田舎騎士の炉 ~剣と魔法と精霊と百合~
烏羽 真黒
第1話 月光のようなひと:1
ユーウェミア──古風で長い名を、誰もがミアと略して呼ぶ──は、赤毛を伝う汗を腕で拭った。
15歳だが、まだ背が伸びきった気配の無い小柄な娘だった。炉の火のような赤毛。右目を覆う眼帯は、火の粉から目を守る為のもの。少年のような闊達さが、薄く飾り気の無い口元を引き結んでいる。
〝常夜の森〟と呼ばれる、木々の枝が天蓋のように空を遮るほどの古く広大な森。その入り口近くの開けた場所に小屋がある。
石積みの炉を備えた鍛冶場と、小さなベッドが一つ置いてあるだけの簡素な小屋。日々の農作業が終われば、彼女はここに籠って、槌を振るう。
炎の色に照らされる横顔は真剣そのものだ。槌の音が響くたび、火の粉が舞い上がる。
熱で変形した数本の鋼が相互に癒着し、やがてひとつの塊になるのを、叩いて新たに形を定めていく。
「ふぅ……」
今日、小麦の収穫を終わらせた。その際に使った鎌を数本、打ち直していた。
燃料は木炭、骸炭。着火剤は炎鉱石。田舎娘の道楽にはいささか値が張る代物だが、幸い、この辺りの山ではよく採れる。
おおよそ、鎌の形になった鋼は、だがまだ刃を備えていない。これから余分なかねを切り落とし、歪みを直してやらねばならない。熱処理の工程も終わっていない。研いで刃を付けるのはその後だ。
耳を澄ませると、村の方角から風に乗って、豊穣を祝う祭りの喧騒が聞こえてくる。一年を通して、アーシュ村に最も活気が満ちる季節である。
けれど、毎年代わり映えのしない祭りなどより、目の前で形を変え続ける鋼の方に、ミアの関心は向いていた。
「よし。もう一息、一気にやっちゃおう!」
桶に汲み溜めておいた井戸水を浴びるように飲み干し、再び槌を握った、その時だった。
こん。こん。誰かが戸を叩く音。
「誰?」
「ごめんください」
知らない誰かの声だった。不思議と警戒心を呼ぶことの無い、穏やかさに満ちた女性の声だ。
「鍛冶屋のオーエンはいるかな。クーが会いに来たと伝えておくれ」
「えっ。……オーエンおじいちゃんですか?」
怪訝に思い、ミアは聞き返す。
「おじいちゃんは、あの……私が産まれる前に亡くなったらしいですけど……」
「えっ……?」
声の主がうろたえる。
「あー……、そうか。そうか、しまったな。ごめん、すぐ帰るよ──」
落胆が滲む声。戸の外の気配は明らかに気落ちしている。まだ顔も合わせていない段階だが、ミアはこの来訪者を哀れに感じてしまった。……変わらない日常に訪れた貴重な〝変化〟でもある。槌を手放すのも忘れて、ミアは戸まで跳ね寄った。
「いえ、 今開けまーす!」
扉を開けると、そこには長身の少女が立っていた。
腰まで伸びた金色の髪は、今日まで刈り取っていた麦穂の波より尚鮮やかだった。切れ長の目──青い瞳。すっと通った鼻筋。褐色の肌は、農民達の日焼けのような赤っぽいものではなく、きっと生来のものなのだろう。
一目で──美しい少女だ、と思った。色恋沙汰に関しては、自他のいずれにも興味が無いと自負するミアだったが、平凡な日常に突然現れた月光のような少女に、開いた口も塞がらないまま見惚れていた。
「……おじいちゃん、って言った?」
「えっ? あっ、はい! 私、ユーウェミアと言いますっ。ミア、と皆には呼ばれてます」
「わたしは、クー」
名乗りながら、少女は背負った弓を下ろした──この時に初めてミアは、クーと名乗った少女が、その長身より更に大きな弓を背負っていることに気付いた。
戸を大きく開いて、クーを小屋の中へ迎え入れる。殺風景な小屋の中、月光を反射する彼女の金髪が、左目に眩いほどだった。
「君はオーエンのお孫さんなのかな。懐かしいな、この煙突。オーエンが使っていた時のままだ」
