第9話 最初の冒険:3

 巨船より矢の如く放たれた一艘の小船を、水竜は認識こそしていたが、それ以上気にかけることはなかった。水竜から見た小舟は、人から見た蟻より更に小さいのだ。

 そんなことよりも水竜の興味は、波の上に浮かぶ、鯨のように大きな玩具──即ち武装船団に有った。

 体を動かして波を起こすと、船が大きく揺れて傾く。船に乗っている小さな生き物が大騒ぎをする。先の例えを繰り返すなら、人が蟻の巣に水を注いで遊ぶようなものだ。


 水竜は、数百年前にこの世に発生した瞬間から、海中世界最大の存在であった。周りの全ての存在は、自分が気まぐれに身を捩れば、発生した海流に流されてどこかへ消えてしまう。或いは、我が存在を認識しただけで逃げていく、小さく非力な生き物でしかなかった。

 数百年、退屈をし続けた。幻獣と呼ばれる理外の怪物さえ、我が前では怯え竦む。対等な存在など望むべくもない。ほんのひととき、眼前に留まろうとする者さえ──

 50年前。水竜は、人間に出会った。







 50年前、人間という存在に出会った。

 複数個体がひとつに集まり行動する、群体のようなものだと認識したが、どうもあれは、船というものに乗っているらしいと後で知った。

 あの船は、こちらの姿を認識しただけで逃げるようなことはしなかった。自分の縄張りを──漁場、と言うのか──離れたがらず、網を使って海中から魚を引きずり上げていた。そして、その個体数では喰いきれないだろう量の魚を船上に確保すると、ようやく、ゆったりとその場を離れ始めたのである。

 興味をそそられた。錨を鱗に引っかけ、海面を引きずり回してやった。人間は水の中では生きられないというから、潜っていきはせずに。最後には、


 そうしていたら、また別の人間たちが現れた! 船に乗って!

 新しくやってきた人間たちは信じられないことに、我が身へ向けて銛を投擲し、矢を放った。攻撃だ。逃亡でもなく、こうべを垂れて息を潜めるでもなく。

 そのほとんどは非力で、鱗一枚に傷を残すことすら叶わなかったが──


 嬉しかった。

 楽しかった。

 こちらから一方的に働きかけるのではない。あちらが攻撃し、こちらが受け止める。こちらが海を揺さぶり、あちらが受け止める。総方向のコミュニケートだ。生まれてから一度たりと、この海洋の覇者たる身に与えられなかったもの。


 あの半日ほどの出来事を思いだしながら微睡み、気付けば50年が過ぎていた。我が身は更に強大となり、いよいよ海中に敵する者は無い。平穏に倦み、あの懐かしき時を過ごした海域へ赴けば──なんと、なんと。あの時よりずっと大きな、頑丈そうな船が数隻。

 耐え難き好奇心に駆られて、あの日のように引き回してやった。あの日のように、丁寧に岩礁の上へ並べてやった。そして、嗚呼、嗚呼、あの日のように──!


「キィィィイイィイイィィィィィ────ッ」


 歓喜のままに咆哮する。我が領土ではない空へ向けて。

 彼らは、来たのだ。あの日よりもずっと大勢で、ずっとすぐれた武器を携えて。

 私は歓待の意を込めて水面を打ち、海の飛沫を雨とする。


 ……欲深くも願うのならば、あの日のように。

 ただひとり、我が鱗に傷を残した、陸の同胞のように。

 優れたる〝遊び相手〟が居ればよいのだが──


わたしは放つayle hlate強く射るhlate yurak!」


 ────っ!?







 風が小舟だけを置き去りにして、水竜へと吹き抜けていった。少なくともミアにはそう感じた。

 だが、発生した現象は〝そんなもの〟ではない。

 轟音と衝撃。余波が海面に、水竜を中心とした高波の波紋を作り上げる。水竜の超巨体が、ほんの僅かだが後退していた。


「な──!? い、今のは……クーさん!?」

「ああ」


 左手の甲に返った弦をふたたび右手で掴み、引き絞りながら、クーが頷いた。

 総重量10kgを越える鋼造りの弓である。そんなものを易々と、小型の狩り弓か何かのように扱う。それだけでも尋常ではなかったが、ミアを最も驚かせたのは──そして今さらに〝気付かせた〟のは、矢を持たぬ右手である。


 出会った時より、今まで、クーは一度も矢筒を身につけていない。

 では、今、弓より放ちたるものは何か。


 風が吹いた。潮風とは違う。森の香を孕む穏やかな風。それはクーの右手に集束し、葉を透かして見る木漏れ日の如き緑色の光へと変わった。


放つhlate!」


 ごう。────ずぅん!

