2 死にゆくひと

 きっと、このひとはずっと死なない。

 今井いまい早希さきは中学校の人気のない図書館で、机に本や地図を広げて目をしばたたきながら素早く、だが丁寧に整理していく教師の姿に見惚れていた。

 すでに若さは失われ、目元や頬には深い皺が刻まれている。目には老眼鏡。ボリュームと艶を失いかけている髪の毛のところどころには白いものが混じり、寝癖なのか少し跳ねているのが目に入る。

 加古川かこがわ八重やえは早希の通う時漏中学校の社会科の教師である。どのクラスの担任にもなっていない、授業でだけ教室に顔を出すかたちで学校に所属している八重の評判は、生徒によってまちまちだ。

「今井。これとこれとこれ、戻してこい」

 ぶっきらぼうで突き放すような言葉遣い。まずこれで拒否感を覚える生徒は一定数存在する。すでに老いを見せている女性がこんな物言いをするだけで、そこに大きな隔たりを感じさせてしまう。

 早希は言われた本を背ラベルの十進分類記号を頼りに、もとの書架に戻しに向かう。借りていく者がほとんどいない棚のものばかりなので、おおよその位置がわかれば棚が空いているのですぐに判断できる。

 書架のほうから、こちらに目もくれず机の上の資料と向き合う八重に視線を送る。

 八重は時漏中学校の教員でありながら、民間の郷土史研究に手を出している。

 現代では不可能とさえ言われる、教員と民間研究者の両立。それを実現しているのが、加古川八重というひとだった。

 教師の仕事の手を抜いているわけではない。授業はわかりやすいというのが全体の意見であったし、そのためのプリント作成やテスト問題もすべて自分の手でまかなっている。

 ただ、ズルはしていると思う。

 八重は時漏中学校の、郷土史部の顧問であった。

 この郷土史部、去年早希が入部するまで、長い間部員が存在しなかったという。

 だが活動はしていた。

 顧問である八重が、自分の研究のためだけに部員のいない部活動を動かし続けていたのだ。

 完全な部活動の私物化。ただし、八重の言い分では郷土史部はもともと時漏中学校のクラブ活動以前から在野研究のための場として存在しており、これに学校の部活動の規則は当てはまらない――というものだった。

 理屈はわからなくはないが、それでも無茶苦茶だと思う。

 結局やっているのは学校内の部活動と割り当てられたスペースをひとつ占有していることにほかならないし、部員がいない期間、どうやって世間を欺いてきたのかと不安になってしまう。

 そのせいか、去年早希が入部すると言った時も、八重は別段なんの感慨も見せなかった。言い逃れのすべはすでにいくらでも八重の手中にあったし、いまさら正規の部員ができたところで、彼女の活動にはなんの影響もなかった。

 そして早希が入部してからも、八重は何も変わらない。

 ただひとのいない図書館で資料と向き合い、整理し、まとめる。

 早希がやっていることといえば、今のように資料を書架に戻すことくらいである。

 時漏町には歴史がない――とひとは言う。

 八重はそれを鼻で笑う。

 たとえ五秒前にこの町ができたとしても、そこには五秒分の歴史がまず存在し、加えて五秒分以上の歴史が必ず存在する。

 数少ない早希との会話で、八重はそう話してくれた。

 口数自体少ない八重が、皮肉交じりでも自分の意見を伝えてくれるのは珍しい。だからその時の八重との会話は、今でも早希の宝物だ。

 その時、早希は自分の考えをすなおに伝えた。

 この町は死にかけている――。

 いま思えば、八重への挑戦ですらあった。

 この死にゆく町の郷土史をまとめて、いったいどうするつもりなのかという、不遜な問いかけだった。

 だけど八重はやはり、それを鼻で笑った。

 この世に死なないものはない。

 それは、歴史だろうと例外はない。

 どれだけ残そうとあがいても、文字に残しても、画像を焼きつけても、動画を回しても、消えるものは呆気なく消える。故意もなく、悪意もなく、そうして消えてきたものは数知れない。

 どうせみな死ぬ。消える。滅びる。

 だからこそ、八重はそこに価値を見出す。

 遺産レガシーなどとご大層な名分のためではない。かつてあった過去。そこに残された遺留物を、ちまちまとかき集めているだけにすぎない。

 こんな町で頼りになるのは、いつだって何気ない過去の雑談ぞうだんだという。この土地の歴史を残すべく書かれたものは少なく、頼りない。ならば、ほかのくだらないハナシに書かれた部位部位から、この町の過去を探り当てていくのが確実――というより、それしか手段がなかった。

 町史が最後に発刊されたのは戦前。市史は五十年以上前。市の広報誌は昭和の終わりになってようやく県立図書館が収集を開始。公文書と行政文書は目録も検索サービスもなく、閲覧すべき資料にたどり着くだけでも大仕事になり、歴史資料として保存されているものへのアクセスは一介の教師には困難を極める。

