後 章 未来へと
第四話 聖櫃の中の詩乃
二〇一一年十二月十一日、日曜日
翔子先生に愛の告白?をして、一週間後、先生から連絡を頂き、俺の思いが叶った。翔子先生は研究所がある現地に向かう前の話しをしたいとの事で、明日夕方会えないかと尋ねてきた。勿論、俺がそれにこたえない訳ない。
「それでは、慎治君。明日の午後六時半に紅茶専門店・花水木でお会いいたしましょう。皇女おばさまにもお話しする事を忘れぬようお願いいたします。では・・・」
翔子先生は丁寧な口調で言い終えると、俺の返答を待ってから電話を切った様だ。まったく、貴斗の姉貴はあんなにも言葉遣いとか気を使っているみたいなのにその弟だった奴はそっけなかったな・・・。しかし、そんな愚痴をこぼしても、愚痴られた相手はもう何も俺に語りかけてくれない。俺は自室の電話子機を握ったまま小さな溜息を一つ、してから天井を眺め、目だけを机の上に向けて、そこに置かれているあいつ等の写真を眺めていた。
「しんおにいちゃん、ごはんのじゅんびできたよぉ~~~」
扉の向こうから聞こえてくる右京の声に導かれ、俺は妹と一緒に食堂へ向かった。
二〇一一年十二月十二日、月曜日・紅茶専門店花水木
俺は前日、翔子先生に言われた通り、母さんへ先生とどういった理由で会うのか伝えていた。その話を聞いた母さんは暫らく思い詰めた表情を造り黙り続けていた。どれだけの時間がたったのか覚えていないけど、最後に何かを諦めきった顔になり、大きくため息を俺に見せつけながら、一緒に来てくれると云う頷きをしてくれた。
時間通り、その店に着くと既に中には翔子先生の姿、俺の目に認識できた。近寄って来た店員に俺は待ち合わせの人がいるからと言って、先生の方へ近づく。
「翔子さん、遅れてすみません」
「しょぉ~~~ちゃん、おこんばんは???あららら、しょぉ~君もごいっしょだったのですか?」
「皇女おばさま、おこんばんわです」
「お久しぶりです。八神さん、それと慎治くんでしたね」
「子供達が度々、ご迷惑をおかけしていると思いますがすみませんでした」
「そんな事はないですよ、可愛い後輩達ですから、迷惑掛けられたってそうは思っちゃない」
「まぁ~~~たそんなこと言っちゃって、しんちゃんは」
母さんは嬉しそうに微笑みながら、結城兄妹の親父さんの前の席に座った。そうなると、自然に俺の正面は先生になる。
「慎治君、紅茶はお好みになられないかもしれませんが、たまには嗜好を変えてみては如何でしょう」と言って、店のお品書きを俺の目が字の読める方向にして、差し出して呉れた。そんな先生の小さな気遣いがうれしくて、メニューをじっくり読んでしまっていた。
「じゃぁこの二十七番のセットにしようかな」
「おばさまはどうなされます?」
「皇女はアルグレとシフォンちゃんにしちゃいましょ」
母さんと俺の注文を聞き終えた翔子先生は店員を呼び、俺達が言った物を代わりに伝えてくれる。
「翔子さん、ちなみに、どうして、将臣君達のお父さんが同席しているんですか?」
「ええ、それは将嗣様でしか、扱えない機材が多いからです」
っていってから、母さんも同席させた理由も教えてくれる。藤宮の叔母さんを眠らせている装置から起こし、体調に異常を来たした時のその対応を母さんに任せるって訳だ。
それから藤原グループが持つ医療研究所へ向かう為の日程決めや現地へ向かった際の段取りを始めた。
紅茶とそれと一緒にくっついてきたケーキを口に運びながら、唯聞いているだけの俺。それから日程が決り、他に誰を連れていくか、どうかを考えている頃に、ありえないくらい偶然か?それとも俺を尾行してきたのだろうか?あ奴等が姿を現した!そして、その中の一人が口にした最初の言葉は、
「しぃ~~~んじっさん、何を企んでいるんですかぁ~~~」と三人組の一人、翠ちゃんが何か悪だくみをしている風な表情で近寄って来た。
「親父、何やってんだよ、こんな処で。皇女先生。それとしょうこせぇ・・・、うんくぅゃぁ、翔子さんこんばんは」と俺と似たような言葉の突っかかりで翔子先生へ挨拶をする将臣君。彼の場合、俺の時と違って三年間授業を受けていたようだし、一年、三年と二度、翔子先生が担任をしていたから、俺以上に翔子さんを『先生』と口にしてしまうだろう。
そんな、将臣君から顔を背けて小さく笑っていると先生に小突かれた。
「皇女先生、翔子お姉様、こんばんわです」
