第10話 メーアゾルカの盾:1

 水とは、重いものである。

 なみなみと液体を注いだジョッキを想像すれば分かるだろう。持ち上げるのに、少しばかり意識して力を込めねば、取り落とすどころかそもそもテーブルから上がらない。

 水竜が作りだしたのであろう、無数の水球は、ひとつひとつは人間の頭部ほどのサイズしかない。それでも重量は6kgほどに達している。

 艦砲が用いる砲弾が、20kgを越えていることを考えれば、さしたる脅威とは思えないやも知れない。だがそれは、飛翔速度と弾数を考慮しなければの話だ。


 ──雨。


 降り注ぐ雨粒のひとつひとつが、6kgの重量を備えている世界があったとしたら。家屋の屋根は用を為さないだろう。雨の中を歩くものは、首をへし折られて死ぬことだろう。

 重量を考えれば、風に多少吹かれたところで軌道を大きくは変えないだろうが、仮に、強風の日の横殴りの雨粒がそれだけの重量を備えていたとしたら、家の戸も窓も砕かれよう。

 とは言え、そんな世界のことを誰が想像するだろうか。空から降る水の粒は、ひとつ数ミリグラム。虫一匹を潰す力も無いのだから。


「っ──やべえぞっ、こりゃあ!!」


 ロッシ・ロブレ船団長が悲鳴を上げた直後、壮絶なる水弾の破裂音が無数に轟いた。

 カンタール号、ドーゼル号、エスタ・ムア号。3隻の甲板と言わず、船側と言わず、帆柱と言わず、超重量の雨粒が無数に叩き付けられていた。ただ一撃でも船を大きく揺らす大衝撃が、絶え間なく。

 容易く甲板が弾け飛んだ。側面の鉄鋼板が弾性限界を越えてひしゃげ、船体から剥がれ落ちていく。転覆寸前まで傾いた船体が元の角度に戻る度、船員たちは船の端から端へと振り回された。


「船団長ぉ! 船が、俺たちの船がぁ……!」

「く、そぉ……っ!」


 雨粒の全てが落下し『dunay maisa』が止むまで、ほんの十数秒。……その十数秒でカンタール号は、武装船として活動する為の機能の大半を喪失した。三本のマストのうち二本がへし折れ、一本も縄が断ち切られて、復旧には時間が掛かるだろう。非常用動力である外輪パドルは、左右とも軸からもぎ取られている。艦砲50門も、その大半が砲口を潰されて、とても使い物にならなくなっていた。

 だが、それだけの惨状でありながら──


「遊んでやるつもりが、こっちが遊ばれてる……バケモノめっ!」


 ──乗員には、犠牲を出していないのだ。

 船板が砕けて破片が飛び、その破片で怪我をした、その程度の者はいる。しかし、雨粒をその身に受けた者はいなかった。

 うっかり死んでしまわぬように、注意深く、人間のいる場所を避けて攻撃されたのだ。

 海獣や海賊の襲撃から交易船を守る私兵、ラウドメア武装船団が、割れ物のように扱われている。ロッシ・ロブレは屈辱に歯噛みする。


「私ら三隻はつまらないってか……たった一人と比べても!」


 その目は、水竜の巨眼と同じものを見ていた。

 波間に漂う一艘の小舟を──。







「ひ、ひぃ、ひぃ……ひぇええぇぇっ……クーさぁん……!」

「ちょっと焦った。危なかったかもな、今のは」


 手の甲に返った弓を直す余裕も無く、クーは額の汗と海水を拭っていた。

 小舟に降り注いだ〝雨粒〟の数は、おおよそ50。その全てをクーは、風の矢にて射抜き晴らしていた。

 水竜へ放つ緑光の矢とは違う、連射速度に特化した射術。ただの水球ならば空中にて打ち砕き、霧雨と変えることも出来る。

 小舟に損傷は無い。ダグ翁の術により、転覆も免れている。遠目に見るならば、無傷であの雨を潜り抜けたようにも思えようが。


「……まったく。あの大きな子供は、加減というものを知らないな」


 クーは、肩で息をする。

 水球が放たれてから着弾までの短い間、無数の弾から小舟に命中しそうなものだけを見抜き、全てを矢で迎撃したのだ。要求された集中力はいかばかりか。精霊イレスを介して無尽蔵の魔力を使用できなければ、既に昏倒していてもおかしくはないのだ。


