カレンダー

にゃりん

 退勤後、すぐさまザックを担いで夜行バスに飛び乗った私は、とある山のテン場でカメラを構えていた。

 天候も申し分なく、山岳雑誌やカレンダーにでも採用されそうな絶景写真が面白いように撮れる。

 強行軍だったが来て良かった。どこかのコンテストに応募しても良いかもしれない。


 夢中になって撮っていると、突然後ろから声をかけられた。

「あの稜線を撮ってもらえませんか?」

 ファインダーから目を離して振り向く。声の主は隣のテントの男だった。

「いきなりすみません。これと同じような写真が撮れるかなと思ったので」

 きれいに折りたたまれた写真は、カレンダーから切り取ったもののようだ。確かにこの場所からなら同じアングルの写真が撮れるだろう。

 試しに撮ると、モニターを覗き込んだ男は少し残念そうに「ああ、やっぱり写らないか」と呟いた。

 男がお礼にと差し出したビールに釣られ、彼の話に耳を傾けた。


 *****

 知人からカレンダーをもらった。

 急峻な山の写真ばかりを集めた月めくりのもので、じっくり眺めて楽しみたいのでトイレに飾ることにした。便座に腰を掛けると、ちょうど目の前に山の写真が来るように。


 ある月も半ばを過ぎた頃、ふと写真の山の稜線に目をやると、小さく登山者が写り込んでいる事に気がついた。

 小さいうえに、水色のウェアが空の青に溶け込んでいたので今まで気づかなかったようだ。

 俺はまだ登ったことのない有名な山で、いいなあ、俺もいつか登りたいなあ、と想いを馳せながら彼(彼女かもしれない)を見つめるのが常となった。


 そろそろ月も終わりに近づき、少し名残惜しく水色のウェアの人に目をやった時、違和感があった。


 この人、もう少し右手の方を歩いていたような気がする。


 勘違いかな、とその時は思ったが、次に見た時に全身が粟立った。

 間違いない、移動している。

 気味が悪いので破って捨てようとカレンダーに手をかけた時、フッとその姿が見えなくなった。

 驚いて思わず写真を見ると、確かに人がいたはずの稜線から断崖の下の方へ、かすかに波打った線が引かれている。

 線が止まったあたりから、じわじわと赤いシミのようなものが滲み出てきた。


 血だ。


 滑落したのか。

 しばし呆然とその赤を見つめた。

 ひょっとしたら、この人はこの山で人知れず亡くなったのではないか。

 体も見つかっておらず、誰かに見つけてほしいのではないだろうか。

 今の俺のレベルでは到底辿り着けないであろうその稜線を、破ろうとした手をそろそろと離した。

 その途端、確かに写真に滲んでいたはずの赤や、水色のウェアの人の姿は跡形もなく消えていた。


 しばらく後、ある異変に気がついた。

 俺が撮った写真には必ず、水色のウェアの人が小さく写るようになったのだ。

 早く見つけてくれ、と言われているように思えた。

 幸いなことに、あれから登山仲間に恵まれるようになり、師匠とも呼べる人にも出会った。

 俺の登山スキルはめきめきと上がり、一年ほどで上級者と言って差し支えないレベルに達した。


 今ならあの稜線にも行ける。

 登山道からの遺体発見は難しくとも、何らかの痕跡や遺留品を見つけることができるかもしれない。

 本人もきっとそれを望んでいるだろう。

 *****


「明日、あそこまで行ってきます。

 他の仲間とは都合がつかなかったのでソロですが、俺も今日を逃すと来年まで来れないので」

 これ以上待たせるのも可哀想ですし、と男は笑った。

 その話を聞いた私は少し心配になったものの、晴れ晴れとした彼の顔に何も言えず、ビールの礼と共にくれぐれも無理せずお気をつけて、とだけ伝えた。


 翌朝早く、彼は例の稜線へ、私は別の山へと向かった。

 出発前、感慨深げに稜線を眺める彼の後ろ姿は、映画に出てくるアクションヒーローのようだった。とても絵になっていたのでこっそり写真におさめておいた。


 山頂に辿り着いた私は、珍しく雲ひとつない青空に少々不満を洩らしつつシャッターを切っていた。

 少しは雲があった方が良い写真になるのだが、こっちに流れてきそうな雲はないものか。

 のっぺりとした空を見回すと、雲のかわりに小さな黒い点が目にとまった。


 いや、赤だ。

 赤いヘリが少し離れた稜線のあたりでホバリングしている。


 何かあったのか。

 あれは、あの稜線は昨日の彼が目指したあたりではないか。

 私は居ても立っても居られず、足早にテン場へと舞い戻った。


 テン場にある山小屋のあたりでは、従業員や登山客が皆一様に、稜線を心配そうに見つめていた。

 何があったんですか、と訊ねるまでもない。事故。恐らく滑落だろう。


 夕方になって、事故を目撃したグループが戻ってきた。

「あの人、怖がっているようには見えなかったけど、滑落する少し前から切れ落ちた断崖の方をしきりに気にしていたんだよな。何か落とし物でもしたのかね」

 隣のテントの男はまだ帰ってきていない。落ちたのは彼で間違いないだろう。


 グループのひとりに、落ちたのはこの人では、と最後に撮った彼の写真を見せた。

「ああ、確かにこっちの人だよ。でも水色のウェアの人は見なかったなあ」

 その言葉に驚いてモニターを見ると、いつの間にか彼の隣に水色のウェアの人が立っていた。

 仲良さそうに肩を組んで。

 愕然として言葉が出なかった。


「そうそう、救助隊が『白骨死体を発見』って言ってたな。偶然彼と同じ所に引っかかっていたらしい」


 モニターの中で、彼の肩を掴む水色のウェアの人の手に力が籠もったような気がした。

 写真を消去すべきか否か、今も私は決めかねている。


 ―終―

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