8 郷土史部
加古川八重は早希の持ってきたチラシを一読すると、思いきり眉を顰めた。
いつも不機嫌そうな八重だが、こうも感情を面に出すことは珍しい。自分が何かまずいことをしてしまったのではないかと早希は少し慌てる。
「まさか、な」
ひとことぽつりとつぶやくと、八重はチラシを早希に返却した。
「先生、『ジロチョウ祭り』という呼び方は、もともとあったものなんでしょうか」
早希の質問に、八重は先ほどよりも激しく渋面を作った。
「えっ、すみません……」
早希が思わず謝ったのを見て、八重ははっと表情を改める。
「どうして気になる」
早希は昼休みの隼人との会話をかいつまんで伝えた。
八重はすっと手で書架を指し示した。
「まずは調べてみろ。自分で調べると言ったんだろう」
言われて、早希は書架に向かう。
しかしこんな小さな町の祭りのことが書かれた本などまず存在しない。これは早希がこれまで郷土史部で活動してきたことで得た知識と経験である。
なので手に取ったのは、町史と市史であった。
二冊の本を手に机に戻ってきた早希に、八重は何も言わない。選択としてはこれで正解、ということだろうか。
まずは市史の中の時漏町に関する記述を浚っていく。加えて市内の祭りに関する記述も拾い、「ジロチョウ祭り」に似た名前がないかも調べていった。
次に町史。これは市史の半分ほどの厚さだった。祭りに関する記述を入念に追っていき、「ジロチョウ」という表記もないかと目を走らせていく。
「そうだ」
顔を上げた早希に、八重は短く告げた。
早希としては自分の調べ方に抜かりがあったのではないかと意見を求めたつもりだったのだが、八重は早希の読んだ範囲で時漏町の祭りに関する記述が全部だと知っていた。
つまり、「ジロチョウ祭り」という呼称は過去においてどこにも存在しない。
出任せの言葉が突如、町の祭りの正式名称として名乗りを上げた。
「でも、なんで『ジロチョウ祭り』なんて名前をつけるんでしょう?」
「適当な思いつきだろう。『じろうちょう』を縮めて『ジロチョウ』。中学生でも思いつく」
早希はその口ぶりに違和感を覚えた。八重は自分の教え子にあたる中学生という言葉を、頭が悪いというような意味合いで使うようなひとではない。
八重の目は暗く、どこか遠くへと行ってしまったかのように早希を見ていない。
「先生――」
早希は縮こまったままおそるおそる声をかける。自分が持ち込んだ「ジロチョウ祭り」なるものが、著しく八重の機嫌を損ねてしまったのだとわかる。社会全体の常識を身につけていない代わりに、目の前の相手の機嫌を窺うことだけは長けていた。
八重は小さく溜め息を吐き、図書室の椅子に大きくふんぞり返る。
「今井、何をそんなにびくついている」
「えっ……」
言われて、早希は思わず驚きの声を上げた。
八重が早希個人の態度について口を出すことなど、初めてだったからだ。
怒られている――のではない。八重の口調はいつも通りのぶっきらぼうなものだが、浅い付き合いではない早希には、八重が急に距離を詰めてきたとはっきりわかる、穏やかな温かさを感じ取ることができた。
だが感じることはできても、対応したリアクションの取り方はわからない。頭の中がしっちゃかめっちゃかになり、あらぬことを口走るのではないかと気が気でなかった。
八重はまたひとつ溜め息。
「落ち着け」
傍目からわかるほどにまで慌てていたのか――顔が真っ赤になるのを感じながら、早希は必死に落ち着こうと強引にうつむいた。
「私の態度が変わっただけで、そうも慌てることなのか? 職員室での話を聞くかぎり、お前は誰に対してもそうらしいが」
違うとは言い返せない。
違うことは――違う。いま早希が顔を真っ赤にしているのは、八重が突然早希に近づいてきてくれたからだ。心臓が高鳴り、身体中が燃えるように熱い。ほかの人間に対してなら、ここまでの混乱は起こさなかった。
だから、言い返せない。
「何に怯える。何を怖がる。少し、話してみてくれないか」
どうしよう。どうしよう。
八重に自分の話を促されることなど初めてだった。だけど今の早希は混乱の極致にある。また昔のように説明することもできずに相手の気分を害し、怒鳴られはしないだろうか。
