと判断した部分は一気に読み飛ばす。
高速で動いていた早希の目が急に止まった。見覚えのある単語。前後の文章を読みながら、文脈を補完していく。
「先生、これ――」
声を潜めて隣の八重に開いたページを見せる。
それは以下のような記述であった。
名前のある河童と言えば利根川の
八重は今まで見たこともないくらい、大きく目を見開いていた。
早希の手から重い本をひったくると、表紙、目次、奥付と素早く確認する。
「昭和四十九年――」
おそらくはこの本が出版された年を震える声でつぶやくと、八重は早希を押しのけるようにしてレジへと向かった。無言で本を置き、会計をすませる。値段は一万円を超えていたが、まったく躊躇はないようだった。
レジ袋に入れられた本を受け取ると、八重は肩の荷が下りたように大きく嘆息した。
「今井、出るぞ」
建てつけの悪いドアを開けようとする八重だったが、焦っているのかうまく動かせない。早希は慌てて駆け寄ると、落ち着いてドアを動かす。外に出た八重はまだ半ば呆然としてアーケードの端に突っ立っている。
早希はもはや慣れた手つきで古書店のドアを閉め、どうすればいいのかとぼんやり八重の横顔を眺めていた。
時漏町について書かれた資料は少ない。だから時漏町の歴史をまとめている八重ならば、きっと喜んでくれると思ってあの本を見せたのに。今の八重はむしろ大きなショックを受けているように見える。
「先生――」
「今井」
八重は早希の呼びかけに、幽鬼のように目だけを光らせてこちらを睨んだ。
「この本に書かれていたことを、絶対に他言しないでくれ」
「えっ、でも――」
郷土史の貴重な資料なんじゃ――と言おうとした早希の目の前で、八重は勢いよく頭を下げた。
「頼む」
仰天した早希はあちこちに目を泳がせながら、八重の頭をなんとか上げさせようと苦心した。教師が生徒に頭を下げる――早希の常識では考えられない行動であったし、ふたりの関係を知らない他人から見ても、老齢の大人が中学生に頭を下げているという異常な光景であったはずだ。
「先生、先生! わかりました。わかりましたからっ!」
「すまない」
誰に対しての謝罪であったか。ようやく頭を上げた八重は、青ざめた顔で手にしたレジ袋の中身を気にしていた。
そのあとアーケードの外にも点在する古書店を回ったが、八重はずっと上の空のままだった。早希としても八重の異変が気になって仕方がなく、古書店に入ってもただ八重の顔ばかり見ている。
ただ、古書店の数は多いので、律儀にはしごをすれば時間は過ぎていく。
通りのいちばん端にある古書店の中で、八重は思い出したように腕時計を見た。
「今井、何か食べたいものはあるか」
言われて、すでに午後一時を過ぎていることに気づく。朝食も食べていないことを思い出すと、急激に忘れていた空腹を覚えた。
しかし、この質問。早希は街に来るにあたり飲食店について何も調べていなかった。ただ八重と一緒に出かけられることを考えるだけでいっぱいいっぱい。
早希の返答にはセンスが求められているのではないかと、要らぬ心配ばかりが先に立つ。八重も納得できるような店を選び、ランチを食べる。予想できたはずの今日の行動をまったく予期していなかった自分の間抜けぶりに今になって焦燥し出していた。
「いえ、でも……」
迷って、迷って、迷った挙げ句、早希はすなおに自分の現状を伝えることにした。
「すごく、お腹、空いてます……」
言って、即座に顔が真っ赤になった。
八重は、やっと愉快そうに笑った。
よかった。最初の店を出てからずっと、思い詰めた顔のままこちらを見もしなかった。早希がずっと横顔を見つめていたことにも気づかないほどまでに。
古書店を出ると来た道を引き返し、駅の近くに立ち並ぶ店のひとつ、早希も知っている全国チェーンのファミリーレストランに入っていく。
よくテレビでCMやバラエティ番組での特集は見ていたが、実際に店に入るのは初めてだった。というより、早希の行動範囲内にこの店は存在しない。
「好きなものを頼め」
席に通され、八重からメニューを押しつけられる。店内は昼のピークを過ぎたからか、思ったよりは空いている。
