4 時漏町祭事についてのお願い

 休日、今井早希は祖父の怒鳴り声で目を覚ました。

 もともと喧嘩っ早いひとで、外で酔って問題を起こすことも何度かあったが、こんな朝っぱらから怒鳴り散らすのは珍しい。

 早希の家は時漏町にはありふれた二階建ての一軒家で、広くはないが自分の部屋もある。二階のこの部屋まで明瞭に祖父の怒声が聞こえてくるということは、どうやら玄関でやりとりをしているらしい。

 早希は声を立てないように呻いて、布団を頭まで被って耐え忍ぶことにした。

 下手に顔を出して大人同士の係争に首を突っ込みたくない。それどころか顔を出せば祖父の怒りがこちらに飛び火する恐れさえあった。中学生としての正しい身の振り方というものは当然身に染みついている。自分の意見は述べず、大人の言うことに従い、もし大人同士の言うことが食い違ったのなら黙って見ないふりをする。

 がらがらと激しい音を立てて玄関の引き戸が引かれ、勢いが強すぎたせいで文字通りぴしゃりとあたり一帯に聞こえるほどの閉まる音が響いた。

 今から二度寝をするのには目が冴えすぎてしまった。枕元のスマートフォンの画面を点けるとすでに午前八時を回っている。外は嫌気が差すほど明るかった。

 一晩中エアコンは効かせてあるが、この部屋は南側のせいで残酷なまでの日差しを直接浴びることになる。厚手のカーテンを引いても夏場の日光は容赦なく部屋の中を熱していく。あまり長い間寝ていると気づかぬうちに汗だくになってしまうので、目覚めは最悪だったが布団から起きることにする。

 郷土史部に休日の部活動はない。なので早希は休日はいつでも時間が空いている。

 だからといって活動的になにかをするわけではない。時漏中学校では生徒全員に部活動への参加が義務づけられており、クラスメートたちは今ごろ学校で練習をしているのだろう。

 生徒たちは基本的に、運動部に所属することになる。文化部に入る者は例外なく変人扱いされる。「文化部」という言葉自体が侮辱語として機能するほどにまで、運動部偏重の校風は根強い。

 たぶん、小学生のころに足が速かった者が無条件でリーダー格となれた感覚と地続きなのだと思う。それはそのまま、足が遅かった者は無条件で馬鹿にされたということだからだ。

 なので早希にはこれと呼べる友人はいない。クラスでは話しかけられれば普通に話すし、特に排斥されているわけでもないが、休日に一緒に街のほうに出かけるような相手はいなかった。

 早希自身、この状態にはなんの不満もなかった。

 不満と言えば、休日には加古川八重に会えないというくらいだ。

 寝間着のスウェットのまま一階のリビングへと向かう。朝食はあるものを食え、というのが今井家のルールで、祖母が毎朝炊いてくれる白飯と、冷蔵庫の中の納豆、昨日の夕飯の味噌汁でメニューを組み立てる。

 コンロで味噌汁の鍋を温めていると、大きな音を立てて祖父が椅子に腰かけた。さすがに頭が冷えたであろう頃合いを見計らって下りてきたのだが、どうやらまだ怒りが収まっていないらしい。

「早希、お前はなんで青年団に入らん」

 気づかれないようにコンロの火力を弱めてキッチンに立っている時間を引き延ばそうとしていたのだが、祖父のほうから話しかけられてしまった。

「青年団って、お祭りの?」

 時漏町の祭りには定まった名前がない。なので町民はみな「お祭り」や「祭り」と呼び、年配の者は名詞そのものを省略して話すことも多い。その理由を八重に訊ねたことがあったが、自分で調べろとにべもなく突き放されてしまった。

 コンロのつまみを一番端にまで寄せた弱火のまま、鍋をかき混ぜ続ける。下手なことを言って機嫌を損ねられると面倒なので、まず物理的な距離をキープしておきたい。

「そうに決まっとるだろうが。お前ら若いのがみんな青年団に入っとりゃあ、あいつらもこんな馬鹿な考えは起こさなかった」

 祭りの青年団には、今でもそれなりに町の小学生から高校生までが入団している。ただやることと言えば神輿を担ぐ役を交代しながら威勢よく神輿の周囲で声を張り上げることと、酒を飲まされることだけだ。暗黙の了解で、中学生以上の青年団は「大人」と見做され飲酒を強要される。

 早希としてはまだ酒に興味もないし、そんな文化に自分から浸りにいくような連中とは関わり合いを持ちたくもない。学校の中でも結構な人数が青年団に所属しているから、決して口には出さないが。

 それよりも祖父の口ぶりが少し気にかかった。

「お祭りでなにかあったの?」

「市役所にいる若いのが中心になって、観光に利用しようとしとるらしい」

 鍋が煮立ったので仕方なくお椀に味噌汁をよそってテーブルに運ぶと、祖父の前にくしゃくしゃになったチラシらしきものが転がっていた。

「読んでいい?」

「いいが、妙な気は起こすなよ」

 汚らわしいものでも見るようにチラシを一瞥すると、祖父は椅子から立ち上がって自分の部屋へと戻っていった。

 ひとまずとばっちりを食らうのは避けられた。安堵しながらチラシを広げていく。紙は色こそついているが安いコピー用紙らしく、印刷も黒一色で味気ない。学校で配られる連絡用のプリントのほうがまだ見栄えがする。


 時漏町祭事についてのお願い


 見出しには斜体でそう書かれていた。「時漏町祭事」というのは公的な文書などで用いられる祭りの呼称である。かといって公式の呼称であるわけではないが、文書に起こす際にわかりやすさを重視するならここに落ち着く。