「はい。おじいちゃんが亡くなった後、誰も使ってなかったから、今は私が」
「そうか」
天井を見上げて目を細めるクー。炉の煙を逃がすために、小屋の屋根には一際太い煙突が取り付けられていた。
炉の火で赤く照らされたクーの横顔は、どこか寂しげだった。
ミアは、何か言わなければと思って口を開いた。だが、何を言えばいいのか分からない。自分の言葉が、この人に届くのだろうか。
開いた口は、結局は言葉を発しないままだ。
「オーエンと、リネット。それにクリードと、わたしとで、少しの間だけ旅をしたんだ」
リネット──祖母の名だと気付く。言葉は差し挟まないまま。
「オーエンは騎士になりたがってた。けど、お城の試験に受からなくってな。一緒に挑戦したクリードだけ騎士見習いになって、そのままベイエンドクロウズに住み着いて。べそをかいてるオーエンを、リネットが引きずって帰ってきたんだ」
誰に言うともなくクーが語る。ミアは、ふっと、〝森の女王の娘たち〟という存在のことを思いだしていた。
古く広い森に住む、人間の何倍も何十倍も長く、若く美しい姿のままで生き続ける超常の存在。
少女の姿をして数十年前を語るクー。きっと彼女も〝娘たち〟のひとりなのだろう。そう思えば、彼女の横顔が描く輪郭線には、年月が刻んだ計り知れぬ憂いが見えるような気がした。
「なぁ、ミア」
「は、はい」
不意に名を呼ばれ、思わず居住まいを正す。
「前に遊びに来た時に、オーエンに頼み事をしてたんだ。彼に娘が産まれてすぐだった。君のお母さんになるのかな。弓をひとつ作ってくれと私は頼んだ。代価に、あの子が大きくなったら、良く似合う首飾りを贈ろうと言って。……大きくなるどころか、もう子供がいる歳なんだな」
弓──ミアは、クーが床に降ろした大弓に視線を向ける。長く使い込まれたものだろう。持ち主の旅の道程を想起させる古傷が、幾つも刻み込まれていた。
「オーエンは、私の弓を作ったのかな。……弓を作って、私が来るのを待っていたのかな」
ミアには、思い当たる節があった。
弓。それも、王国の兵士が使うようなロングボウとは違う一点物。大きく頑丈で、金属を用いている為に重く、弦を張って撓らせるだけでも常人には難しい。こういうものをミアは、確かに知っている。
「はい……オーエンおじいちゃんは、確かに、弓を作りました」
「そうか」
「それじゃあ、オーエンは約束を守ってくれたわけだ」
「でも、あれは」
クーは、微笑んでいた。だから尚更、ミアの胸は痛んだ。
逡巡の後に、ミアは立ち上がって、小屋の戸を押し開ける。
「……ついてきてください」
アーシュ村は、大陸の南西に位置する小村だ。ククフラ川流域──東西から迫り出した山に挟まれて蛇行し海へ至る大河に沿って、細く長く広がる肥沃な地帯に有り、良い麦を多く産出する。その中に幾つかある村の中で、最も小さい村である。
南に一日歩けば交易港の街カンタール。西に二日の距離には、王国首都にして大陸最大の軍港を有するベイエンドクロウズ市。立地は良く、街道も備わっていて、ならばもう少し栄えていても良いのだろうが、不思議と外からの住人が居着かない土地だった。
もっとも首を傾げるのはアーシュ村の住人ばかりで、〝外〟の住人がこの村を見る目というのは、こうだった。
「あの村は死人と寝食を共にする」
アーシュ村は巨大な墓地だった。より正確には、アーシュ村から東の山脈まで続く広大な森がである。
木々の枝が天蓋のように空を遮るので、常夜の森と呼ばれている。そこは王国内でも珍しい、土葬の習慣が残る土地である。
王国の慣習のように死者を火で送るのでなく、地にうずめて、土と虫が喰うに任せる。そういうやり方を、村の外の者達は気味悪がった。
「その目」
クーが、ミアの横に立ち、長身の背を丸めるようにして目元を覗き込む。