 それらは間違いなくもっとも頼りになる資料だったが、八重は今ではそれらの記述にすら疑問を抱き、もととなった資料――さらにそのもととなった資料を調べている。そうした資料は当然のように散逸しており、町や市の図書館でも見つからない。

 そこで八重が頼りにしているのが、県外の大都市の古書店街だった。月に一度はそこに出向き、資料を漁る。市内にはそもそも古書店自体が存在せず、県内でも大きな市に二軒程度しか見当たらない。

 そして幸運にも行き当たった資料は、どれもこの町自体を書いたものではない。各地の珍しいハナシを集めた民話集。地区の寺社仏閣の成り立ちを記した縁起集。時漏町を流れる報瀬川しらせがわの治水工事についてまとめた読み物。

 素人目からは、この町は最初から死んでいる――いや、生まれたという意識すらない。それを証明するための資料はこうして散らばっており、人目に触れる機会を失っている。

 ならば八重は、時漏町を生かすために郷土史をまとめているのかと聞けば、それは違うと笑う。

 町は死ぬだろう――八重はなんの感慨もなく、早希に言った。

 だが町が死んだあと、その記録がすべて吹き飛んでしまうのは、あまりに無責任だと八重は憤る。

 死ぬなら死ぬなりの示し方がある。存在したはずの歴史を放り出して死んだのでは、ただの無理心中だ。

 どうせ残したところでいつかは消える。それでも八重は時漏町の歴史を編んでいく。

 ああそうか――早希は皮肉たっぷりに、だけどとても楽しそうに話す八重の顔を見て、確かにそれは先生らしいなと思った。

 このひとは、この町の遺書を書いているんだ。

「今井」

 すぐ後ろから声をかけられ、かつての思い出に浸っていた早希は飛び上がらんばかりに驚いた。

「先生! びっくりした……」

「お前がいつまでも戻ってこないから、自分で本をとりにきただけだ」

 時漏町に公立の図書館はない。その代わりに、ここ時漏中学校の図書館はかなりの面積と所蔵数を誇る。

 それなりに広大な図書館をひとりで歩き回ると、それだけで大きな時間のロスになる。その時間が楽しいのだと早希は思うが、八重はあまり好きではないらしい。

 八重が書架に手を伸ばすのを、早希は待ったと止める。

「先生、その本は昨日読んでましたよ。報瀬川関係なら、これとか、これ」

 早希は話しながら、素早く本棚から分厚く重い本を数冊抜き出していく。

 早希は実際にこれらの本の内容を読んだわけではない。ただ本のタイトルと本棚での位置からアタリをつけて、役に立ちそうなものを見極めることが、この一年間で早希が身につけた技術だった。

 ただし、的中率はよくて四割といったところ。それでも八重は早希の山勘を気に入り、いつも調べている内容を伝え、早希の選択に任せて自分は机でどんと構えているようになった。

 さすがに勘だけでは申し訳が立たないので、早希自身も八重の読んだあとの資料を読むようにはしているのだが、正直内容が難しくてあまり頭には入ってこない。

 早希は両手で抱えた資料を持って、八重と並んで机に戻る。特に会話はないが、なんだか博士と助手みたいで楽しかった。

 広い図書館の机は広い。八重がいっぱいに資料を広げても邪魔になる人間はそもそもいない。向かい合う席に座ると、大きい机ふたつ分距離ができてしまうかたちになる。

 本来なら互いの邪魔にならないようにと配慮された配置。実際、隣の席に早希が座れば、八重は邪魔だと顔を顰めるだろう。

 だから、これくらい離れていなければならない。このくらい離れているのがちょうどいい。

 早希はさっき戻してこいと言われた中の一冊を八重の向かい側の席で読みながら、だけどほとんど集中せずに、何度も八重の姿を見ていた。

 時漏町が死ぬ時のため、この町を調べる八重。だけど、たとえ時漏町がなくなっても、八重のやることは変わらないだろう。なくなった町をいつまでも同じように調べ続ける。死を越えて、遺書を綴り続ける。

 だからきっと、このひとはずっと死なない。

「今井」

 目の前で声がして、早希はぎょっと顔を上げる。

 八重が机に身を乗り出して、その顔が早希のすぐ前にあった。

「さっきから、それをとってくれと言ってるんだが……眠いのか?」

 八重は怪訝そうに目を細めながら、早希の手元の本を一冊掴んで身体を引っ込める。

 あっという間に、八重はもとの位置に戻り、また資料と格闘を始めた。

 心臓が高鳴っていた。

 八重にとっては、この程度の距離などなんの関係もない。うんと身体を伸ばせば、簡単に早希の目の前にまでやってくることができる。

 机でできた物理的で精神的な距離で自分を守っていたことが、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。

 だから――そう。

 早希は、このひとが好きなのだ。

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