 緑光の矢は暴風をまいて飛翔し、轟音と共に水竜に着弾。衝突点で風が爆ぜ、瞬時に高まった気圧が解放され、放射状の強風を撒き散らす。

 水面に一枚、巨大な板状のものが落下する──水色の鱗。水竜の体を覆う、鋼よりも堅牢な鎧である。


「す……すごい! クーさん、なんですかそれ!? 凄いです!」

「ありがとう。見届ける者イレスnatasikum iresu ──不可視の友。精霊にぶつけるなら、精霊の力だ」

「精霊って──外部魔力を利用した魔術なの!? 内的神秘の発動じゃなく!? じゃあつまり、あんた、今のを無尽蔵に撃てるってこと!?」


 ネフィルは我が耳を疑って叫んだ。


 母の胎から生まれ落ちるものを幻獣種、父母を必要とせず自然の中より現れ出でるものを精霊種と呼ぶ。ならば精霊とは、であるとも言える。

 自然が内包する神秘の総量は、当然、一生命体のそれとは比べものにならない。〝森の女王の娘たち〟──厳密な分類においては幻獣種であっても、その内包神秘、すなわち魔力量は人間とさしたる差が無い。だが、クーのように精霊を友とし、無尽蔵の自然の力を借り受けることが出来たのなら──


「難しいことは良く知らないが、そうだな。イレスが疲れるか飽きるかするまでは、うん。いくらでもできる」


 それは高位魔術師の中でも一部の者だけが行使し得る力、『精霊魔術』に他ならない。

 故に、クーの戦闘適性クラスを定義するならばこうなるだろう。

 弓使い。そして大魔術師、と。








 ──忘れ得ぬ声を聞いた。忘れ得ぬ風を受けた。

 そして。

 思い出よりも尚、痛烈に我が身を打つ、森の光を浴びた。

 鱗が一枚、水面に落ちる。これは剥がれるものなのか──そういう新しい驚きがあった。


 そこにいるのか。


 首を巡らせ、風の吹いてきた方を探す。目を凝らしても見えない。幾度も幾度も視線を行き来させてようやく、波間に漂う小さな小さな船を見つけた。

 ああ。たしかに、そこにいる。

 夜、海面に顔を出して空を見上げると、雲間から月が覗いている。そういう色の髪の、人間のような形をした陸の同胞。


 微睡みの中で夢を見たぞ。

 お前たちの夢を、幾度も繰り返した。

 また出会えたことが嬉しくてたまらない。しかも、しかもだ。私の望むことを、お前はもう分かっているのだな。


 さあ、声を伴わぬ言葉を交わそう。

 お前は矢を放つ。私は受け止めよう。次には私が海を揺らす、それをお前たちが──待て、待て。そんな遠くへ離れようとするな。

 小舟が舳先を向こうへ向けて、風に乗って離れて行く。逃げ切ろうというそぶりではない。だから私も緩やかに追う。

 ティネイ島、『水が多いtynney』と名付けられた島の周りを、小舟が大回りに馳せていく。その後を追って──


「〝マインドセット──カテゴリー1、ランク3、焦点距離100、リピート〟!」


 ──陸の同胞とは異なる声。小舟に同乗する人間か。

 黒い髪に水を吸って、浅瀬に漂う海藻のような有様になった娘が、片手に書を開き、もう片方の掌を私に向ける。

 詠唱。しかし漁師のような詩的なものではない。随分とシステマチックな呼びかけだ。


「〝出力1.0、正式名称『対物・長距離:集束炎弾』、仮称定義──『ファイア』〟ッ!」


 火球。

 人の、五指の形に広がって射出された五つの火球が、空中でそれぞれ軌道を湾曲、我が鱗の剥がれた一点へ集束して着弾する。

 ……鱗で守られぬ部位への攻撃は初めて受けた。なるほど、こういう衝撃が来るのか。陸の同胞が放つ矢に比べればそよ風のようなものだが、それでも、盲目のシャチの体当たりより余程手応えがある。

