第8話 最初の冒険:2

「減速ーっ! 帆は畳みきるなよー、錨もそのまま! 島を中心に左に回る! 艦隊間の距離、300まで離せーっ!」

「距離300まで、はいよーっ!」


 船団長の女性の、ハスキーというにはざらつきすぎた声の命令。各船が呼応し、3隻が互いの距離を開く。

 いくつかの帆だけを畳んで、風を受ける量を減らして速度を落とす。そうして武装船団は、大きな弧を描きながらティネイ島に近付いていく。

 クーと、漁師の老爺──ダグと言う名らしい──は、変わらず船団旗艦カンタール号の船首に立っていた。


「どうだい弓のねえちゃん、連中の船は見えるかい。わしはもう、目が霞んでなぁ」

「船員達の顔まで見える。顔がこわばってる、怯えてるな……ええと、〝手旗どこだ〟〝持ってきます〟だそうだ」

「読唇術ってやつかい? 目がいいなぁ、あんた」

「上級遠視士の資格持ちさ。更新手続きはしていないが。……で、手旗の意味はわからないんだが、君はわかるか?」

「あたぼうよ。大陸中、どこの港の旗でも読めらぁ。どれ、ちょっと真似してみろぃ」


 クーは両手を指先までピンと伸ばし、カクカクとした動きで、交易船の船員の手旗を真似る。ダグの顔の皺が、眉間にぎゅうっと集まった。


「〝貴船直下に危険有り〟──おい、やべえぞ小娘ぇ!」

「見えてらぁ、クソ爺! 各員、緊急避難だ! パドル出せ!」


 船団長が、望遠鏡を覗き込んだまま怒鳴り返す。船体の側面に格納されていた外輪が展開し、水を掻いて巨船が交代する。その直後──一瞬前までカンタール号があった箇所の、水面が爆ぜるように持ち上がった。


 水の柱が、空へと立ち上がる。

 重力を無視して逆さに流れる滝のように。

 水煙が立ち込め、波の飛沫が甲板を洗う。晴れ渡る空の下の、局地的な豪雨──そして、異界の旋律を奏でる咆哮。怖気を呼ぶほど美しいその歌声は、遥か数十キロ先、カンタール市にまで届いた。


「……なあ、弓のねえちゃん。こりゃあ、随分デカくなってねえか?」

「50年で育ったんだなぁ。元気そうで何よりだ、わたしは嬉しい」


 かつての当事者ふたりの目は、船の直上を見上げていた。

 蛇の如き長躯。美しい海と同じ、水色に輝く鱗。深海の濃紺の瞳と、真珠色の鋭い牙。


「久しいな、海の子よ。君の成長を抱き上げて祝いたいが……無理かな」

「キィィィイイィイイィィィィィ────ッ」


 神話の存在が如き巨体の竜が、海中から首をもたげ、武装船団を見下ろしていた。







「なっ、な、な、な──なにあれーっ!? 海ってあんなの住んでるの!? ねえネフィル!?」

「しっ、知らないわよぉっ! だってあれ、たしかに分類は海獣種かも知れないけど──精霊とか幻獣とかそっちの類でしょ!?」


 ミアとネフィルは手を取り合い、双方、激しく狼狽していた。せいぜい、巨大な鯨のようなものか、悪くても馬鹿でかいタコが出るだろうくらいの認識だったのだ。

 それが、竜だ。


 水竜。ネフィルの言う通り、〝海〟に繋がる精霊──の中でも最大のものである。おおよそ生物の枠を外れた存在のうち、母の胎から(胎生か卵生かは問わず)生まれ落ちるものを幻獣種、父母を必要とせず自然の中より現れ出でるものを精霊種と呼ぶ。

 海の流れにただひとり、この領地を統べる王として生まれた命。他者の命を喰らうという〝不完全な生物の業〟に縛られぬ──すなわち〝生存に飲食を必要としない〟、世界の理の上に在るもの。