「す、座ってください! 少しでも休んで、その間は私たちが……!」

「そうよ! さ、さすがに今みたいに何十発もは打ち落とせないけど、頑張って幾つかは……!」

「無茶をするんじゃない、危ないぞ」


 目に見える程の消耗に焦ったミアとネフェルが、クーの腕を掴んで座らせようとする。だが、クーはそれを拒んで空を見据え続ける。


「あの子が手加減を覚えるまで、君たちでは無理だ。そこまでは、わたしが遊んでやらないとな」

「無茶はあんたの方でしょ! あんたが凄いのは分かったけど、だからって!」

「うん。けど、わたしは大人だから。それに──」


 長く息を吐き出し、深く吸い込んで、クーは再び弓を引く。


「楽しんでるんだ、これでも。……さぁ! 準備は出来たぞ海の子よ!」

「──dunay maisa


 そしてまた水竜が、水の球体を生成する。

 狙う的を絞ったが為か、その数は先ほどと比べて大幅に減少しているが、それでもやはり数十はあろう。人の頭蓋ほどもある雨が、小舟目掛けて降り注ぐ。


放つhlate!」


 クーが、撃つ。

 目に影さえ映さぬ神速の乱射。水球が砕け、弾けて、小雨となって海へ落ちていく。

 だが、その精度が僅かに落ちていた。


「──っ!?」


 みっつ、風矢を外した。大船を揺るがす水弾が小舟へ迫る──。


「〝出力最大、焦点距離0──『ファイア』ッ!!!〟」


 その隙を埋めるように射出される、ネフィルの軍用魔術。五つの火球が手元で融合し発生した巨大な熱塊は垂直に上昇、進路上の水球を悉く蒸発させた。

 そのままならば転覆を避けられなかっただろう小舟は、未だ海上に健在である。


「すまない、助かった!」

「わ、ネフィル凄っ──ネフィル!?」

「うぎゅう……目が、ぐるぐるする……」


 しかし、その代償は大きかった。内的神秘、すなわち所有する魔力を全て吐き出し切ったネフィルは、酸欠にも似た状態に陥って仰向けに倒れ込む。

 元より魔術の行使は、場と時に応じて必要な魔力量を見定める繊細な技術を必要とする。水球の相殺にどれだけの熱量が必要か、見定める時間が無かったが故の〝出力最大〟──全魔力を用いての発動は、決して最善の策ではない。


dunay maisa

放つhlate!」


 三度目。破壊の水弾が降り注ぐ。クーの風矢が、先よりも更に速度と密度を増して連写され、小舟にひとつの被弾も無い。


「……っ、はぁっ! はっ、はぁっ……んっ、次っ!」


 大粒の汗が、クーの頬を流れる。口を開けて肩で呼吸し、目に入った汗を腕で拭って弓を構える。

 疲弊しているのは明らかだ。少なくともミアの目にはそう映った。だが同時に──クーが、これまで見たことも無い程に楽しそうなのも、ミアには理解できた。細められた目元は、汗や陽光を防いでいるだけではない。海水に濡れた唇が弧を描いていて、それは紅を塗ったよりも鮮やかに見えた。


 うらやましい。ミアの胸にそういう感情が芽生える。

 対象が誰なのかと言われれば、当人もよく判ってはいるまい。楽しげなクーであるのか、楽しませている水竜であるのか。

 いずれにせよ、自分ではない。銛一本を手に、蚊帳の外に置かれている自分ではないのだと思うと、ミアはもどかしく、小舟の上だと言うのに走り出したくなるような気持ちに襲われた。


dunay maisa

「ふー、ふーっ…………はははははっ!!!」


 降り注ぐ水球。迎撃する風矢。衝突し、破裂し、晴れ渡る空の下に台風が吹き荒れる。……射撃の精度が落ちている分を、クーは連写数で補っていた。数発の矢が的を外して空へ抜け、そして水球がひとつ、射撃後のわずかな隙をさらすクーへ向けて──


「おりゃあああああああぁっ!!!」


 ミアは嬉々として、その一発に飛びついた。

 銛を、火事場で用いる大ハンマーのように、或いは畑を耕す鍬のように高く振りかぶり、水球目掛けて叩きつけた。


 ぱぁん!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る