第4話 交易港カンタール:1

 翌朝──東の山の端から太陽が姿を見せたばかりの頃合いである。

 ミアもクーも早くから目を覚まし、空の薄暗いうちに宿を出た。朝食はパンがふたきれと山羊のミルク。質素だがすぐに腹が膨れて、街まで歩くだけの力も出る。

 正午までにはカンタール市に着くだろう。心なしか速度を緩めて、ふたりは街道を歩いていく。



「ごちそう様でした、クーさん。宿代だけじゃなく、ご飯代までお世話になってしまって……」

「鍛冶の依頼料の一部だ、正当な代価だとも。それにわたしたちは、あまりお金を使う機会が無いからな」

「そうなんですか? 私たちっていうのはつまり、〝森の女王の〟……」

「ああ。〝森の女王の娘たち〟だ。食べるものも着るものも、森の中には全てがある。知恵も知識も物語も、先に生まれた者から後の者へ、口から口へ伝えられる。わたしたちは本来、森から滅多に出ることはないんだ」

「でも、クーさんは」

「わたしは例外だ。変わり者なのかも知れない。そもそもわたしは、まだ180年ほどしか生きていない」

「……まだって言うんですか、それ」

「わたしの住む森には、500年を生きる賢者も、1000年を生きる古老もいる。昔語りによれば、3000年生きた〝娘〟もいたらしい」

「さん……」


 180年でも、ミアからすれば途方もない年月だ。なんと言っても、自分の年齢の12倍である。それが、500年、1000年、3000年……示される数字のスケールは、もはや想像も及ばない程である。


「50年か、もう少し前だったな。わたし達が住む森──君達が常夜の森と呼ぶ、あそこから東へもう暫く行ったところに、ふたりの若者が訪れたんだ。……いや、訪れたって言うのか?」

「と、言いますと?」

「森で迷って、迷い込んだって言ったんだ。それがオーエンとリネットだった」


 ミアの祖父母の名だ。祖父は顔も知らず、祖母の方も、幼いころはさておき、痴呆の進んだこの数年は、あまり言葉を交わせていない。ふたりの若き日の旅路について知るのは、これが全く初めてだ。


「ふたりとも、広い世界を見に行くんだって意気込んでた。その熱意にわたしは、うん……惹かれてしまったんだろうな。私も森を出たい、外の世界を知りたいと一族の長に願い出て、特に止められもしなかった。わたしたちは長い時を生きるから、ほんの5年や10年を無為にしても困りはしないだろうって──でも」


 言葉を句切り、クーは東の空へ目をやった。

 山の端から昇ってきた太陽の光が、空の濃紺を徐々に薄めて、人が〝青空〟と呼ぶ色合いに変えていく。


「無為だなんて、とんでもない。とても素敵な時間だったんだ。出会うもの何もかも全てが、新しくて、眩しくって。朝、その日何に出会えるのかに胸を躍らせて、夜には明日が楽しみで仕方がなくて。嵐に荒れる海も見た。凍て付く寒さの山も見た。灼熱の砂漠、雲上の天嶮、人の暮らせないような土地だって幾つも歩いた。なのに、本当に毎日が楽しかった。友達と一緒に世界に触れた。ああ──わたしは本当に幸せだったんだ」


 遠くの空へ歌うように、クーは思い出を語る。ミアには垣間見る事もできない過去へ、クーは思いを馳せている。陰りも憂いもそこには無く、満ち足りた者の穏やかさが、頬を柔らかく緩ませていた。

 ミアは、ほんの少しの驚き──月光のような彼女は、こんな顔もするのだ──と、彼女の語る思い出に自分が関与できないことの寂しさを同時に味わった。それから、寂しく思う道理など無いのだと、自分に一度だけ言い聞かせた。

 ふたりは、また少しの間、無言で歩いた。その沈黙は決して不快なものではなかった。歩いて、空の色がすっかりと朝らしくなった頃、クーが立ち止まって、改まって言った。


「ミア。わたしはリネットに会わなかったが、それは、リネットをおろそかにしているんじゃないんだ」

「わかってます……いえ。わかります、なんとなく」


 もしかするとその感覚は、自分が祖母へ抱いているものと少し似ているのかも知れないと、ミアは思った。

 ミアがまだ幼いころ、祖母リネットは腰こそ曲がっていたが体は達者で、良く遊んでくれたし、面倒を見てくれたものだった。孫を溺愛することは、ミアの母をたびたび呆れさせて苦言を招く程だったが、それを恐れぬ妙な度胸も備えていた。

 いつ頃からだろうか。リネットは言葉をあまり発しなくなった。ベッドに横になっている時間が増え、家の外へ出たがらなくなった。物忘れが激しくなり、酷い時には家族の名前すら出て来なくなる。