 現在、海上に見えている部分だけでも100mはあるだろう。海中で、姿勢を制御している残りの部分は、さてどれだけの長さがあるのか。


「せ、船首右向けーっ! 砲撃だ、このデカブツにどこまで効くかはわからないが……!」

「船団長! 波がっ、まともに動けませんっ!」

「エスタ・ムア号が隊列から押し出されました! 向こうはただ〝顔を出した〟だけなのに……!」


 水竜は、下側から迫り出す瞼で瞬きをした。それから改めて、遥か眼下で騒いでいる小さな生き物を、首を巡らして眺める。鱗の隙間から落ちる海水が、豪雨となって甲板を叩く。大量の落水がカンタール号を揺らし、船員が数人、危うく海中に転落しかけた。

 ただそこに在るのみで、一顧にて人を走らせる。その様はもはや、生きる天変地異である。

 おおよそ人が抗える存在ではない。理ではなく、誰もが肌で感じとる。かろうじて船団長のみが、交易船団の奪還という使命で己を鞭打ち攻撃指示を出すが、水竜の浮上時に発生した大波で武装船が揺さぶられ、熟練の水夫達がろくに歩くこともできない。


 ミアとネフィルは、帆柱から伸びるロープにしがみつき、揺れに耐えていた。力一杯に握り締める手が痛む。だが、痛みなど意識できぬほどの脅威が、今も頭上から自分達を覗き込んでいる──


「ど、どうしようミア、あたし達どうしたら──」

「せ、船室に隠れるとか……? 目は合わせないように、いきなり早く動かないように、ゆっくり離れて──」

「それは熊への対処法だな」

「……クーさん!」


 背後から、ゆったりと落ち着いた声。ふたりは首だけを振り向かせる。クーは、船の揺れが存在していないかのように、平然とそこに立っていた。……そして少し後ろに、たたらを踏みながらも二本の足で立ち続けるダグ翁。

 荒波を幾度も被ったが為、クーの金髪は普段のように風に靡きはせず、肩や背に張り付いている。だがその目、その口元には、子供のように無垢な笑顔が輝いているのだ。その輝きに晒されていると、ミアの心に刺さった水竜の恐怖が、氷のように溶けていった。


「船団長! ……そういえば君、名をなんと言う!」

「あぁ!? ロッシ・ロブレ・デ・リンモロプラ! 最後の2節はバラすなよ!」

「舌を噛みそうな名だな、君のことはロッシと呼ぼう! 砲の用意を進めてくれ!」

「そうしたいのは山々だがねぇ、船にしがみつくので手一杯だ! だいたい、あのデカいのに効き目はあると思うか!?」

「無い! だが、派手にやれば海の子は喜んでくれる!」

「何言ってんだかわかんねえよ、説明しろ!」

「あれは大きな子供だと思え!」


 水竜が体をうねらせ、大波が起こる。その波を頭から被りながら、クーの目の輝きは薄れない。


「あれだけ大きくなってしまえば、遊び相手はいないんだ。鯨でもクラーケンでも、海の子から見れば赤ん坊のように小さい。50年前は漁船で遊んでやった! 今は倍も大きくなったから、遊び道具も大きい方がいい!」

「……つまり、てめぇ。このラウドメア武装艦隊を、あのデカブツの玩具にしろって言ってんのか?」

「子供は戦いごっこが好きなものだろう!」

「あ、あのっ、クーさん、クーさん!? 私、話が見えないというか──見えてきたけど信じたくないんですがっ!」


 揺れに足を取られながらも、ミアがクーの片腕に縋り付く。その祈りも虚しく、ダグ翁がロープを器用に使い、小舟を海面に降ろしていた。着水。……風に舞う木の葉の如しである。


