第3話 虎の思惑


 海津城を出て八幡原に鶴翼の陣を構えた信玄は、妻女山に向かう別動隊一万二千を見送りながら、ここで決戦に臨むことをまだ悩んでいた。


「別動隊は無事に上杉軍を、妻女山から追い落とすことができるかのぅ」

 別動隊を上杉軍と同数でおくりだしたことを心配して、信玄は隣に控える軍師山本勘助に、言っても仕方ない問いを発した。

 主君の気持ちが手に取るように分かる勘助は、わざとニヤリと笑って、心配を取り除こうと強気で答える。

「別動隊は八千でも構わないところを、一万二千の兵で送り出しております。この二か月の膠着の中で、上杉軍は武田から仕掛けてくるとは思っていないはず。しかも高坂殿はこの北信濃の地形を知り尽くしております。きっと奇襲は成功します」


 口調こそ自信に満ち溢れた勘助の言葉だが、その中で確実なのは海津城主である高坂昌信が、北信濃の地形を知り尽くしているということだけだ。

 兵数も上杉軍の油断も全て勘助の憶測にすぎない。

 信玄はまた憂鬱になった。


 いったいなぜ北信濃なんかに進出してしまったのか。

 当初信玄は関東進出を狙っていた。

 それも、北条氏康が治める豊饒な武蔵の国だ。

 事実、あの三国同盟が成るまでは、三国峠を越えて武蔵の国へ攻め入る準備を着々と進めていた。

 それを阻んだのがあの忌々しい大源雪斎。

 縁戚迄結んで強固な同盟を作りおった。


 この同盟のおかげで、北条は関東制覇、今川は西上、そして我が武田は信濃制圧とそれぞれの目標は定かになった。

 しかし、今川、北条に比べて武田の目標はなんともスケールが小さい。

 その割には難易度が極めて高かった。


 北信濃の村上義清は、これまで信玄が体験したことのないいくさをした。

 策も何もない騎馬による突撃がそれだ。

 上田原の戦では、強力な突撃に抗しきれず、板垣、甘利といった宿将を失うだけではなく、信玄自体も本陣深くまで攻め込まれ、全治一か月の傷を負わされた。


 結局、信玄は義清に勝てないまま、武田の信濃支配は危うくなった。

 これを救ったのが、同じ北信濃の出で臣下と成った真田幸隆の謀略だった。

 幸隆は北信濃の義清に与する国人衆を、次々と調略し丸裸にした。かっては三倍の兵力でも落とせなかった砥石城さえ、内応によりあっさりと攻略した。


 これにより信玄が学んだことは、謀略の威力よりも、義清のような相手とまともに戦ってはいけない、ということだった。

 今、対峙している政虎は義清と同じ匂いがする。

 まともに戦ってはならない相手と、自分は今戦おうとしている。


 なぜ氏康のように、正面衝突を徹底して避けなかったのか?

 なぜ北信濃を放棄して、義元亡き駿河に攻め込まないのか?

 今、次々と自分の打ち手への不信感と、こうして戦場に立ってしまった後悔が、信玄の胸の中をぐるぐると回っている。


 北信濃を放棄し、駿河、遠江を手中にすれば、西の三河、尾張への展望や、東の対北条への展望が可能になる。

 そこまで見えていながら、北信濃に拘る自分が自分でも理解できなかった。


 川中島は今深い霧の中に包まれ、まったく先が見通せない状態にある。

 今の自分と同じだ。

 しかしこの霧も陽が上るにつれて晴れてくる。

 自分の未来も霧と同じように晴れる日は来るのだろうか――信玄は霧の深さに自分の未来を重ね合わせ、深い憂鬱に陥っていた。



 辰の刻を半刻ばかり過ぎた頃、霧が晴れ上がり前方の視界が確保された。

「あれは」

 勘助が驚愕して指さす方向には、毘の旗を掲げた軍勢が隊列を整え対峙していた。

「政虎の軍か」

 信玄の声は小さかった。


 それは見たこともない陣形だった。方円に似た丸い輪の中に本陣がある。

 ただ方円の陣と違って、全部隊が前を向き、こちらに前進してくる。

 これが噂に聞く車掛くるまがかりの陣か。


 獰猛な武気がこちらにも伝わって来る。

 これが噂に聞く政虎の武気……

 時間的に見て、奇襲は空振りに終わったと確信した。

 兵を分散したせいで、味方は八千の兵力に対し、敵は一万と兵力的にも逆転した。

 絶体絶命の窮地に立たされ、信玄の中で何かが切れた。


「フハハハハハ」

 立ち上がった信玄の笑い声が、川中島に響き渡る。

「いかがされました?」

 勘助が心配そうに信玄を仰ぎ見る。

まこと、迷いは人の欲からできてるものよ。ああなればいい、こうもなればいい、こういうふうにうまくやりたい、と願った結果がこれだ。無心こそ問題を解決する上での最良の手段と悟ったわ」

 知恵者の勘助が狐に包まれたような顔をしている。


「勘助、もう策も何もない。鶴翼の陣のまま政虎を受け止める。我らが持ち堪えるうちに妻女山から別動隊が来れば我らの勝ち。持ち堪えられなければ我らの負けだ」

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