第39話 俺の想い
「皆様方、ありがとうございました。兄上も……ここからは私、一人で行きますので、お帰り下さって結構です」
門が見えて、20m手前くらいのところで涼香殿が馬の上から声を掛けてきた。
いよいよ、もう門の目の前だ。
「兄上、これにて、おさらばです。色々、お世話になりました」
俯いた涼香殿が俺に語りかけて礼をしている。少し笑みを漏らし、柔らかな表情をして俺を見つめた涼香殿はそのまま、門の方へと身体を向けようとした。
俺は掴んだ。
打掛から出ている手を、細く白い指を、俺は掴んだ。
俺は、恐らく目を見開いて、無言のままに、必死の形相で、涼香殿の両手を掴んでいた。と思う。
今、この手を離したら、後悔する。いや、もっと前から後悔していた。
さらに、後悔しないために、生涯、後悔しない為に俺は……俺は必死に掴んだ。涼香の手というよりも、彼女の気持ちを掴んだ。
「兄上? いかがなされました?」
驚いた様に見えた。涼香殿が俺の無表情で無言の棒立ちの俺を見て、安堵の表情を浮かべたように感じた。
それは……言いすぎか。安堵するはずも無いのだ。でも、俺は構わないと思った。遅すぎるけど、全く話にもならないけど、このまま、逃げてはダメだと、大切な事に、俺は、逃げない……
「涼香殿、最後まで、逃げていた兄を許してくれ、俺は、涼香殿のおかげで大願成就する事が出来た。あの日、涼香殿が俺に、俺達にまだ始まってもいないのにあきらめるのかと言ってもらえなかったら、俺達はあんな用水路なんて作ることが出来たかわからない。
俺の、気持ちを伝える。
俺には涼香殿が必要なんだ。
もう遅いかもしれない。
でも、ダメだ。俺はやっぱり、涼香殿がいないと、また、逃げてしまう。だから、これからも俺を叱って欲しい。逃げるなと言って欲しい。逃げそうになったら、また、全力で止めて欲しい。
お願いだ。俺と一緒にこれからも生きて行こう。何処にもいかないでくれ。頼む……頼む」
バカだ、バカすぎる。ずっと前から知っていた、当たり前に知っていた。だって、自分の気持ちなんだから、なんで、こんな絶望的に遅くなってからしか言えないのだろうか……バカすぎた。失う事の大きさに、体と心が委縮して、何もできずに逃げていた。
そして、嫁ぎ先の家の門の先で、土下座をしている。
5m幅の街道のもうじき暗くなりそうなもう西の阿武隈の山並みに日が沈んだ名主の門の前で無様に自分の逃げた結果の当然の成り行きを修正しようと必死にあがいていた。
「兄上、遅すぎですよ」
涼香殿が、俺の頭の上でしゃがんで、声を掛けてきた、白い角隠しをして、母上が用意した打掛を膝の上あたりで少し持ち上げて、ゆっくりと、俺の手を取って、
「遅すぎです。何で、もっと早く言っていただけなかったのですか?」
「すまなかった」
俺は、みっともない……涙を大粒の涙を流して涼香殿に力なく謝った。
「兄上は、私の事が大好きなのですか?」
「もちろんだとも」
「涼香は兄上の事をずっとお慕いしておりましたよ。あの門の前で一緒にお話ししていた時から、ずっと大好きでした」
優しく語りかける声に促されて、頭を上げた俺の前に微笑む涼香殿が見え、
「兄上、大切なものは手から離したらなりませぬ。お分かりいただけましたか?」
優しい語り口で涼香殿が俺を諭す。
「はい」
口元が緩む涼香殿は唇に指をあてて、
「そうだ、確かめなくてはならない事があるのですが……どのくらい好きですか? 雅さまよりも?」
な、何故その名を? あいつか……
俺のはす向かいに涼香殿越しに俺をうっすら笑顔で見ている金堀衆の親方に目を合わせた。途端にそ知らぬふりをしている。
「どうですか?」
え?ええ?
「もちろんだとも」
何?
「おやめになっていただけますか? 女・あ・そ・び」
何を言っていやがる。俺は、いつも遊んでなんていない!真剣だ!なんてこの場面には必要ない。
「やめる。今この瞬間に辞めた」
「軽いですね。兄上は……分かりました、それでは松井村に帰るとしましょうか。
私は兄上に想っていただくのが一番の幸せですから、それがはっきりしたので、この行列も無駄では無かったという事ですね」
笑顔で涼香殿が俺に言う。
ありがとう。そんな言葉しか俺には思い浮かばない。
そして、大切な人の気持ちの前にやっと逃げずに立てた気がした
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