ガルニーの町
「よし、今日も元気だな」
トム・マーカーは、朝日を浴びて咲き誇る庭のバラを見て笑った。すると「おはよう、トム」と声が聞こえてきた。バラの垣根の向こう側から、美しい萌葱色の瞳と目が合った。
隣の家に住むネイ・バフラだ。
「おはよう、ネイおじさん。今日の一本をどうぞ」
「ありがとう。いただくよ」
音もなく、一本のバラが手折られた。おそらく魔法を使ったのだろう。
ネイは人間とヴァンパイアの混血である男性──ヴァンピールだ。これが女性だとヴァンピーラと呼ぶらしい。
トムはヴァンパイアの混血者をネイしか知らないので、どうして男性と女性で呼び方が別れるのかも分からない。そもそも混血者に呼び方があることも不思議だ。他の種族では聞かいたことがない。直接ネイに聞いて良いのかも分からなかった。
トムは生い茂ったバラの垣根の隙間からネイを見た。何にせよ、トムにとってネイはネイなのだからそれで良いのだろう。
(綺麗なんだよなぁ)
手折られたバラの花が、淡く灯ってから光の粒になった。ネイはそれを口を開けて取り込み、喉を動かして飲み込んだ。
『バラを〝食べる〟んだよ』と、幼い頃に聞いた父の声が蘇った。
「トム!」
通る声がトムの思考を引き戻した。声の方を見やると、玄関に親友のアドルフ・クィーニーがいた。
「アルが迎えに来たね」
楽しげに言うネイに、トムは苦い顔をした。
「その話はやめてよ」
「まだ何も言ってないよ。それとも何か心当たりでも?」
ネイの口調はやわらかだったが、トムをからかっているのが分かった。
まだ幼かった頃、トムはアドルフの名前を「アルドフ」だと勘違いしていて、ずっと「アル」と呼んでいたらしい。物心がついた頃に、なぜ町中に「アル」という呼び名が定着しているのかと不思議に思って聞いてみたら、トムが原因だと知って卒倒しそうになったのだ。年を経た今でも、ネイのように時折からかう大人がいる苦く恥ずかしい話だ。
なぜ誰も止めなかったのか。指摘しても、幼いトムは気が付けば「アル」とまた呼んでいて、の繰り返しだったのだ。終止符を打ったのは、アドルフ本人だった。
曰く、「どう呼ばれるかより、誰に呼ばれるかが大事だから」と。
幼いのに男前が過ぎる、と何度思い出してもトムは溜息を吐いてしまう。
その男前──アドルフが庭へ来て、垣根越しにネイへ「おはようございます」と挨拶をしているのを見て、より深い溜息をついた。
「どうした? 悩みがあるなら聞くぞ」
「……はぁ」
「大丈夫だから放っておいてやりなさい」
「ネイおじさんがそう言うのなら」
素直に頷いたアドルフに、ネイが嬉しそうに笑った。
「アルは父親に似て大きくしなやかな体をしているけれど、性格はお前の方がずっと良いね」
「それ何度も聞いてるよ」
呆れたように話に入ると「何度でも言いたくなるんだよ。トムの話みたいにね」とネイは返し、再びトムを苦い顔にさせた。
「それより、朝の鍛錬に行くんだろう。気を付けて行くんだよ」
今日はなんだか嫌な感じだ、とネイは小さく付け足した。
「〈目隠し魔法〉?」
「……って何だっけ」と首を傾げたトムに、アドルフは呆れたように少し眉間に皺を作った。
「学校でも習っただろ。防御系以外が不得手なら、なおさら覚えておくべきだ」
「それも何度も聞いてる……。でも、朝の鍛錬を中止してまで話すこと?」
トムとアドルフは彼らの住んでいるガルニーの町を出て、近くの山へ来ていた。
ガルニーで通称〝遊びの森〟と呼ばれている小さな山は、その名の通り町のこども達が小さな頃から走り回る天然の遊び場だ。今は治安警団を目指すアドルフの鍛錬場にもなっている。
治安警団は、はるか昔に戦争を止めるために戦った多種族連合が前身となっている機関だ。現在も人間やヴァンパイア、ワーウルフ、ドワーフ、エルフなどをはじめとした多種族が所属している。そのため、治安警団といえば誰もがこどもの頃に一度は憧れる組織なのだ。