弥生ちゃんも家の母さんと翔子先生へは丁寧に挨拶を口にするが、どうしてか彼女の父親の将嗣さんへは厳しい視線を向けていた。俺が彼女達兄妹へお願いした事で、何か確執が出来てしまったのだろうか?そうなら、それは俺に責任がある。後で、将臣君に聞いて、俺の出来る事はしよう。
三人が目上の人達へ挨拶を終えた頃、俺は敢えて皮肉を口にした。
「お前等の嗅覚は犬以上だな、まったく」
「褒めても、何も出ませんよぉ、慎治さん、どんな密談をしていたんですか?正直に吐き出して下さい」
やっぱり、翠ちゃんはそれを小さく笑った顔で受け流して、彼女の心、行くが儘の言葉を出していた。所謂我儘ってやつな。今さら、彼女達へ隠してもしょうがないからはっきりと言ってやるさ。
「ちょっくらシンガポールまで行ってくるための段取りさ。言っておくが、連れて行けって言ったって今回ばっかりはどんなに我儘振りまいても駄目だからな」
何故か俺の返答に翠ちゃんは胸を張って余裕の表情を造っていた。一体彼女は何を考えているんだ?少しくらい眉を顰めると、彼女は一枚の写真を取り出し、ある人物の名を告げた。それは・・・。
「もしかしてぇ、慎治さんがシンガポールに行く理由はこの人に関係あるのかなぁ、源太陽さんだったかな?」
俺は彼女の見せてくれた写真とその人物の名に内心ひんやりと汗を掻き、どうして、彼女がその名前を知ったのか疑問を感じずにはいられなかった。もしや、俺にあの難解な暗号文を送って来たR1って奴が翠ちゃんへも知らせたのか?しかし、あれを解読するのは彼女でも、将臣君でもできなさそうだし、知った処で俺は名前しか知らない相手を彼女は写真を出して、示してきたのだ。
写真の中には若い頃の母さんや将嗣さんが写っているし、母さん達の表情を見る限り、翠ちゃんが出した写真は偽りの物じゃない。一体どこからそんな情報を得たのか不思議でしょうがないが、今は話を進めてしまおう。
「余計な事に首を突っ込まないでくれってお願いしたじゃないかっ!いつ何時、どこに危険が転がっているか分からないだ」
「一緒させてくれないと、私達もっと危険に足を突っ込んじゃいますよ。それを止められるのは慎治さんの判断にかかっているんですけどねぇ」
俺は翠ちゃんの言葉に噎せ返り、飲んでいた紅茶を吹き出しそうになるし、彼女親友、弥生ちゃんは呆れた顔を造り、彼氏は頭を抱えていた。
「翠ちゃんなぁ、俺を脅す気か?」
「はい、シンちゃんの負けです。将嗣ちゃん、いいですわよね、将臣ちゃんと、弥生ちゃん、翠ちゃん達をお連れしても」
母さんが場を収集してくれるが相変わらず状況が判っているのか笑顔を崩さず呑気にそんな事をほざく。しかし、誰ひとり家の母さんへ否定する言葉を出さない・・・、何故に?
「・・・、仕方があるまい。行って何になるとは思えぬが」
「翠ちゃん、弥生ちゃん、それと将臣君も遊びに行くのではない事をしっかりと認識して下さいまし」
「そりゃぁ、引率の翔子先生がちゃんと監督しなきゃならない事っすよ」
「遊びじゃねぇンだぞ、まったく・・・」
こいつら遠足気分だ、絶対に。俺はまた心内で大きなため息を何度も、そう何度も吐いた。よく貴斗は今後輩たちを相手していて耐えられたものだな・・・。
それから五日後の17日、土曜日の早朝、成田からシンガポールへ飛ぶ、第一便に乗って現地へ向かった。俺達一行はシンガポールの国際空港チャンギへ到着する。飛行機が着陸し、ボーディング・ブリッジが取り付けられ、機内と空港を繋ぐ扉が開く。放送で降りても良い許可が流れると、翠ちゃん達は我先にと外へと向かった。そんな彼女達を見て、俺はまた小さくため息して、小さな手荷物を持って一行の最後を取った。
入国手続きを済ませ空港から外に出て、腕と体を伸ばしシンガポールの空気を吸った。アメリカに行った時もそうなんだけどな、どうして、異国の地の空気を吸うとこうも別の場所に来たんだって感じがするんだろう?土地によって多少汚れていたり、綺麗だったりの見た目の違いがあっても所詮は空気だってのにな。
