第2話 龍の思惑
政虎のかき鳴らす琵琶の音は、妻女山の奥深くまで鳴り響き、合わせて歌う政虎の美しい声は、上杉兵の心に深く浸透した。
今、政虎は喜びに充ちていた。
ようやく信玄と戦える。
それはこの八年間、待ち望んだ至福のときであり、生きる喜びでもあった。
過去三回の戦は全て失望に終わった。
明らかに直接対決を避ける信玄の方針は、政虎だけではなく家中の勇猛な兵たちも落胆した。
今度こそはと、勇んで出征しながら、冬の訪れと共に寂しく帰還する。
それでも、武田との
いつかはこの思いを成就する。
それは恋心のように強い情熱を生み、成就するまであきらめない執念に変わった。
元々待つことには慣れている。
長い冬を雪の中で過ごし、屋敷に籠りながらひたすら春を待つ。
耐えることによって、喜びが増すことを子供の頃から学び、身体に沁みつかせてきた。
今回は出陣前から戦える予感があった。
一向に戦いに応じない氏康に失望しながらも、武田の北信濃の勢力拡大が越後に帰る足取りを軽くした。
北信濃は穀倉地帯だ。米の収穫量は越後一国を上回る。しかも麦や漁獲高も豊富だ。
おまけに交通の要衝でもあり、甲斐と南信濃の防衛、越後や上野への侵攻など、この地の持つ戦略上の価値は高い。
取ったり取られたりを繰り返していては、海のない武田は成長できなくなる。
信玄にとっては一戦交えるだけの価値は十分にあるはずだ。
「そろそろ頃合いですかな」
政虎が歌い終わると、直江景綱が興奮を隠せない様子で訊いてきた。
「いよいよ信玄の真価を測れるかと思うと、ゾクゾクしてくるわ。この興奮を少しでも長く味わいたくて、皆を待たせてしまった。すまぬと思う」
まるで恋人との逢瀬を語るような政虎に対し、景綱は左右にブルブルと首を振る。
「何の。この二月、主だった者は皆、政虎様と同じく正月を待ち望む童のようでした。しかし今日の歌声をお聴きし、いよいよかと皆支度を始めております」
景綱の報告を聞き、政虎の顔には笑みが浮かんだ。
「海津城から漏れくる気が強まった。用意が整い次第下山し、彼の者と決戦いたそう」
「おおっ」
政虎の言葉を聞き、景綱の顔に歓天喜地の色が差した。
「皆に伝えてきます」
景綱はよほど嬉しかったのか、小躍りしながら戻って行った。
そろそろ頃合いと政虎が立ち上がると、向こうから猛然と駆け寄る一団があった。
先頭を走る男の猛々しい武気は、間違いなく柿崎景家のものだった。
「柿崎隊ここに参上。政虎様、待ちに待った決戦、この景家をぜひ先陣に」
景家はよほど嬉しかったのか、涙を流している。
政虎は静かに頷き、承諾した。
景家を見ていると、政虎の脳裏には苦しかった頃の記憶が蘇る。
政虎の強すぎる武気は、武気が弱い者は失神し、それに耐えれる者も自身の武気を百パーセント発揮できず、軍としての力が発揮できない事態を招いた。
いかんせん政虎は、独りで戦うことが多く成り、小規模な戦闘ではそれでも十分な結果を示した。
ところが、病弱な兄晴景に代わり当主の座に着いた頃から、
政虎は自身の前線での活動を避けることによって武気の発動を抑え、部隊指揮のみに専念した。
しかしそのやり方も通用しない戦が起きた。
姉仙桃院の嫁ぎ先で有力な親族衆である長尾政景が、政虎の当主就任に異を唱え、反乱の兵をあげたのだ。
政景は政虎が自身の武気を戦において発揮できないことを見抜き、政虎恐るるに足らずと坂戸城に立て籠った。
野戦であれば難敵であっても、頃合いを見計らって政虎の単騎突撃で、敵大将を討ち取る奥の手が使えたが、攻城戦となるとそうもいかない。
敵城の固い城門や凶悪な虎口を突破するために、総大将の武気で全兵の力を一つにまとめなければならない。
ましてや政景は国内でも指折りの武気の使い手であり、生半可な攻めでは逆にこちらが全滅の憂き目をみることになる。
とはいえ当主である以上、反旗を翻した政景を、野戦に出ないからと放置するわけにもいかず、どうにも進退窮まった感があった。
そんな窮地を救ったのが目の前の景家だった。
政虎の資質に惚れ込み、当主への擁立を強く支持していた景家は、血を吐きながらも政虎の武気と自身の武気の融合に成功した。
しかも融合のコツさえ掴めば、身体の痛みも消え、政虎の武気が強い防御と成り、生半可な攻撃は掠りもしない、無敵の絶対防御を身につけることができた。
景家の強さを目の当たりにして、家中の将兵はこぞって景虎の武気との融合に挑戦し、これを克服していった。
最強軍団となった政虎の率いる兵は、政景方の有力武将である
これを見た政景はすぐさま開城し政虎に和平を申し出た。
政景の降伏により越後に政虎の敵はいなくなり、国内統一に至った。
しかし、最強軍団誕生の陰に、恐るべき問題が発生する。
政虎の武気との融合を果たした将兵は、その爽快感が忘れられなくなり、麻薬中毒の患者が麻薬から離れられなく成るように、新たな強者との戦いを欲するようになった。
その強烈な副作用は、自身の武気が果てたことに気づかず戦い続けることで、敵に討ち取られる弊害も生んだ。
以降政虎は、戦いが長引いたときにどんなに勝ちが見えたとしても、潔く兵を退く決断力を強いられることに成る。
目の前には景家だけでなく、将兵が続々と集まり、誰もが強敵と戦える喜びに顔を綻ばせていた。
この上杉兵だけが見せる戦闘時の歓喜の表情は、敵兵に得体の知れない恐怖感を与え、士気を挫く効果を生む。
「では参るか」
政虎が先頭に立ち、敵に気づかれて逃げられれぬよう、上杉軍の静かなる行進が始まった。
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