「時漏町にはないだろう、この店」
きょろきょろと周囲を見渡している早希を見ながら、八重は出された水で舌を湿らせる。
「時漏町どころか、市内にもない。わざわざ街に出かけてまで全国チェーンの店に入るのは馬鹿げたことに思えるかもしれないが」
そんなことはないと首を横に振る。実際、早希はテレビの向こうにしか存在しないと思っていた店に入ることができて少し興奮していたほどだ。
「簡単にアクセスすることができない環境にいる者には、こういう経験が必要なんだ。『誰でも』や『どこでも』などという枕詞はたいていそれを発した者の周辺にしか適用されない。だがその大多数側の人間は、周辺の常識を一般の常識と勘違いしたまま幸せに暮らしていく。そしてその大多数に立ち向かうためには、連中の常識とやらをインプットしておかなければ、まともに会話もできやしない。今日この店を選んだのは、そうした常識に一矢報いるため――とは言えないか。安いからな。この店は」
早希はとにかく腹を膨らませるため、ハンバーグのプレートと一番値段の安いパスタを注文した。八重はパスタを一品だけ。最後にドリンクバーをふたり分、と付け足すと、店員はドリンクバーの位置を教えて去っていった。
「そう。わかりにくい。相手もお前が何も知らないことを知らないからだ」
喉が渇いていたが、なかなかドリンクバーに向かうことができない。早希はこうした店でドリンクバーを頼むことすら初めてだった。何か粗相をしてしまうのではないかという恐怖が、早希を座席に縛りつけている。
加えて、子供と呼ぶには背の伸びすぎた早希が、これだけ他人の目がある中、手取り足取りドリンクバーの使い方の教えを乞うという行為を想像するだけで、羞恥心で頭が茹だっていく。
「なら行くか」
八重は腰を浮かせかけた体勢で早希の目の前まで顔を運ぶと、短く手筈を伝えてきた。
頷き、八重のあとに続く。
まず並べられたコップを取る。次に氷を入れて、最後に機械にコップを置き、ジュースが満ちるまでボタンを押す――早希の前にドリンクバーに向かった八重の行動を、早希はひとつも見逃さずに観察していた。
無論、八重からの指示である。早希の焦燥を察知した八重は、まず自分が手本を見せることで早希の疑問を解消させようとした。
八重はただ無言で、流れるように工程を進めていく。早希への直接の説明は一切ない。
だがそれこそが八重の優しさだった。早希が怯えていた理由――自分が何も知らず、衆人の前で無知を晒すことへの恐怖を八重は完璧に把握している。
八重が振り向くこともなくストローをひとつ取って席に戻っていくのを見送ってから、早希は今しがた見たばかりの工程を再現していく。最後には好きなジュースを選んで注ぐ余裕すら出ていた。
席に戻ると、八重はもう一杯目のジュースを飲み干していた。
「やってしまえば簡単なことだ。お前はひとりでもできていたと思うよ」
「そんなことは……」
ストローでジュースをひとくち飲むと、一気に疲れが吹き出す。
「今日こうしてここまで出てきたこともそうだ。私がいなくとも、お前はその気にさえなればいつでもここに来ることができた」
「そんな、ことは……」
苦い顔をしてしまう。
「だが、それがどれだけ難しいことなのかくらい、私も知っている。何も知らない状態で放り出される恐怖。実際はなんの実害がなくとも、想像するだけ竦み上がるほどの恐怖だ。理屈ではどうにもならない」
八重は立ち上がると、二杯目のジュースを取りにドリンクバーへと向かった。
大した時間は経っていないはずなのだが、早希はひとりでテーブルに座っている時間が永遠にも感じられた。目の前に八重がいないことは、やはりこんなにも怖い――。
「そしてお前は今日、それを乗り越えた」
なみなみとジュースが注がれたコップをテーブルに置き、八重が目の前に腰かける。
「街まで出ることができた。古くさい古書店に入ることができた。ほかにも今までのお前ならできなかったことを、いくらでもやり遂げただろう」
「それは! 先生が――」