 老いが、祖母を変えたのだ。そしてミアは、あまり祖母と会話をしなくなった。もっとも、話しかけたとて答えが返るとは限らない。だがそれ以上に、同居しながら祖母と疎遠になった最大の理由は、自分の思い出の中に済む闊達な祖母の姿を、今の祖母が掻き消してしまうような心地になるからだった。

 クーも、きっと同じなのではないか。ミアは思う。過去の思い出に傷を残すほど、リネットが変わってしまっていたら? 過去の幸福が、時の隔たりが大きいからこそ、その恐れもまた膨れ上がる。


「怖いんだ。……リネットに、落胆した顔を見せてしまうかも知れないわたしが。大事な友達だからこそ……怖いんだ……」

「……………………」


 言葉は見つけられない。その代わりに、ミアは、ほんの少しだけ勇気を振り絞った。


「……ぁ」


 クーの、弓取りのごつごつした手を、火傷痕が幾つも残るミアの手が掴み、握り締めた。

 突然の接触を、どういなせば良いものか、クーは迷っているようにも見えた。だが結局は、何か対応するのでなく、困ったように眉の端を下げつつも笑って、


「ありがとう、ミア」

「……………………」


 自分からも指を絡め、手を握り返した。

 ミアは何も言わない。だからクーも、それ以上のことは何も言わなかった。

 ふたりは手を繋いだままに歩き、そして昼頃、カンタール市の北門を潜った。







 カンタール市。王国首都ベイエンドクロウズの南西に位置し、大規模な交易港を有する商業都市である。温暖な気候故に不凍港、南風は常に穏やかで港内には高波も立たず、一年を通して大型の商船が頻繁に行き来し、人の往来も活発である。

 人口も王都に次ぎ、およそ三十万人を数える。その広大さ故に、生まれてから死ぬまで街を出るどころか、市内の一区画から出たこともないという者が、カンタール市では珍しくもないという。

 北門の検問を抜けて街へ踏み込めば、眼前に広がるのは、旅人を迎える宿場区画。飲食店、酒場、宿、質屋、乗合馬車の発着所に、怪しげな店の客引きの影。街道から続く石畳を挟むように、赤レンガと白い漆喰の建造物が建ち並ぶ。

 北から南へ、急傾斜の下り斜面に沿って作られた街の中心を、下流域に至って浅く広がったククフラ川が流れていく。淡水と海水が混ざり合う合流地点付近は、流れも緩やかな為か、石畳の通路や橋ばかりでなく、水路と小舟が、交通手段として採用されている。その辺りまで降りてくると、街並みは幾分か古くなって、建物もレンガや漆喰より、古めかしい石詰みの、無骨な様式が増えてくる。

 南端の港から、鮮やかなグラデーションを描く街を見上げるも良し。北端の門の上から、街並みと海の対比を眺めるも良し。規模ならベイエンドクロウズに劣るやも知れぬ。だが活気と美しさでは負けぬ。それがカンタール市の気概であった。


「ふぉー……この景色、やっぱり……〝都会〟って感じでいいですよねぇ……!」


 街の入り口で立ち止まったミアは、感嘆の声と共に身を震わせた。……尚、もう繋いでいた手は放している。街が近くなり、すれ違う人の数が増えるにつれて、気恥ずかしさが増して指を解いたのだ。

 クーの方は、ミアほど〝田舎暮らし〟を露わにこそしないものの、涼しげな目元にも好奇の光を灯している。


「少し建物が増えたな。人の流れも増えている」

「……何年前に比べて?」

「たぶん、35か36年前。人の営みは早いな」

「尺度が違いすぎる……!」

「……そうだな。気をつけよう」

「……あっ。あ、いえいえいえいえ! 別に私、そんなつもりじゃなくて!」


 深く考えもせず無配慮なことを言ってしまったと、慌てに慌てて首と手を振るミア。赤ん坊をあやす玩具のような動きに、クーは耐え切れず顔を背けて、文字にすれば〝ぐふふふ……〟とでもなるだろう、低い呻きのような笑い声を漏らした。

 それから──今度はクーの方から、ミアの手を掴んだ。


「……!」

「行こう、ミア。わたし達のお目当ては、港の方だろう」


 ミアの手を引き、足取りも軽やかに歩き始めるクー。人の波をするすると抜けていく足取りの、歩幅が随分と狭いことに、ミアは、ふたり旅を初めて丸一日も経ってからようやく気付いた。背の高さも足の長さもまるで違うふたりが、並んで歩けるように、ずっと配慮されていた。そう思い至ると、ミアの胸は、なんとも言えず暖かい心地になった。

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