 内容は簡潔だった。これから「時漏町祭事」を「ジロチョウ祭り」と呼称することに賛同してほしい。そして――直接的には書いていないが――「ジロチョウ祭り」という呼び方であるということで口裏を合わせてほしい、というものだった。

 確かに観光資源化するなら、祭りに名前がないのでは締まらないという理屈はわかる。気になるのは新しい呼称である。「ジロチョウ」――時漏町が詰まったものなのだろうが、地域の誰もそんな呼び方はしない。

 きっと大人の考えることだから、深い考えがあってのことなのだろう。早希にとっては青年団も市役所も祭りの運営も、どこか遠い場所の出来事で、自分が口出ししようものなら訳知り顔の大人たちに詰め寄られることがわかりきっている。

 この町の仕組みというものを、早希はまだ理解できていない。郷土史を捲っているだけでは気づくことのできない、現在地に生きる者たちが組み立てていったルール。

 まだ祭りに夜店が多く出ていたころ、早希は初めてひとりで祭りを見に行った。神輿を担いでいる男たちを遠目に見ながら、目当ての夜店を探して神社の参道を歩いていた。

 ヨーヨー釣りの夜店の内側に、見知った顔があった。気の置けない間柄だったクラスメートの男子だ。頭にタオルを巻いて日に焼けた夜店の主人に楽しげにちょっかいを出しては笑って小突かれている。

 早希はなんだか楽しそうだったので、そちらに駆けていくと水ヨーヨーの入った水槽に手をついて、クラスメートに気づいてもらおうと「おーい」と声をかけた。

 その男子は、明らかに優越感を湛えた表情を浮かべ、主人に「お客さん」と叫んで笑いながら参道の中へ駆けていった。

「一回二百円ね」

 主人はぶっきらぼうに言って、掌を向けてきた。

 早希は戸惑う。用があったのは先ほどのクラスメートで、ヨーヨー釣りにはなんの興味もない。むしろ貴重なおこづかいを持っていかれてしまうので、お金を払うことには大きな抵抗があった。

 幼い早希に筋道立てて経緯を説明することは不可能だった。加えてなぜクラスメートが立ち去っていってしまったのか理由もわからない。パニックに陥っていながらも、必死に相手に状況を伝えようとする。だけど舌は絡まるばかりで、当然まったく要領を得ない。

 店主は苛立ちを隠そうともせず、恫喝の声を短く張り上げた。早希はそれでもなおきちんと説明しようと頭を巡らせた。かえって自分の混乱が増すばかりだったが、懸命に言葉を探し続ける。

 店主にはどうやら早希が挑発してきたように映ったらしい――理解できたのは何年も経ってからのことだったが、とにかく店主は大声で怒鳴った。混乱する早希を追い払うには十分すぎる口汚い罵りの言葉で、早希はやっとその場を立ち去ることができた。

 年ごとに夜店の数が減っていく中で、早希は祭りの夜店というものが地域と密接に関わっているものだと把握していった。あの時のクラスメートの父親が地元の暴力団の構成員だということを、彼がいくつかの夜店に手伝いに出るようになったのを見て黄色い声を上げていた周囲の女子たちから聞いた。

 馴れ馴れしく話しかけていく女子たちに向けて彼が浮かべていた表情には見覚えがあった。早希を置き去りにしていった時と同じ、優越感に浸ったしたり顔。

 早希は無知だった。広義にも狭義にも世間知らずのまま生きていた。

 地域社会の常識というものは懇切丁寧に教えてもらえるものではない。みなが知っていて当然という前提で社会は動いている。余計なひとことは余計な波風を立てかねない。早希は自分が無知であることで結果的に怒鳴られたと理解している。ならば要らぬ詮索はしてはいけないし、大人たちや勝手を知っているほかのクラスメートの言うことが正しいのだろうと疑わないようにしておくことが自分の身を守る第一の方策であった。

 いったいクラスメートたちはどこで知恵をつけているのか、早希は単純に不思議だった。きっと先に知恵をつけた子供がほかの子供に見えないところで知恵を分けているのだろうが、幸か不幸か早希はそんな機会に恵まれたことがない。結局のところ悪口や陰口のかたわらで交わされる会話だと想像はつくし、早希は悪意を共有するだけの価値がないつまらない子供だと見做されているのか。

 疎外感はあった。どうせ死ぬ町とはいえ、今現在早希が暮らしている社会である。早希にとってはこの地域社会だけが自分の存立できる居場所であり、そこでの早希は何も知らない無知蒙昧な子供のままだ。嘲られ、怒鳴られ、存在を無視される。

 別に不快感はない。早希は最初からずっとそうだった。今さら輪の中に加わりたいとも思わないし、無理をして常識を身につけようとも思わない。

 ぼんやりと疎外した立ち位置で、死にゆく町を出る時を待つ。来年は高校受験に一年を費やし、再来年には市内だが町の外にある高校に進学する。何かが変わる気はあまりしないが、大学にまで進学すれば県外には出られる。

 将来を考えるのは憂鬱だった。特に目標もなく諾々と進学していって就職。働いて退職して死ぬ。そのくらいしか見えていない。世の中の大半の人間はどうしてかそれをうまくやっていることと、いつでもどこでもつまずく可能性が潜んでいることは知っている。

 どうせ自分はどこに行こうと世間知らずのままなのではないか、とはいつも思う。あちこちに地域社会は存在し、社会の数だけ常識が存在する。早希はどこに属そうとも永遠に疎外され続ける性根が身に染みついてはいまいか。

 だとしたら今の状況も悪いことばかりではない。早希はこれから疎外される人生の予行練習に精を出しているわけだ。

 チラシを丁寧に折りたたんでスウェットのポケットにしまうと、すっかり冷めてしまった朝食を食べ始めた。

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