5. 言えない言葉


「ああアイリス様、おいたわしい……」


 寝台の側に控えてさめざめと泣くカトレア。彼女がどこかから持ち込んだ分厚い毛布にくるまれて、私は熱に浮かされた頭で自分の失態を恥じていた。


 日が昇った頃、私はカトレアの悲鳴で目を覚ました。

 慌てる彼女をどうにかなだめ、重い身体でのろのろと寝台に乗り上げる。

 もはや無意識のうちに"祈り"を行い、情けないことに私はそのまままた意識を飛ばしてしまったのだ。


 昼からは公爵夫人らとのお茶会の予定があった。各領地の現状を知れる貴重な社交の場だ。

 けれどさすがにこの状態の私を出すことは出来ないと、カトレアが陛下の侍従に私の体調のことを伝えたらしい。

 陛下からは一言、


『来なくていい』


 気遣いのようにも聞こえる言葉だったが、どうやら代わりにリオをお茶会に参加させる算段のようだった。

 昼過ぎに意識を取り戻した私に悔しげに伝えるカトレアの言葉を聞いて、深く嘆息することしかできなかった。


 外堀が、埋められている。


 陛下がリオを妃として迎えたいのだということは分かる。

 けれど、私は国の盟約に基づいて嫁いできたイシュタリアの皇女だ。一方的な離縁は国際問題になりかねない。

 ───イシュタリアが、私の為に動くとは思えないけれど。


 陛下は彼女を本当に愛しているのだ。

 だからこそ彼女がこの国で生きていけるように、作法を教え、有力貴族との顔合わせをさせている。

 ……妬ましい、とは思わない。

 私は元より陛下に愛されることなど望んでいなかった。自分の務めを果たすことが全て。そこに男女の情など必要なかったからだ。


 けれど。

 陛下の愛を一身に受けて、花のように無邪気に笑うリオを見ていると、心臓の奥底がすうっと冷える感覚がする。

 妬みも怒りもないというのに、胸の中でわだかまる、この感情を何というのだろう。




◇ ◇ ◇




「それでね、公爵夫人ったらね!」

「…………」

「……アイリス様、聞いてます?」

「ええ勿論」


 何故、こうなっているのか。

 よりにもよって今、彼女と二人きりなんて。




 あれから三日間熱が引かず寝込んでいた私は、ようやく復調し、先日の非礼を詫びる書状をしたためるために城内の執務室を訪れた。

 陛下に挨拶すると「……以後気をつけろ」と苦い声が返ってくる。

 ……言われるまでもなく。

 今後は今まで以上に気を張らなければ。どんなに身体が弱ってしまっても、最期の時まで、綻びを見せないように。


 お辞儀をしてから自分の机に向かう。

 カトレアが差し出した羊皮紙を受け取り、ペンを手に取ったその時、コンコン、と執務室の扉が軽快に叩かれた。


「お仕事中にごめんなさい……入ってもいいですか?」

「リオ!」


 弾かれたように立ち上がった陛下が慌てて駆け寄り、遠慮がちなリオの手を取った。


「どうしたんだ、リオ。今日は侍女と書庫に行くと……」

「そのつもりだったんだけど……」


 きょろりと室内を見渡した彼女は、私と目が合った瞬間ぱっと顔を輝かせた。


「……アイリス様がいるって聞いて!」


 そうしてそのまま、陛下を置き去りに私の下にぱたぱたと走り寄ってきた。

 突然のことに面食らう私をよそに、リオは机越しに私の顔を覗き込んだ。


「具合は大丈夫ですか? 熱が出たって聞いて心配で……でもヴァンが許してくれないからお見舞いにも行けなくて!」

「はあ……」

「代わりなんて務まるわけないのにお茶会に呼ばれて……でもとっても勉強になったから、アイリス様にもお話ししたくて!」

「…………」

「……あ、も、もちろんまだ体調が優れないならまたの機会でいいんですけど……」


 まるで仔犬のように潤んだ瞳でこちらを窺う彼女の様子に、私は思考を放棄して息をついた。


「……私は構いませんよ。陛下のお許しがあれば、ですが」

「ヴァン!!」


 所在無さげな陛下を振り返った彼女の目力の強いこと。

 常の陛下ならば絶対に許しはしないだろうが、数日間彼女の希望を叶えてやれなかったという負い目があるのか、しばらく逡巡したのち彼は不承不承頷いた。


「……いいだろう。ただし側には侍女を控えさせる。リオに危害を加えようなどと思うなよ」

「またそんなこと言ってー!」




 お茶菓子を囲んで、彼女と二人、向かい合う。

 そういえばこんな機会は今までなかった。彼女の傍らには、陛下をはじめ常に人がいる。

 今も奥に侍女がいるのだから厳密には二人きりではないけれど、違和感は拭いきれない。

 当のリオはそんな空気など意にも介さず、ひとり楽しそうに公爵夫人たちとのお茶会の様子を語っている。


「その時アリが一匹テーブルの上に登ってきて! 夫人たちったら大騒ぎで跳びのいちゃったから、とりあえずお菓子に辿り着く前に捕まえて近くの花壇に逃がしてあげたら、逆に怒られちゃいました。虫に平気で触るなんて淑女の風上にも置けませんわ! ですって。でもお菓子を死守したんだから褒めるところじゃありません!?」

「……そうですね。貴女の気概はよくわかりました」

「そこからはもう延々と、淑女の嗜みについての講義でしたよ! お辞儀の角度とか、お茶の飲み方とか!」

「大切なことですね」

「ええ〜、本当ですか?」


 やがて言いたいのとはだいたい言い切ったのか、満足そうに冷めたお茶を飲み干すリオを見ていて、ふと常々抱いている疑問が口をついて出た。


「……貴女は、よく私との対話を望みますね。特に面白い話が出来るわけでもないのに、何故でしょう」

「へ?」


 きょとんとしたリオは、なんでもないように応えた。


「だって、アイリス様は優しいから」


 今度はこちらが虚をつかれる番だった。

 優しくしたことなど、あっただろうか。

 ただ時折訪れる彼女の話に相槌を打っていただけだ。それどころか彼女の礼儀の無さを咎めたことすらある。

 私の戸惑いに気づいていないのか、彼女は笑みを深めて言葉を続けた。


「この世界に来て、みんな私を特別だって言って、そういうふうに扱われて。私も自分でそうなのかなーって思っちゃってたんです。でも、アイリス様は、私を普通のお客さんとして接してくれましたよね。多分、異世界から来た人でもそうじゃなくても、おんなじように。良いことは良い、悪いことは悪いってちゃんと言ってくれる。それって、すごい優しさだと思うんです」

「…………」

「まあ、アイリス様がお綺麗すぎて、憧れちゃうってのもありますけど!」


 照れたように目を逸らした彼女は、残ったお菓子をぱくぱくと口に運ぶ。

 その姿を眺めながら、また胸の奥がつんとするのを感じていた。


 ああ、この子は───


「……リオ=カトー」

「はっ、はい!?」


 急に呼ばれて飛び上がった彼女の小さな手に、自分の手をそっと重ねる。

 目を見開いてこちらを振り仰いだ彼女の黒曜石を見据えて、私は口を開いた。


「貴女は、学ばなければなりません」

「学ぶ……?」

「この国のこと、他国のこと、そこに生きる人々のこと。貴女は貴女の感性のままで、よく学び、考えなさい」

「は、はい……」

「そうすれば、貴女は───…」


 私亡き後、きっと誰からも愛される王妃となる。


 その言葉を、最後まで口にすることはできなかった。


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