3. とある儀式
「アイリス様……」
背中から聴き馴染んだ声が響く。
振り返ると、侍女のカトレアが唇を噛み締めて俯いていた。
「申し訳ございません……一部の使用人や近衛兵が囁く噂が陛下のお耳に入ったばかりに……」
「貴女が謝ることではないわ、カトレア」
強張った肩をそっと撫でる。
「誰が何を言おうと、最後のご判断は陛下ご自身の責任です。あの方がそうだと断じられるならば、遅かれ早かれこうなっていたでしょう」
「でもあんな言い方……っ」
「良いのです。あの方にとって私はその程度の存在だったというだけのこと」
「……アイリス様…………」
できる限り背筋を伸ばして気丈に振る舞う。この先どうなるとしても、今の私は王妃なのだから。
「それよりカトレア、陣を新調せねばなりません。手伝ってくれるかしら」
「そ……れは勿論です、しかし塔での生活となると……御身の血が……」
「いくら抜いても構いません。時間がかかるだろうけど、明日の"祈り"にまでは間に合わせたいわ」
「……ご随意に。すぐに準備いたします」
カトレアは唯一、イシュタリアから一緒に来てくれた侍女だ。私の役目も、その方法も、正しく理解しているのは彼女だけ。
大変な作業を一任してしまうのは申し訳ないけれど……これだけは、譲ることが出来ないのだ。
"祈り"。
私が便宜上そう呼んでいる儀式で何が起こっているか、傍目にはよくわからないだろう。
なにせ私は、寝台の上で横になっているだけなのだから。
ただ整えられたそのシーツの下には───私の血で描かれた陣がある。
太い注射針で抜いた大量の血液を、乾かないうちに筆に浸して滑らせる。貧血になど構っていられない。イシュタリアの古代文字で綴られる特殊な陣を描けるのは自分ただひとりだ。
大地とそれを司る精霊達への感謝、豊穣への祈り、その対価───そういったものを象った陣は、直接大地に接していなければならない。
寝台に描いたそれの端を細く延ばしながら筆を進め、階段の端に沿わせながら少しずつ陣を下に下ろしていく。塔の入り口でようやく土にまで辿り着き、私は大きく息を吐き出した。
陣は成った。
あとは私が寝台に上り、「命」を注ぐことで、儀式は完成する。
精霊の加護、と一口に言っても、現代において信仰の残るイシュタリア以外の土地でそれらの恩恵を受けることは難しい。
特にクレルシェンドは、一度枯渇した大地故か精霊達の力が極端に弱い。
それを補う為に差し出すのは、他ならぬ私の「命」───つまり生命力だ。
精霊の加護を受けたイシュタリアの皇族の血を媒介に、生命力を大地に流し込み、この地の精霊にそれを使ってもらう。
実に単純で、それ故に替えのきかない役割だった。
「けほっ……」
最近咳が止まらない。
───生命力を明け渡すということは、そのまま自らの命を削るということ。
実際これまでクレルシェンドに赴いたイシュタリアの皇族は皆短命だった。
国益と引き換えに他国に命を捧げる。
それをある人は人身御供だと詰り、ある人は高貴な犠牲だと尊んだ。
そのどちらでもないと、日に日に弱っていく身体を抱えながら私は思う。
これは私の運命。
与えられた至上の役目。
それに命を懸けることに、なんの不思議があるというの。
◆ ◆ ◆
「……以上がご報告であります!」
「へえ……」
仄暗い室内で、頬杖をついた男が小さく口端を上げる。
「イシュタリアの聖女が、ね……」
「どうやらクレルシェンドではそもそも聖女という認識がないみたいですね!」
「愚かしいことだ」
盟約の意味すら忘れた王国と。
それでも己の使命に殉じようとしている聖女。
「───会って、みたいな」
◆ ◆ ◆
長い髪を梳られながら、視界の端に映った毛先を一房つまむ。
随分、艶がなくなった。
母譲りの白い髪は、光の加減で銀色に輝いて、私の数少ない自慢であったのに。
私の落胆に気づいたのか、カトレアが手を止めておずおずと口を開く。
「アイリス様……やはり痩せられましたね」
「そうかしら」
「御髪の抜けも多くなって……やはりこんな劣悪な環境にいるべきではないのですわ、こんな、罪人のような……!」
「カトレア」
「いいえ言わせてくださいアイリス様、貴女様のような高貴な方を古びた塔に押し込めて、ただでさえ日々のお務めでお身体が弱っているというのに!」
「陛下はご存知ないのです。私も伝えるつもりはありません」
「許されざる無知ですわ!」
琥珀を閉じ込めた丸い目に涙を湛えてカトレアが吠える。
「いくら国王陛下といえどあんまりです! こうなればわたくしが直々に……っ」
「カトレア!」
語気を強めると彼女ははっと押し黙った。
カトレアの気持ちは嬉しい。本当に私を思いやって怒ってくれている。
けれど、私は───
「……本当に、大丈夫なの。場所が変われど務めが果たせるのならば私に文句はありません。それ以上に、大切なことなどないのだから」
「アイリス様……違うのです、貴女は、本当は……」
顔を覆ってしまった彼女の言葉は、最後まで聞き取れなかった。
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