「準備出来たぞ。乗れや、ねえちゃん達」

「ありがとう。行こう」

「ちょっとぉっ!? そんな一発で沈みそうな船で何するつもり!?」


 ネフィルが声を裏返して叫ぶ。体面を飾る努力も、今は余裕が無い様子だ。

 すたんっ──クーがまず、まっさきに小舟に降りた。それからダグ翁が降りて、船底に手を触れ何事か唱え始める。その途端、小舟の揺れが大幅に軽減された。


「〝オンナミノカミ、オンアメノカミ、オンカゼノカミ、オンウミノカミ、コノフネヤスカラシメテウオデミタシタマエ。コノフネヤスカラシメテウオデミタシタマエ〟……」

「え──おじいさん、それ、魔術……!?」


 淡い光が小舟を包み、膜のような形を持つ。その膜が、波に合わせて形を変えることで、小舟の揺れを抑えているのだ。

 ネフィルは海水で濡れた前髪を払いのけ、ダグ翁の手元を凝視する。不可視である筈の魔力の流れを、本を読むかのように追っているのだ。


 魔術。人が生まれつき存在に内包する神秘、俗に魔力と言われるものを活用し、単純な物理法則を超越する技術体系、そして学問である。長い研鑽を以て内的世界への理解を深め、詠唱により先達が構築した〝扉〟を開くことで、ただ渦巻くだけの力に明確な指向性を与える──というのが理屈であるが。


「お偉い連中はそう言うが、俺たち漁師にとっちゃあ〝安全祈願のまじない〟ってなもんよ。そうれ、〝オンナミノカミ、オンアメノカミ〟──」


 つまるところは、生まれ持った力の使い方だ。魔術学の基礎すら知らぬまま、反復練習だけでなんらかの術を習得している者は、少数だが存在する。『口伝のまじない』──『波避けの祈願』。50年前の騒動を知るものは他にもいるが、特にダグが招かれた理由がこれだった。


「ミア!」


 揺れの静まった小舟の上から、クーが呼ぶ。ミアは反射的に、カンタール号の船縁から身を乗り出す。


「海の子を、武装艦隊から引き離す! そうすれば彼らも砲が使える、そうすれば海の子はもっと楽しくなる!」

「……!」

「君は幸運だ、初めての旅で海の子に──海の精霊に出会った! ならば、もっと欲張ってみたらいい! 一緒に行こう!」


 呼ばれている。それだけで理由は十分だった。ミアは躊躇わず、船縁の柵に足をかける──と、その裾を引く小さな手がある。ネフィルが心配そうに、初めての友人を見上げていた。


「ねえ、本当に大丈夫なの……!? あのひと達の言ってたことって、つまり……あの竜を砲撃したりして、遊び相手になろうってことよね!?」

「きっと大丈夫だよ。だって、クーさんが楽しそうだもん」

「そんなの理由になんないわよ! あの小舟、沈んだりしない!? 精霊を、竜をこんな小舟で引き離すなんて──死んじゃったりしない!?」


 答えになっているとは言い難い。だが、ミアは今回も、ひとつの嘘もなく言った。それから、クーが自分にそうしてくれたように、今度はミア自身が、ネフィルを招くように手を差し伸べる。


「一緒に行こうよ。楽しいことがあるなら、せっかく出来た友達と一緒に見たい」

「友達、って……そんな言葉で誤魔化されるとっ。あたしは、あんたがっ」

「危なそうなら、私が守るから。ね?」

「~~~~~~っ!」


 揺れるカンタール号の上でネフィルは逡巡したが、さほどの間を置かず、差し出された手を、半ばヤケになったような勢いで掴んだ。


「言ったからには責任取りなさいよ!? ラウドメア商会はね、口約束でも不履行は許さないから!」

「……頑張ります!」


 ミアは、ただの農民の子だ。戦いの心得もなく、戦場を見た経験も無い。徒手空拳である。誰かを守る術など、持っている筈が無い。

 それでも、その言葉が口を衝いて出たからには。

 嘘にはしたくない。どうにかして、どうしてでも、約束は守るつもりでいた。純朴な生真面目さと、冒険への高揚がそうさせた。

 小舟の船底に落ちている櫂を手に取り、物語の騎士の、槍のように構える。その姿をクーが横目で見て、何かを懐かしむように目を細めて──


わたしの友iokusis ayla,見届ける者イレスnatasikum iresu


 それは、ミアには聞き慣れぬ言葉であった。

 それは、ネフィルも書物でのみ読み知る、音として発される事は滅多に無い言語であった。 


奔れhyut!」


 荒海を断つように、一陣の風が吹く。小舟はその風に乗り、駿馬もかくやという速度で走り出した。

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