八重が決してそんなことをしないことなど理解しているはずなのに、早希は怯えて怖がって仕方がない。視界がぐらりと揺れる。何もしていないのに目が回っていく。
またひとつ、溜め息。
八重は椅子にふんぞり返ったまま、天井を見上げていた。
どうしよう。何も言わないせいで怒らせてしまったのか。結局あの時と同じじゃないか。どれだけ考えても、どれだけ言葉を探そうとも、早希は決して、相手に心を伝えられない。
「落ち着け」
顔を上に向けた八重の口元が、柔らかく緩む。
「落ち着いて、話せると思ったら話せ。話したくないと思ったら、いつでもここを離れていい」
はっと、呼吸の仕方を思い出す。
まだ目が回る感覚は残っているが、早希は自分のペースでの思考を徐々に取り戻していきつつあった。
決して拒絶も強制もしないと、八重が言ってくれた。
いったいどれほど早希の心を安定させたのか――散り散りになりかけだった思考がかたちを取り戻していく中、早希は八重の言葉が自分を取り戻させてくれたのだと気づく。
何もせず天井を見上げたままの八重を視界の端に捉えながら、早希は必死に、だけどゆっくりと時間をかけて、自分の言葉を探し出そうと頭を働かせた。八重は微動だにせず、急かすこともプレッシャーをかけてくることもしない。
普段の早希だったら、目の前に他人がいるという状況だけで考えが支離滅裂になってしまっていただろう。だけどいま目の前にいるのは、早希の心を取り戻してくれたひとだ。このひとは決して早希を否定しないと、はっきりとわかっている。だから目の前に八重がいることが、かえって早希の思考を正常につなぎ止めていてくれた。
どれほど時間が経っただろうか。早希がひとりで煩悶としている中、八重はずっと固まったまま動かなかった。ひょっとして寝てしまったのかとおそるおそる様子を窺うと、目だけがぐりんと動いてこちらを見る。
「落ち着いたか」
「……は、はい」
早希はぽつりぽつりと、つたない言葉で、自分の考えていることを話し始めた。
自分が何も知らないこと。
知っていて当然のことを教えられたことがないこと。
かつて夜店で犯した失態のこと。
結局自分はどこに行っても疎外され続ける性分であること。
恥も外聞もあったものではなかった。カウンセラーが相手でも、ここまで開けっぴろげな話はしない。聞かされている八重からすればたまったものではなかっただろう。だけど早希は話さなければならなかった。八重に対する誠意を見せるには、自分の恥部を自分の言葉で伝えるしかない。
八重は相槌をひとつも打たず、ただじっとこちらを見て早希の話を聞き続けた。早希が言葉に詰まったり、自分で自分の言葉に混乱したりした時も、一切口を挟まず、早希の話したいように任せた。
きっと相手の話を聞く態度として、正しいものではないのだろう。だけど早希は嬉しかった。巧みに引き出された言葉ではなく、自分で考え、悩み、混乱しながら吐き出した言葉で八重に立ち向かえたのだから。
「――すみませんでした」
話し終えた早希は、まず謝った。
「なぜ謝る。お前の話を聞かせろと言ったのは私だ。まあ、ここまで踏み込んだ話をされるとは思っていなかったが」
もう赤面はしない。八重に対しては一生分の恥をさらけ出してしまった。どれだけ上塗りしようと、もはや恥とも思えない。
「そうだな。今井、今週末は暇か?」
「はい。休みは基本いつも暇ですけど……?」
「ならちょっと私に付き合え」
「ええっ?」
思わず声が出てしまう。八重の口ぶりが、まるで早希をデートに誘っているかのように受け取れたからだ。
「そこまで驚くことか……。単なる郷土史部の部活動だ」
「なんだ……それならもちろん、参加します」
「よし。なら土曜日の午前九時に、駅に集合」
「駅!」
また声を上げる。
「そうだ。街のほうに行く。付き合え」
やっぱりデートじゃないか――早希はまたもや、見る間に赤面した。
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