中でも特に人気なのが、ラッカー家の一族だ。
アドルフが治安警団を目指すのも理由の一つでもある。こどもの頃からまじめで冷静なアドルフだったが、ことラッカー家の話になると目を輝かせて流れるごとく喋り出すのだ。
治安警団に入ることが夢だった幼いアドルフに、彼の父親はこども向けに改良した鍛錬を遊びと称して教え、他のこどもたちをも取り込んでいった。友人と遊ぶことよりも、自分を鍛えることを優先する覚悟だと言った真面目な息子を想って──でもあったが、後に遊びが鍛錬だったと話し「面白そうだったからな!」とあっけらかんと言われた時の、トムや同年代のこどもたちの衝撃は凄まじかった。ちなみにアドルフは、友人たちが知らなかったことに衝撃を受けていた。
知らぬうちに巻き込まれていたトム達だったが、その頃には普通の遊びは物足りなくて自分たちで変えてしまうようになっていた。頭や体、魔法を使ったりと出来ることが増えていたのだ。出来ないことは友達と話し合って補い合い、時に大人の手を借りながら解決できるのが嬉しかった。どうしようもなく。
結果、トム達は妙に有能な年代となった。
今でも入団へ向けたアドルフ用の鍛錬に参加する同年代は少なくない。ただ、今日の卒業を控えたここ数ヶ月は、放課後の鍛錬に気が向けば参加するくらいになっていた。
そう、トム達は町の学校を卒業するのだ。
アドルフは明日、一月後に王都で行われる治安警団の入団試験を受けにガルニーを旅立つ。
──トムは。
治安警団を目指していない。
──けれど。
失踪した父を探しにガルニーを旅立つ。
「明日の明け方には俺もトムも町を出るだろ」
だけど、とアドルフは眉間の皺を深くした。
「なんかきな臭いんだ」
「きな臭い?」
「そう、親父が俺も含めてこどもたちに〈目隠し魔法〉をかけた。トムを呼びに行くまで通った家のこどもにもかけられてたんだ」
「相変わらず鼻が良いなぁ」
感心して零すトムに、アドルフは「ああ、ありがとう」と律儀に返した。
アドルフは父親がワーウルフで、母親が人間の混血者だ。ワーウルフという種族は聴覚も良いが嗅覚が恐ろしく良く、個々人の臭いや魔力を判別することが可能だと言われている。中でも、稀に魔力のみならず魔法や魔術の種類まで判別できる者がいるらしい。
片方の種族能力に重きを置いたとき、混血者は純血者よりも発現率が類い稀になると言われている。これは多種族の共存体制が始まってから行われた調査で分かったことだ。
その類い稀なる嗅覚を有するのが、アドルフである。
「トムにはネイおじさんがかけてくれてたな」
「え、そうなんだ。気が付かなかったや。帰ったらお礼言っておこう」
「あの人の腕はガルニー一番──いや、俺は外でも結構な腕なんじゃないかと考えてる」
「アルが言うならそうかも。親父さんも一目置いているみたいだしね」
「……鬱陶しがられてるけどな。迷惑をかけるなといつも言っているんだが」
溜息を
〈目隠し魔法〉。
魔法をかけた対象が、人間を含む生物や探知機などから存在を視認できないようにする認識阻害系魔法だ。魔法を使うために必要な魔力の基本量に加え、注ぎ込む追加量によって視覚以外の感覚や魔力感知もされなくなる強力な認識阻害系魔術に変化する。ただし、追加量を注ぎ込む技術が必要になるし、何より相手の技術が上回れば、どちらをかけたとしても見つかってしまうのだ。
魔力量や技術によって単純な優劣が生まれるのは当然のことだった。
「小さい頃俺たちも目隠しごっこで使っただろ。……トムはあまり
「
気を遣われるほうが悲しくなる、とトムは苦笑した。
アドルフや友人達が〈目隠し魔法〉を使う中で一人からきしだったトムは、防御系の魔法や魔術を使って絶対に捕まらなかった。あまりにも堅固だったもので、途中からトムの防御をどうやったら崩せるのかという別の遊びに発展した。