深呼吸をしてから、適当に動き始めそうな俺の連れ達が全員居るか俺は目だけを動かし、確認していた。そして、また溜息。溜息が多すぎるのはこの際どうでもいいが・・・、当初、シンガポールへ来るのは翔子さんと俺、それと家の母さんと結城兄妹ん処の親父さんだけだった筈なのに、その結城兄妹と翠ちゃん、更に家の姉貴に愁先生まで、更に姉貴達が勤務している病院の院長の峰野義之って人と愁先生達の科の主任、志波京平って先生まで一緒だった。理由は簡単だった。アダム・アーム計画の当初から参加しており、今でも日本から研究支援をしていたからだった。更にずっと、今回はお世話に成りっぱなしの神無月焔先輩まで。神無月先輩は愁先生と仲良さそうに会話をしていた。
タクシー・バスのターミナルへ翔子先生の指示に従って、移動する。弥生ちゃんや翠ちゃん達を眺めているとまるでその光景は学生旅行の引率と学生を眺めている気分だった。
「慎治君、余り自分を詰めないでください。貴方には支えてくれる多くの方々がいるのですから、無論私もそうですよ」と俺にだけ聞こえる声で耳打つと、さわやかな笑みを造っていた。やっぱ、愁先生って格好がいいよな、見習いたいよ。
ターミナルまで来るとそこには俺たち全員がのってもまだ席がいくらか空きそうなマイクロバスが停っていた。翔子先生がそれに乗り込むように声を出す。
中に入り、奥のベンチ席の前、窓際に座りそこから望める景色を見始めるとその隣に翔子先生が座り掛けた。
「翔子、そこ、シンの隣の席は吾の物と決まっている。別の処へしてくれ」と然も当たり前の様に言ったのはもちろん内の姉貴で翔子先生は素直に明け渡すと思いきや、
「京ちゃん、わたくしには京ちゃんが何を申しているのか判りません。慎治君はわたくしの旦那様になる方です。その夫のお隣に居る事の何がいけないのでしょう」と言い、腰をおろしていた。
先生の言いに俺は驚いて窓に掛けていた腕の手に乗せていた顎を滑らせ、窓枠に頭をぶつけていた。
「ほぉ~~~、何時からシンと翔子がそんな仲になったと云うのだ?しかし、吾は認めぬ。仮令、汝が掛け替えのない吾が朋でも、吾の愛しき弟を呉れてやる訳には行かぬ。さあ、その場所を吾に明け渡せ」
姉貴は役者掛った語りかけで翔子先生へ威風を放っていた。翔子先生は全くそれに動じずに、
「たとえ、京ちゃんが慎治君の事をどれ程お大事に思っているのをわたくしが知っていましても、こればかりはお譲りしません」と睨み返す始末だ。
前の方に座る翠ちゃん、弥生ちゃん、将臣君は面白い物でも見るかのように二人を眺め、家の母さんも年配の病院の先生たちも、神無月先輩までも同じ様だった。まともそうなのは将嗣さんで二人の実子を叱り付け、愁先生に至ってはどうするべきか判断に困っている風の顔を造る。
友達の大切さを痛いほど知っている俺の所為で親友同士だった二人が啀み合うのは息苦しかった。
「翔子さんも、佐京姉貴も喧嘩しないでくれよな。姉貴が俺を大事にしてくれるのは嬉しいし、俺の事を認めてくれて親友の家の姉貴に対してそんな風に言い返して呉れるのも嬉しい。喧嘩するほど仲がいいって言葉はよく耳にするけどよ・・・、でもやっぱりやめてくれよ、そういうの・・・。心から判り合える友達がいるならもっと仲良くしてくれよ、俺の目の前ではな・・・、俺にはそう思える同い年の連中はもう居ないんだからよ・・・」
俺は人を感動させるような文句なんて一言も口にしたつもりはない。ただ、心の内を滑稽に曝け出しただけだった。
俺の言葉に二人は極まりが悪そうに小さく顔を紅くしていた。
「もっ、申し訳ございません。わっ、わたくしとした事が慎治君の事、何もお考えして上げられずの発言で」
「すっ、すまん、私とした事が、翔子の突拍子もない言葉を聞いた物だからつい」
「姉貴、愁義兄貴の隣に言った方がいいだろう?寂しがっているぜ」
そう言って、渋る様に愁先生の方へ去ってゆく姉貴の後姿を見て溜息をつく俺だった。姉貴が愁先生の隣に座った頃にバスが動き出した。
「先ほどは、本当に申し訳ございませんでした」と囁く様に呟く翔子先生は言って、俺の肘掛に乗せていた左腕の手の上にそっと先生の小さな手を重ね優しく握ってくれた。俺の掌上だったので握り返す事は出来なかったが小さくも温もりを感じる先生の手。先生をチラ見して、年甲斐もなく顔を紅くしてしまう俺は先生から大きく顔を背けてしまう。窓ガラスに写る先生。俺の仕草が可愛いとでも思ったんだろうか、先生の表情が嬉しそうににっこりとしていた。俺は余計に恥ずかしくなって顔を手で覆っていた。俺、こういうのに慣れていると思っていたんだけどな、そうでもないらしい。胸がむず痒い。
