戦国伏龍伝外伝 川中島の戦い

ヨーイチロー

第1話 獅子の思惑


「ほう、信玄は今回はるつもりかい。なかなか根性あるじゃねぇか」

 氏康は風魔からの知らせに、思わず大きな声を発した。

 その知らせは、相模の獅子と謳われた氏康をもってしても、血沸き肉躍る内容だった。


「武田と上杉が開戦するのであれば、今こそ上野攻めの好機。政虎に奪われた松山城を攻め、そのまま上野に突入しましょう」

 氏康の嫡男氏政が勢い込んで進言する。

 上野国は信玄も侵攻を画策しており、今川、武田、北条の三国同盟時に、武田と北条によって西と東で折半する密約をしていた。

 それは関東の支配者を目指す北条にとって、理想と遠い内容であった。


 氏政の勇ましい進言に氏康は深いため息をついた。

「この春先に政虎に小田原城を包囲されて震えてた餓鬼が、偉く勇ましい話をするじゃないか。喉元過ぎればか?」

 予想もしなかった父の皮肉に、氏政は言葉もなく肩を落とした。


 項垂れる氏政に代わり、弟の氏照が口を開いた。

「しかし父上、同盟国の武田を支援するためにも、我々も動いた方がいいのではありませんか?」

 氏康は漁夫の利を窺う子供たちの顔を、複雑な表情で見つめた。

 北条家は戦国大名家としては珍しい、家族仲が良い家だ。

 父子相克もなければ、兄弟間の争いもない。

 それどころか家臣、領民に対しても無理を強いず大切にする。

 それが強さの秘訣であり、苦難にあっても折れない結束を生んできた。


 しかし氏康は、このとき北条家の将来に暗雲を感じた。

 どんな強敵が攻めてきても、不落の小田原城に籠ってやり過ごせば、敵は兵糧切れで退いて行く。その後で、北条氏の威信を持ってすれば、すぐに勢力を回復できると、本気で信じ込んでいる。

 絶対的な武力や圧倒的な兵力が関東を蹂躙したとき、この子らに果たして耐えることができるのか――父親として不安に感じずにはいられなかった。


「確かに信玄には借りがあるが、それは小賢しく漁夫の利を狙うことじゃない」

 もっと強く言いたいところだが、我が子可愛さにこれが精一杯だった。

 氏康が言ってる借りとは、この年の二月に上杉政虎が関東へ遠征し、反北条の大名を従えて十万の大軍で小田原城を包囲したときのことだ。

 信玄は北信濃で上杉の背後をけん制する動きを見せ、政虎が兵を退く一因となった。

 このとき建てたのが海津城で、今回の政虎の攻略目標と成っている。


「しかし、我らが政虎に攻められたときに、信玄は北信濃の勢力圏を拡大させたではないですか。我らが同じことをして何が悪いのです」

 先ほど氏康の強い言葉にしょんぼりした氏政が、またも勢いを得てあげ足取りに近い主張をした。

 怒鳴りつけたいのを我慢して、氏康はさらに我が子に説く。


「じゃあお前は再び政虎が関東に来たら、今度こそ打って出て雌雄を決するのかい?」

 政虎の悪鬼のような強さを思い出したのか、氏政は顔面蒼白になって再び肩を落とした。

 馬鹿な子ほどかわいいというが、氏康も例外ではない。

 声を和らげて、氏政を慰めた。


「信玄は今度こそ雌雄を決する思いがあったからこそ、再び北信濃に手を出したんだ。いつまでも逃げていては、民も周辺国人もそっぽを向く」

 声音を優しくしたにも関わらず、氏政はますます恥じ入り顔を下に向ける。

 氏康は少しだけ我が子の長所を上げて、元気を出させようと思った。


「お前は戦には向いてないが、民を愛する気持ちは爺さん譲りだ。良い民政を引いて国を安定させ、周辺の国人たちの理解を得られれば、北条は関東の盟主となって、外敵を退けることができる。くれぐれも分をわきまえて、得意なことをやっていきな」

「はい」

 ようやく氏政の顔に笑顔が戻った。

 今日の進言も元はと言えば、父に褒められたくて言ったことだ。

 予想外の方向ではあったが、褒められたことで持ち直したようだ。


 氏康は氏政を慰めながら、娘婿である今川氏真を思い出した。

 娘の便たよりでは、義元が桶狭間で討死してから、いくじがない大将として家臣の離反が続いていると言う。

 民を愛し素晴らしい政治をする人だから、氏康に後ろ盾になって守って欲しいとも記されていた。


 ここで気に成るのは信玄の動向だ。

 義元亡き後、明らかに駿河侵攻の野心が見え隠れする。

 氏康が思うに、東海一の弓取りと呼ばれた義元や、東国の京と称される駿府に対する、武田家中の憧れとコンプレックスはかなり根深い。

 これらが裏返って、三国同盟を壊すことが、今は一番の懸念となる。


 上杉との戦で義理堅い嫡男の義信や、良識派の弟信繁が命を落とさぬように祈らずにはいられなかった。

 故大源雪斎の尽力によって生まれた三国同盟こそ、我が子たちが無事に戦国を乗り切る切り札となる。

 無邪気に話している氏政、氏照の顔を見ながら、氏康の思惑はどこまでも深まっていった。


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