 しかし……残念だ。50年前、あの時も魔術師は居た。

 ひとつ攻撃を放つ度に、長い詠唱をやり直していた。波を起こしてやれば、よろめいて詠唱が途切れて、また初めから。言葉を介した力は扱いが難しいのだろうな。

 今回の術士はどうだ? どれ、試してやろうか。水面を揺らして波を立たせれば、それだけで──



「まだまだぁ──『ファイア』ッ!」


 ──ほう。

 先んじられた。首を降ろして海面を叩く、それだけの動作に割り込まれたのだ。

 なるほど、この術士は連射が効くのか。


「『ファイア』ッ! 『ファイア』ァッ! ……ああもう、手応えがあるんだか無いんだか!」

「だ、大丈夫だよネフィル……たぶんっ!」

「たぶんって何よぉ! ええい、〝焦点距離150──『ファイア』〟ッ!!!」


 一度に五発の火球が、一節の詠唱で放たれる。それが繰り返し、繰り返し、幾度も正確に、鱗の剥がれた痕を狙って。一度の威力は、緑光の矢に遠く及ばない。だが連射性能はこちらが遥かに上回る。着弾の衝撃に追い足が鈍る。


 そうして距離を稼いだ小舟が、ついに逃走をやめた。

 ではここから、遊びの仕切り直しをしよう。陸の同胞、そして小さな術士よ──


「海の子。ほら、見ろ」


 ──陸の同胞が、私の後方を指差す。その直後、背に幾つもの、固く鈍い衝撃を受けた。

 銛の投擲か。鉄の鏃の矢か。いいや、もっと重い。鱗を傷つけるには至らぬとも、首を前にのめらせるだけの力はある。なんだこれは。好奇心をそそられる。首を後方へ巡らす──。


「各砲門、次弾装填しだい撃てーっ! 的はでかいよ、海賊どものようにチョロチョロと逃げもしない!」


 陸の同胞を連れてきた、あの大きな船だ。少しだけ小さな、ふたつの船を引き連れてきた。そしてあれは──ああ、大砲という奴だな。私の背をしたたかに打ち据えたのは、こちらに向けられた総数40を越える砲口の一斉砲撃か。


「やっこさんは退屈なのがお嫌いだそうだ! ラウドメア武装船団、総出で楽しませてやろうじゃないか! ぶっ放せぇ!」


 火薬の爆発。その衝撃で鉄の砲弾を、人力では出せない速度で射出する。これなら巨岩も砕くだろう。素晴らしい。

 だのに、この力を私に奮う彼らには、敵意や憎しみというものを感じられない。怯えの色は──有る。だが逃げてしまおうとはしない。この海域に残り、私に攻撃をしたり、私が起こす波に耐えたりしようとしている。


 ……ああ、そうか。彼らは私と遊んでくれているのだな。

 なんだか私は、ひどく嬉しくなってしまった。


「──おや。海の子よ、それは……?」

「あぁん……!? おい! 総員、頑丈な部分にしがみつけっ!」

「げ──なっ、何あれっ!? ミ、ミアっ!?」

「私もわかんない! ……けど、なんか凄そうなのは分かる……!」


 ……? 陸の同胞が、そして人間たちが、私の頭上を指差してどよめいている。

 何事だろうか。私もまた首を仰け反らして、我が上方を見上げた。


 そこには──幾つもの水の塊が浮かんでいた。

 海の水を掻き集め、球体に成形したものだ。ひとつひとつは小さく、人間たちの頭ほどしかないが、それが何百か、数えるのも面倒な程に。

 これは、誰の技だ? 首を巡らすも、次の挙動がない。〝遊び相手〟たちは皆、私の方を、息を凝らして見据えているばかりだ。


 もしかしてこれは、私の力なのか?

 そう認識して、球体のひとつを意識すると、それは大きな船の側面へと飛んでいき、衝突して破裂した。船の外壁は無事だが、その船体は大きく、波に洗われた時のように揺さぶられた。


 なるほど。……そうか、なるほど。

 思えば、発生してから今まで、まともに力を奮ったことなど無かった。

 私にどれ程の力があるかを、私さえが知らずに居たのだ。


 我が魂は海。我が内包する神秘の総量は、この大洋が抱くそれにも等しい。

 故に詠唱などは不要なれど、これは〝遊び〟であるが故に、私は、心の中に浮かぶ言葉をそのまま、人のように音に乗せて吐き出した。







 遥か岸辺まで届く、海の覇者の、歌うような声。


我が為すわざのかたちによりてkan miglow ayla wikool我が領土はmall ayla en荒れ狂うgrawgroll


 無数の水球が陽光を乱反射し、海域は虹で満たされたように輝いていた。

わざのかたちはkan miglow en──dunay maisa


 ──命令一下、それは狙いを定める行程すら省かれて撃ち出された。

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