「結局俺の防御崩せたのアルだけだもんなぁ」
「こども中ではな。大人だとネイおじさんがいるだろ」
「でも二人だけだよ。親父さんもできそうだけど」
「……できるだろうが、きっと崩すんじゃなくて力任せに壊すんだろ。きっと」
肩をわずかに竦めたアドルフは「それで、なぜ大人が魔法をかけてるかってことだが」と話を戻した。
「かけられてるのは〈目隠し魔法〉は基本的な範囲だけだ。元から知り合いだったならある程度すぐ破れるくらいの」
「つまり、それ以外が対象ってことか」
トムに頷き返したアドルフは、周囲へ素早く視線を走らせた。相手の目を見て話しをするアドルフには珍しい行為だった。
「昨日から妙な臭いがするんだ。臭いがしない臭いだ」
「臭いがしない臭い?」
「距離が近くないからか、もしくは相手の方が格上のどちらかだな。距離の問題なら町に入れば俺か親父が分かるだろうが、過信はよくないだろう」
もし仮にアドルフや彼の父親、そしてネイよりも相手の方が魔力や技術が上回るならば、かなり分が悪い。ガルニーで本格的な対戦能力があるのは彼らだけだからだ。
トム達の世代はいくら幼少期から鍛えられて能力値が高くとも、小さな町で戦いに身を投じたことは当然なかった。
「親父さんは何も?」
「ああ。相手の人数や種族が分からない以上、何か起こったときに見つからないようにしたんだと考えてる」
「……近くで何か事件があったとも聞かないし、そもそもこの町を狙う理由がないと思うんだけど」
ガルニーは小さい平和な町だ。人々はこどもから大人まで仲が良いし、寛容だ。あまり人前に出たがらないのはネイくらいだった。
(そういえば、帰ったらお礼言わないと)
人付き合いが苦手なのに、父が失踪してからずっと気にかけてくれている優しい隣人を思い浮かべたとき、アドルフが言った。
「ネイおじさんは、お前に〈
〈隠の魔術〉は、〈目隠し魔法〉から魔力を追加することによって変質した上位魔術だ。
「え、でもさっき〈目隠し魔法〉だって」
「言ったな。──聞かれてたんだ」
アドルフの声が一段低くなったようにトムには聞こえた。
「聞かれてたって、誰に」
「臭いがしない臭いの奴ら」
「……奴らって」
「少なくとも五人はいる。聞かれてたが、全部は聞かせなかった」
そうか、とトムは気が付いた。
(視線を走らせたのは、そのためだったんだ)
それならばアドルフらしくない行為に説明がつく。
「言っておくが、周囲を見たのはわざとだからな」
「ええ? 今『そうだったのか』って思ったところだったのに」
「詰めが甘いと見せかけるのも一つの手だろ」
「そうだけどさぁ」
拗ねるトムにアドルフは「ごめんな」と困ったように笑い、「でも必要なことだったんだ」と続けた。
「うん、分かってるよ。俺も謝らせちゃって」
「トムは謝る必要ない」
いやにはっきりとアドルフが言った。
「……ネイおじさんはトムに〈隠の魔術〉をかけてるが、それだけじゃない。その外側に〈幻覚魔法〉を一つと〈目隠し魔法〉を二つかけてる」
トムはなぜか。
「〈目隠し魔法〉を二重にかけるのは、魔術が不得手な人がよく使う手法だから理解できる」
なぜか、そのとき。
「けどな、〈幻覚魔法〉で姿や声、臭いさえも変えるのはなんでだ? そもそも〈隠の魔術〉をかけたうえで、それを気付かれないようにするのは?」
父がいなくなった広い家を思い出した。
「ネイおじさんはトムを大切にしてくれているが、それだけじゃこの飛び抜けた厳重さはどうにも違和感がある」
父が大切にしていたバラが咲き誇る庭。
「だからおそらく──」
手折られたバラが、光の粒になり。
「──トムが狙われてるんだ」
大きく開いた口に、飲み込まれていった。
ロサ・ローズ 鴨羽 梅 @kamoume_453
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