小屋を出たふたりは、夜の森を歩いていた。木々の天蓋の隙間から、僅かな月明かりだけが足下を照らしている。
「オーエンも歳を取ってからは眼帯をしてた。鍛冶屋はみんなそうなのか?」
ミアは右目の眼帯を外し、耐火エプロンのポケットに押し込んでいた。
「おじいちゃんも……そうなんですね。焼けた鉄を長時間見続けるので、どうしても目が悪くなっちゃうらしいんです」
「じゃあ、ミアの右目も?」
「あ、いえ。私の場合、右目の方が良く見えます。見える方を守ってるんです。左目は結構ぼやけるかな……」
ぱちんと右目だけを瞑って、ミアはクーへ愛想笑いをしてみせた。視界は彼女自身の申告通り、輪郭があやふやな、光の群れのように映る。その中にあってもクーの月光のような眩さは、一際鮮やかに浮かび上がる。寧ろ周囲がぼやけて見えるだけ、クーの存在が色濃く示されているようだった。
「……………………」
「どうした、ミア」
「えっ。あ、いえっ」
首を左右に振りながら、視界よりもぼやけ始めた思考を振り払う。
深く呼吸を入れ、あまり肩入れしてしまわないようにと肝に銘じた。何と言っても、自分はこれから、彼女を酷く落胆させるのだから……。
やがて、二人の鼻腔に、花々の甘く芳しい香りが届いた。
アイネッカの花。
日光ではなく、木々の葉の隙間を縫う僅かな月光を糧に育つ、遺骨のように白く、故人のように優しい花。
その白い花畑の中に、アーシュ村の人々の墓標が並んでいた。
削り出した石の墓標がある。木を数本組み合わせただけの、もう朽ちかけている簡素な墓標もある。アーシュ村の葬礼は、特定の宗教様式を採用していない。共通するのは、その真下に、かつて村に生きていた者達が眠っていることだけだ。
生の痕跡であり死の証明である墓標の間を、二人は並んで歩いていく。
オーエンの墓標は、遠目にもそれと分かる特異なものだった。
地面に武具が突き立てられているのだ。抜き身の剣。鞘に収まった剣。或いは槍。或いは盾。ダガー。レイピア。いずれも金属製の、そして、雨と風と森の湿度に晒されて錆び付いている。……その中に、一際大きく重厚な、錆びる前はさぞ美しかったのだろう弓も有った。
オーエンが約束した弓は、そのまま、彼の墓標の一部になっていたのだ。
「……ああ」
重苦しい沈黙が夜を支配する。遠く、村の祭りの音が、墓地まで聞こえてくる程にだ。やがてクーが、苦しげに声を絞り出した。
「ごめんな、オーエン。こんなになるまで放っておいて……ごめんな」
長身がゆらりと傾いて、一瞬、ミアは、クーがそのまま地面に倒れ込むかと思った。実際には、クーはその長い手足を器用に折り畳み、錆び付いた武具の墓標の前に腰を下ろしただけだった。
「あ、あの」
「……案内をありがとう、ミア。ちょっとオーエンと昔話でもしてるよ」
寂しげな背がそう答えたので、ミアはそれ以上何も言えなくなった。
後ずさるように墓地を抜けて、祭りの音に沿って村への道を行く。けれども笛や太鼓の音色では、耳の奥にこびりついたクーの声を消せなかった。
ごめんな。届けたい相手には決して届かない言葉。
クーは過去に語りかけている。自分はそこに介入できない。そういう気持ちが、明確な言葉としてではなくとも、ミアの中に浮かび上がった──左目の視界のように、ぼんやりと。
それが、何故だろうか。酷く寂しい事だと思ってしまって──
「あの、クー……さん」
彼女の名を初めて、声に出して呼んだ。
クーが、座ったまま、首と目だけを横へ向ける。その目が眩しく感じられて、ぎゅっと両目を瞑って、ミアは言った。
「弓を作ります。おじいちゃんの代わりに、私が」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます