4. 出会い


 目の奥が熱い。


 瞬きすることすら億劫なくらいの身体の重さ。全身を鉛の海に浸したようなその感覚は、急激に熱が上がってきた時のものだった。

 ゆるりと首だけを巡らせて窓の外を見る。

月が天頂に近い───もう随分遅い時間らしい。

 ベルを鳴らせば誰か駆けつけてくれるかもしれないが、こんな時間にわざわざ暗い塔を登らせるのも気が引けた。


 以前熱を出した時に処方してもらった薬が残っていた筈だ。

 ゆっくり身体を起こし、手足を引きずるようにして窓際に据えた小棚に向かう。

 薬を飲んで寝てしまおう。明日の朝の"祈り"をつつがなく行えるように。

 昼間には公爵夫人とのお茶会もある。なんでもないように振舞わなければ……。


 朦朧とする意識の中、ようやく小棚に辿り着き、引き出しに手を掛けた、


 刹那、


「───貴女がイシュタリアの聖女か」


 響いた声に瞠目する。

 此処は塔の最上階、外に人がいるはずは───


 目を向けた先で、ばさりと黒い翼が羽搏いた。

 静寂の夜に溶け込むようにして、漆黒の「彼」が、浮かんでいた。




◆ ◆ ◆




「貴女がイシュタリアの聖女か」


 報告にあった通り、西の塔の最上階。

夜闇の中でも分かる朽ち果てたその塔の中に、彼女を見つけた。

 声を掛けると、緩やかに持ち上げられた朝焼けの瞳が大きく見開かれる。

 顔面は蒼白なのに頰は妙に蒸気していて、手足が僅かに震えている。

 ……体調が悪いのか?

 そう思って手を伸ばした瞬間、


「無礼者」


 瞬きの間にこちらに懐剣の切っ先が向けられていた。


「私をクレルシェンド王国の王妃と知っての狼藉ですか。我が身に触れることは許しません」

「ああいや……すまない触れるつもりは……」

「それともこれが貴国流の外交術だとでも? 魔族の王───エドウィン=ギル=ド=ヴォーデルム」

「!」


 まさか、名前まで当てられるとは思っていなかった。

 鋭く俺を睥睨する瞳には確信が宿っている。


「……何故俺が王だと?」

「各国の王族や首脳を把握出来ずして一国の王妃が務まりますか。お会いしたことはなくとも姿形の特徴は伝え聞いています」


 まさかこんな形でお会いするとは思いませんでしたが、と彼女は鼻を鳴らす。


「それで、何の御用ですか? 夜更けに他国の王妃を訪うなど、戦争をお望みとしか思えませんが」

「……いや、あの……」

「この場所に来たということは私に何か用件があるのでしょう。人を呼ぶ前にお答えなさい」

「…………………………に……」

「はい?」

「友達に、なりに来たんだ」


「…………はい?」


 目を丸くして、小首を傾げる。

 それが、彼女が初めて見せた人間らしい表情だった。



◆ ◆ ◆




 この男は、今、なんと言ったのか。

 柔らかくうねる髪を横に流した目の前の美丈夫は、大柄な身体を竦ませて困ったような顔をしている。

 ともだち。……友達?

 言葉に頭が追いついたところで、理解には到底及ばない。


「………………何故?」


 たっぷり呼吸を置いて当然の疑問を口にすると、魔族を統べる者として畏れられているはずの彼は、あー、うー、と意味の無い声を上げながら必死で言葉を探しているようだった。


「……貴女は、魔族の起源を知っているか?」

「……あらゆるものを司る精霊の力を、人の身で使えるようになった者」

「そう!」


 身を乗り出しかけた彼は、私が向けている懐剣の存在に思い至ったのかぐっと動きを押し留めた。


「……そう、その通りだ。遠い昔から、精霊の力を手に入れた者は魔に染まった悪として迫害されてきた。人に害など出さない、自然界の精霊の力だというのに」

「現代では誤った認識とされていますが、代々続いた先入観というのは抜けないものですからね」

「だから当然我が国は他国との交流がない」

「ヴォーデルムの土地は豊かだと聞き及んでいます。貿易もそれほど必要ではないのでしょう」

「……そして、貴女の話を聞いた」

「?」


 血よりもずっと濃い真紅の瞳が、痛むようにそばめられる。


「精霊を貴ぶイシュタリアの聖女が、クレルシェンドで虐げられていると」

「…………!」


 私の現状は、王城の中枢部しか知らない事実。

 さっと身を強張らせた私に彼は慌てて言葉を重ねる。


「これは精霊伝いに知ったことだ。当然、他国には感知されていないだろう」

「……そうですか」


 僅かに力を抜く。それを感じ取ったのか、彼は静かに続けた。


「貴女は今、孤独だろうと」

「…………」

「俺も同じだ。周辺諸国に疎まれ、同じ目線で語り合える者がいない」

「…………」

「だから、此処で囚われている貴女と一対一なら、友達になれるだろうと───」

「なるほど、よくわかりました」


 私がこの男に憐れまれ、都合のいい話し相手として白羽の矢が立ったということが。


「お帰りください、ヴォーデルムの王」

「え……」

「例えどのような場にいようと、私はクレルシェンドの王妃。お友達になりたいというなら正式な手順を踏むべきです」

「いや、しかし……」

「御機嫌よう、ヴォーデルム王」

「あの……」

「御機嫌よう」


 有無を言わせぬ空気を察したのか、彼は少し逡巡した後にばさりと大きく羽搏いた。精霊の力を借りたのか、そのまま姿を消してしまう。

 彼の気配が完全に消え去った瞬間に、私は力なく崩折れた。


 ───いったい、なんだというの。


 体調不良に予期せぬ出来事が重なって、立ち上がる気力すらない。

 硬い石の床に倒れ込むようにして、私はそのまま意識を失った。


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