第4話 名前

――名前をつけてあげよう。


日向は洞窟での話の後、そう思い至った。


――いつか、ふと消滅するだろうね――


佐伯から聞かされた言葉がずっと耳に残っていた。


突然世界に生を与えられ、突然それが奪われる運命を背負った少女。


小さな少女が背負うには大きすぎる枷だと思った。


だから、名前をつけてあげたいって思った。




「考えてみると、この世に名前がついてないものってないと思うんだ」




次の日の朝、日向は屋上に行くと柑奈が居た。


なぜ行ったのかと言われると、なんとなく屋上に行くと会える気がしたから。それだけだ。




「はぁ、」


「つまりね、名前が有るのと無いのとじゃ存在の確実性に大きな差があると思うの。名前がないのはただの物以下。認識の対象外。存在してないのと同じ。だけど、名前をつけることではじめて認識の対象になって存在するものになれる。って思うの」




柑奈はひと息にそう言って、フェンスに手をかけ街を見下ろした。朝の肌寒い風が柑奈の長い髪を揺らした。




「そんな難しそうな話じゃないですよ。ただ、名前をつけないと生きている証みたいなものが残らないと思って……だから、誰からの記憶にも残らず消えるってのはあまりにも可哀想過ぎるって、そう思っただけです」


「……そうだね」




静寂。会話が途切れる。


二人はただただ街を見下ろしていた。


フェンス越しには桜並木の坂を歩く生徒が居て、校門の前では腕組みをしながら挨拶をする体育教師の姿が見える。ふと、坂道を走る男子生徒が目に留まる。




「そろそろ戻ろっか」


「はい」




昨晩。




「今日からお前の名前はマリーで決定だな!」




三人で食事をしている際、日向は少女に向けてそう告げた。


何故その名前なのか。理由は単に少女が庭に植えられたローズマリーを凝視していたからという単純極まりないものだったが、マリーは静かに両手を祈るように胸に当てた。どうしたの?と苺が聞くと、




「嬉しい……こと。こうやって……忘れないようにするの」




と、マリーはそう言った。マリーは知らないのだ。


嬉しいこと悲しいこと。辛いこと楽しいこと。沢山の感情を。


だから、こうやって大切に胸に刻み込むしかない。


だけど、知らないことは悪いことじゃない。最初は皆そうだったんだから。


だからこそ、ゆっくり歩んでいこう。


いつか死ぬ、その日まで。


幸福な人生だったと。言えるように。




キーンコーンカーンコーン。


着席5分前のチャイムが鳴り響く。柑奈はドアノブを握った手を止める。




「マリーちゃんが常に消滅の危機に晒されているように、君も私もいつ死ぬのか分からないんだよ」




そう言って柑奈は屋上を去った。


日向は思う。今の自分は幸福だろうか。







「日向くん、進路相談の紙書けた?」




 放課後。


 日向は身支度を済ませ帰ろうとした時、クラス委員の俵正美が話しかけてきた。




「すいません、まだです……」


「提出期限は来週の月曜日までだから、土日中には書いておいてね。じゃあね!」




 正美はそう言い残し、友達の方へ歩いていった。


 クラス内でまだ出してないのは日向だけにも関わらず、それを歯牙にもかけない様子で話しかけてくれる正美には感謝してもしきれない。


 クラスのほとんどの連中は配られたその日にあっさり大学進学の四文字を書いて提出するその紙切れに、日向はいつまでも悩まされていた。


 大学進学と適当にぱっぱと書いて提出すればいいじゃないか。そうすれば正美の負担も減るじゃないか。自分も楽になれるじゃないか。


 日向はそう頭の中で言ってはみるものの、筆を持った手は岩石みたいに固く動かなくなってしまった。


 日向はどうしても、自分の将来の姿を想像することができないのだった。


 将来に対する漠然とした不安感……不安感……不安感、不安、不安不安不安………………




「幸希君、どうしたの?」




 一気に意識が現実に戻された。目の焦点が合う。ずっと目を開けてたはずなのに、さっきまで暗闇に居たような感覚。記憶もあやふや。




「栞か……」


「どうしたの?さっきから怖い顔して……」


「なんでもないんだ……なんでも」




 日向は出来る限りの笑顔を見せて応えた。




「嘘……最近様子がおかしいもん」




 確かに、最近色々ありすぎた。疲れが溜まっているのかもしれない。




「さて、帰るか」




 日向はいつもと同じ言葉で栞に告げる。


 非日常を日常に戻す言葉だ。




「うん……」




 栞は俯く。


 栞に信用されてないと思わせてしまっただろうか?


 日向は多少の罪悪感を感じながらも、いつも通りの所作で教室を出た。

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