「私の存在は大した問題じゃない。ひとりでできるかどうかも問題じゃない。どんなかたちであれ、お前が経験したということが大きな意味を持つ。次に同じことをする時、お前は容易にそれをこなすだろう。その差は、大きい」
料理が運ばれてくる。八重はテーブルに置かれたカトラリーケースからフォークを取り出すと、自分のパスタを器用に巻いて食べ始める。
早希もナイフとフォークとスプーンを取り出し、まずハンバーグを切っていく。食べやすいように最初に全部切っておいてしまうのが早希の食べ方だったのだが、行儀が悪くはないだろうかと八重を盗み見る。
音を立ててパスタを啜った八重を見て、そもそも全国チェーンのファミレスで細かいマナーを気にするほうがおかしいのだと開き直る。だけど八重がパスタを啜ったのは、その一度きりだった。
食事中は互いに無言だった。料理の量は早希のほうが多いが、食べ進めるスピードは圧倒的に早希のほうが速い。ハンバーグを食べ終えてスプーンとフォークを使ってパスタに取りかかった時点で、八重は自分のパスタをまだ半分も食べていなかった。
代わりに八重は何度もドリンクバーに足を運んだ。何度かコップに緑色のメロンソーダを入れて戻ってきたので、少し驚いてしまった。
「これか。自販機やスーパーでは基本的に売っていないだろう」
早希がパスタとプレートの残りを食べ終えると、八重はまだ少し残っているパスタのフォークを置いて、コップを傾けてみせた。中には毒々しいとさえ言える緑色をしたメロンソーダ。
言われてみれば、これそのものが入ったペットボトル飲料はほとんど見かけたことがない。
「だからどうしても、こういうところに来ると恥ずかしげもなく飲んでしまう。人生もその中のメロンソーダも有限だ」
ストローで残りを一気に飲み干すと、面倒くさそうにパスタの残りに取りかかる。
「足りないようなら、追加してもいいからな」
パスタの皿を凝視していたことに気づかれたらしい。慌てて大丈夫ですと首を振る。実際腹はかなり膨れていた。もう一品注文しても完食はできそうにない。
「食べるか」
フォークを置いた八重が、皿をこちらに差し出してきた。
「食べてもらえると助かる。ずいぶんと胃が小さくなってな。これでもう満腹なんだ」
「あ――はい。なら、いただきます」
八重の使っていたフォークごと皿を引き寄せ、かなり冷めてしまったパスタを自分のスプーンの上で丸めて口に運ぶ。八重があれだけ苦労していた残りを、たったふたくちで食べ終えてしまった。
店員がテーブルの皿を全部片付けると、ふたりとも無言でジュースを飲んでいた。
「私は昔、お前と似た生徒を受け持ったことがある」
何杯目かのメロンソーダを傾けながら、八重はぽつりと呟いた。
「何をやらせても完璧にこなし、どんな重圧にも屈することなく、真っ当な理想を抱いて邁進していた」
「えっと、私とはあまりにもかけ離れてませんか……?」
早希は最初、八重が冗談を言ったのかと思った。八重の語るかつての教え子と早希は似ても似つかない。だが、八重は真剣だった。
「そいつはすべてを理解し、見通す目を持っていた。ゆえに、生まれてからずっと、苦しんできた。どれだけ正しい道がわかっていても、人間ひとりの力で道を変えることは容易ではない。子供ならなおさらだ。はじめから失敗するとわかっていながら、失敗にまみれ、敗北を味わい続ける。そいつの人生は諦観と絶望で塗りつぶされていった。私と最初に会った時にはもう、ひどいニヒリストに成長していた」
やはり自分とは全然違う――そう思いながらも、早希は八重の話に聞き入っていた。なぜそんなひとと自分が八重の中で似た存在として扱われているのか。興味というより、得体の知れない直感があった。そのひとも、きっと八重のことが好きだった――。
「なぜ出会う前のことを知っているかといえば、話してくれたからだ。この前のお前と同じように、私のようなやつを信頼して、すべてを吐き出してくれた。私がその信頼に応えてやれたかは――正直わからない。結局私はそいつの前から姿を消すかたちになってしまったからな」
八重は――かつての教え子の影を早希の中には見出していない。いま早希を見ている八重の目は、間違いなく早希の姿を映している。自分勝手な後悔や心残りを早希を使って解消しているわけではない。
ではなぜ、八重は早希とその人物を似ていると評するのか。
「今井、お前はよく私が探している資料を見つけ出すな」
声を出そうとして、早希は途中でその息を呑み込んだ。先ほどの古書店で見つけたジロチョウ河童が記された古書。八重は決して口外しないように、頭を下げてまで早希に頼んできた。だからひょっとして、八重が早希の山勘を問い詰めてくるのではないのかと身構えてしまった。
メロンソーダをすすって、八重は少し残念そうに笑う。
ああ、やってしまった――早希は八重の信頼を裏切ってしまった。八重はただ、早希の勘のよさについて話そうとしていただけなのに。
「そうだな。お前のその見つけ出す感覚を大事にしろ。見えない、わからない中から、本質をつかみ取る力。時にそれは霊感と呼ばれる。私にはないものだ」
「それは――」
そのひとも持っていたんですか――とは聞けなかった。そもそも早希は自分にそんな大それたものが備わっているとは思えないし、聞いてしまえば、早希がそのひとのデッドコピーだと八重に気づかれてしまう気がして、怖かった。八重はきちんと早希を見てくれていることはわかっているはずなのに。
八重がトイレに立ったことをきっかけに、そのまま店を出る。会計時に自分の分は払うと言ったのだが、八重は怖い顔をしてふたり分の代金を払ってしまった。
「あの、やっぱりお金……」
財布を取り出そうとすると、また怖い顔で睨まれる。
「少しは私の顔を立ててくれ。これくらいはほかの部活の顧問ならしょっちゅう出している。それに、今日は私がお前を誘ったんだ」
最後の言い方に、少しの間忘れていた緊張が舞い戻る。
やっぱり、これは、デートなのではないか――思い返せばそんな情緒は欠片もなかったが、本人の口から思わせぶりな言い方をされると、瞬く間にこれまでのふたりの時間に色彩が満ちていく。
「さて、どこか行きたいところはあるか」
駅に向かって歩き始めた八重に言われて、早希は万感の想いで首を横に振った。
いいえ。ただ、先生と一緒なら、どこへでも。
口を突いて出ることはなかったが、早希はすっと、八重の隣に並んだ。
「なら帰るが……駅ビルの本屋を覗いてからでもいいか? 少し気になる新刊が出ていてな」
「はい!」
今度は声に出せた。我知らず今日一番元気のいい声が出てしまい、自分でびっくりしてしまう。
ターミナル駅に戻ると、駅ビルの中にある大型書店に向かう。時漏町はおろか、市内にもこれほどの規模の本屋はない。ただ八重はあまりこういった書店が好きではないらしく、ただ雑誌やムックの最新刊がおおよそ揃っているという面にしか興味はないようだった。
確かに時漏町の書店では、八重が読みたいと思うような雑誌はそもそも入荷していない。注文すれば購入することはできるし、実際に注文して購読している雑誌もある。
今回は普段読むことのないジャンルの雑誌がたまたまアンテナに引っかかったらしく、時漏町の書店でわざわざ注文してから届くのを待つより、大型書店に出向いて買ったほうが早いという判断だった。
立ち読みをしている人間が何人も立っている雑誌コーナーを器用に接触をかわしながら見て回り、目的の雑誌を見つけ出す。
いわゆる経済誌で、普段の八重なら見向きもしないような言葉が表紙に躍っている。
目次を開き、該当すると思われるページを開く。内容を一瞬読み取ると、すぐに険しい顔になってそのままレジに向かう。立ち読みはしない、というのが八重の流儀である。
古書店のレジ袋と大型書店のレジ袋をまとめて右手で持ち、早希と合流してエレベーターを待つ。
「滝尾彼方――という名前を知っているか」
八重が憚るような小声で訊ねてくる。
「えっと、どこかで……あっ、この前なんかのバラエティ番組に出てたと思います」
「そうか」
下りのエレベーターのドアが開く。
「誰がついているのか」
疲れ果てた声で八重がつぶやいた言葉の意味は、今の早希にはわからなかった。
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