第2話 月光のようなひと:2

 翌朝、ミアは森の小屋でなく、村の自宅で目を覚ました。

 農繁期であれば日の出と共に目を覚ますのだが、今は麦の収穫を終え、乾燥を待つばかりの時期だ。村人も皆、しばらくの間は日が高くなるまで眠りを楽しむ。


「おはよー……」


 欠伸を噛み殺しながら家族共用の寝室を出ると、朝食にしては力強い、肉と油の焼ける匂いがミアを迎えた。


「おお、起きたか! もうすぐ焼き上がるからな!」

「お父さん……タフ……」


 ミアの父は猟師であり、農作業の合間に森に入っては獣を捕らえて持ち帰る。自分で捌き、加工し、料理する──その全ての行程を趣味としている。

 が、料理のレパートリーは〝荒い〟の一語に尽きる。だいたい、どこかの山で削り出してきた岩塩を掛けて焼くだけだ。時折は香草が添えられたりもするが、一家の女性陣はその料理を〝タフ〟と評価する。批難と愛情が一緒になった、家族間でのみ伝わる言い回しである。


「タフだよねえ。おはよ、ミア」

「お母さん、おはよー」


 その〝タフ〟の提唱者であるミアの母は、夫の荒っぽい料理を既に皿ひとつ平らげたようで、満足気に腹を撫でていた。十四で夫に嫁ぎ十五でミアを生んだ、まだ若々しい、そして農作業で鍛えられた心身を持つ女傑である。

 そして、祖母──


「おはよう、おばあちゃん」

「あぁ……」


 リネットは、もう七十を過ぎている。ここ数年、受け答えが不明瞭になったり、人の名前や顔を忘れるようになったりと、衰えが顕著になっている。この数年、ミアは祖母が苦手だった。遠からず居なくなってしまうのだろうという恐れと、その感覚は常に一体だった。

 そういえば。

 昨夜の出逢いが、ふっと思考を埋める。月光のような金髪のひと。祖母の友人だという、クーのこと。彼女と出会ったと伝えるべきだろうか。

 少しの間だけ考えて──やめた。ミアの中で上手く言葉には纏まらなかったが、それはまだ自分が触れて良いものではないと思ったのだ。

 それに……発作的に言ってしまった、あの言葉。


 ──弓を作ります。


 一晩を置いて冷静になると、なぜあんなことを言ってしまったのか分からなくなる。出会ったばかりの、名前しか知らないひとの為に腕を奮う? 自分はそんなにも、人情の溢れた人間ではなかった筈だ。例え彼女が、見ているだけで泣き出したくなるような、寂しげな背中をしていても。

 けれども、冷静になった筈の頭は、やはりやめておこうとは言い出さない。自分は鉄を打ち、弓を作る。そういう決意が心の中に根を張っていた。それどころか、作業の算段を考えると楽しいのだ。素材はどうしよう。あの曲線の加工は。握りの部分のサイズを計らないと。彼女の手の大きさは、腕の長さは。デザイン性にあまり自信は無いが、彼女は喜んでくれるのか──。


「どうしたの、ミア。変な顔をして」

「うぇっ?」


 猪の干し肉を口に押し込んだ瞬間、母が横合いから、怪訝そうな顔をして言った。


「へんなはお、ひへは(変な顔、してた)?」

「うん。眉間に皺を寄せながら口元がニヤニヤしてた」

「うわっ」

「母さんも昔は同じ顔をしてたぞ。主に俺と逢い引きしてる時は──」


 ぱっしぃん! 筋肉質の父の腕に、母の平手がくっきりと後を残した。


「ぇああぉぉうっ!?」

「ぶっ、あはははははっ! あんた、何その声っ!」

「お、お父さっ、ぷっ──ふ、あはっ、あはははっ!」


 父の珍妙な悲鳴の後、母とミアが二人して腹を抱えて笑う。

 その間、リネットは静かに干し肉を口に運び、一定のペースで咀嚼しては飲み込んでいた。一言も発さず、表情も変えず。周囲の音が聞こえているのかも定かではない様子で……。






 朝食を終えると、ミアは、森の墓地へと足早に向かった。

 その足がだんだんと、早歩きから馳せるように変わっていったのは、いなくなってしまうかも知れないと、僅かにでも考えたからだろう。

 はたして──クーは、そこにいた。

 昨夜見た、墓標の前に腰を下ろした格好そのまま、自分までが墓標の一部になったかのように身じろぎもせず、ミアの祖父オーエンの墓の前に座していた。


「あ……」


 天蓋の如き葉の隙間から、陽光が僅かに零れ落ちている。寂しげな背中が、なぜか綺麗に見えて、目が離せなかった。

 ミアは、足音を抑えて静かに、座した彼女の側に立つ。

 クーの手は、錆びついた弓を撫でていた。髪や頬、鼻筋の、いっそ非現実的なまでに整った印象に比べて、その手指はごつごつとしていた。弓取りの無骨な手だった。


「ずっと、ここに居たんですか……?」

「積もる話があったんだ」


 クーの視線は、墓標から動かない。


「そう、ですか」

「ああ。ほんの三十年分だけ」


 ずきん……胸が痛む。息苦しさに口を開き、空気を逃すように呼吸をした。

 これは、なんだろうか。同情か。同調か。自分の心が不可解な働きをしている。だがその理由は、ミアにはついぞわからぬままだった。


「君は優しい子だ。だが、無理はしなくていいんだよ」


 穏やかに、説いて聞かせるよう、クーが言う。


「無理じゃありません。……私が、そうしたいと思ったんです」

「なぜかな。君にそうしてもらうほど、何か恩をかけたつもりはないが」

「恩なんてありません。理由なんて、私にも良く分かりません、けど──!」


 あまり強く言葉を発したので、ミアは少しむせた。クーが狼狽えながら、その背を撫でて落ち着かせる。数度の咳払いで呼吸を整え、ミアは言葉を続けた。


「……おじいちゃんの代わりに、おじいちゃんの作るはずだった、あなたの弓を打ってみたいって思いました。それだけじゃいけませんか」

「いけなくはないが、しかしだな……」


 強い調子の言葉に気圧されたように、クーが言葉を籠らせる。


「私、鉄を打つのは好きです。新しいものを作るのも。弓はまだ作ったことがないからやってみたい。いけませんか」

「……困ったな」


 そう言って、クーは朗らかに、けれども目の端に涙の粒を浮かべて笑った。


「オーエンにそっくりだ。その頑固なところ。自分がやりたいことを、驚くほどはっきりと突きつけてくるところ」

「す、すみません……」


 その指摘に、ミアの顔は火がついたように赤くなる。自分の主張ばかりで、クーの希望を聞いていなかったと自覚し、恥じ入ったからだ。

 だがその思いとは裏腹、クーは、雨空から雲が流れていったように表情を明るくし、すっと立ち上がった。


「わかった、お願いしよう。だが、わたしからも注文させて欲しい」

「……は、はい!」

「ふたつだけだ。ひとつに、使う〝かね〟は、イラキスの樹液を混ぜ入れたはがねであること。聞いたことはあるか?」


 ミアは、力強く頷いた。

 イラキスとは、大陸中に広く生育する針葉樹である。樹齢が極めて長く、際立って大きく育つ。常夜の森の空を埋める、天蓋の如き枝葉は、イラキスのものである。


「イラキスの樹液は、はがねを変質させる。より粘り強く、よりしなやかに。〝私たち〟はあまり金属を好まないが、イラキスの命を啜ったものは別だ」

「私たち──〝森の女王の娘〟?」


 今度はクーが、微笑みながら強く頷いた。


「そう、それが私たちだ。……オーエンは言ってた。イラキスの樹液を使うと、はがねを打つのが難しくなると」

「融点が変わるって、本で読みました。木炭の火だけじゃ鋼を溶かしきれなくなるって。なら……」


 炉の耐久性は、相当の高熱にも耐えられる。問題はやはり燃料であろう。コークスの熱量ならば良いだろうが、ちょうど備蓄が少なくなってきた頃合いだ。

 加えて原料の鋼も。ただの鉄ならさておき、ある程度質の良いものと考えれば、これも街で仕入れるべきだろう。インゴット売りされている鋼を、どの程度──


「……すいません、ちょっとその弓をお借りしていいですか?」

「これか?」


 クーは、背負っていた弓を無造作に片手で外し、ミアへ差し出した。うっすらと緑色を帯びた、鋼の弓。弦だけが、太く強靭な蔦草で編まれている。ミアは両手でそれを受け取り──ずしっ。


「わっ。……これ、10kg近くありませんか?」

「そうらしい、測ったことはないんだが。杖にも、打撃武器にも、とにかく何にでも使えるようにしてくれとオーエンに頼んだらな、こういうものを打ってくれたんだ」

「そうですか、これもおじいちゃんの……」


 普通の弓は、重くても1kgにも満たない場合が殆どだ。そもそも弓とは、総金属で鍛造するものではない。そんなものを作ったところで、どんな弦を張り、どんな力で引けばよいと言うのだ。

 だが。現に、そういう弓を扱うひとがいる。ならば自分は打つだけだ。ミアはすっかり腹を据えていた。

 10kgの弓を打つのに、鋼はどれほど必要か。試行錯誤の段階も合わせて考えて、倍。いや3倍。30kgのインゴットを持ち帰るのは大仕事だが、幸いカンタール市への道のりは、川沿いに進めば平坦で、石畳の舗装もされている。


「条件のひとつはわかりました。樹液はこの森で。鋼も燃料も、全部近くの街で揃います。……それで、もうひとつの条件は?」

「君の親御さんに挨拶させて欲しい」

「えっ、それはなんで──」

「わたしは、君たちの生活圏の外に暮らすものだ。それがいきなり現れて、娘さんに仕事を依頼する。ご両親に会って許しを得るべきだろう」

「そ、そういうものなんですか?」

「これはもっと早く言うべきだったんだが、君は〝わたしは君の祖父母の友人だ〟と自称する女を信用しすぎていないか……?」

「えっ。でも、嘘じゃないんでしょう……?」

「そうだが。いや、それはそうなんだが──」


 ふう。小さなため息の後、クーは歩き始めた。アイネッカの白い花を踏みつけないよう、そろそろと足元を確認しながら。

 ミアはそれを真似て、彼女の長身を追いかける。陽光の中で見るクーの金髪は、しかし夜に浮かぶ月のような印象を残したままだった。

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