たったさっき窓に写った先生の表情を見て隼瀬以外に本気で俺は貴斗の姉に惚れてしまった?なっ、な訳ない。そんな訳ない。ただの動悸さ。ときめきで胸が高鳴るなんて、今の俺の歳でそんなことはあり得ない。無理やり自分の心に言い聞かせ、俺は冷静になろうと必死になっていた。ふぅ・・・。
「どうかなさいました、慎治君?」
「うん?余りにも翔子さんが可愛らしく、俺を笑うから見蕩れない様に煩悩を押さえているのさ」
「ほんと、慎治君は口が上手なのですから、そうやって、わたくしをからかわないでください・・・」
俺に返答に顔を仄かに紅く染める先生だった。
空港からフィズが持つシンガポールのネー・ソーン湖に畔にある研究所までは大凡三十キロで、一時間もすれば到着するらしい。
バスが移動している間、翔子先生は俺が好きそうな話題を進んで持ちかけてくれていた。才女らしく、先生の知識と経験は広く、先生が忙しい身でも欠かさずやっているゲームの話題とかをしてくれて、とても、大企業の社長とは思えない親近感を持てた。落ち着いたら一緒にゲームをしましょうとか・・・。情報の出所は予想できるけど先生は俺の事を多く知る努力をしてくれているのに、俺は先生を知らなさすぎた。もっと、俺も先生の事を理解して上げる努力をしよう・・・、全てが解決したのちにな・・・。
現地ではインスティテュート・オブ・ウィスタリア・フィールズ・メディカル・リサーチ・アンド・デヴェロップメント・オブ・ファーマシー・アンド・トリートメント(Institute-of-Wistaria-fields-medical-research-and-divelope-pharmacy-and-treatments)とやたら長い英語だからウィスタリア・ラボ、又はIWRD(アイ・ワード)って呼ばれているらしいし、日本語でも藤原医療科学薬学・医療機器研究開発研究所と長いので藤医研と略されていたそこへ、到着した。
想像以上に大きな研究所で『所』と云うよりも規模から見ると『施設』って言っても遜色がないように思えた。
幾つ物、棟がある一角の生命応用遺伝子工学研究棟と呼ばれる場所の玄関へ俺達の乗るバスが停車した。
中に入るとそこから先は結城将嗣さんが道案内をしてくれる事になった。建物の奥へ、奥へと移動する俺達一行。
移動している間、研究所って珍しい場所へ来たお陰で、色々な処に興味を持ってしまい、あっち見、こっち身をして挙動不審状態な俺。まあ、それは俺だけじゃなくて、将臣君達ンも同じだったから、気にしない事にする。
行き止まりに到達すると、そこには重厚で大きな両側に開きそうな扉が俺達の行く手を遮っていた。将嗣さんが非接触型ICカードを翳して、複数の生体認証と暗証番号を打ち込むと、目の前の扉が開いてゆく。一枚目、二枚目、三枚目。三重扉だったようだ。三枚目は五センチ以上ありそうな分厚い硝子戸。それが重々しそうではなく、静かに滑らかに両側に移動していた。
そして、そこで俺達の目にした物は・・・???
「目の前が真っ暗なんですけど」
おかしい。硝子戸が開こうとした時には薄暗かったけど弱い光が灯っていた筈なのに今はマジで真っ暗闇になっていた。更に、何か、俺の目の辺り付近に人肌を感じる。
「将臣も見ちゃだめですぅっ!」と、そういう事か、俺の目を塞いだ者がいる。俺の視界を塞ぐその手に触れて、退け様とするけど、
「絶対に見てはだめです、慎治君」
「見るのを邪魔してんのは翔子先生かよっ!」
「駄目っ!」
俺が口に出して、先生って言うから、翔子先生の手に余計に力がこもって目が抉れそうになる。
「いでっいでででぇぇででぇ」
「いったいっすよ。佐京姉貴何とかしてくれ」
「それは聞けぬ相談だな、シンよ」
「佐京、私の視界を遮らないでほしいのですが」と愁先生も何故か、姉貴に視界を奪われているようだった。しかし、何故に?
俺は何とか、先生の手から逃れようと必死になってもがき、遂に俺は勝利し、視界を取り戻した。そして、・・・。
俺は何を見ている?
大きな水槽。そこに満たされる今まで見た事がある様で、ない様な綺麗な蒼?それとも碧?紫にも見えなくない、俺が知っている色の言葉で言うとスペクトラム・ブルーに近かった。秘奥的な蒼を放つ、その液体に包まれるように浮遊?むしろ、飛翔し様とする様に漂っている足首まで伸びた髪を持つ、女性が佇んでいた。
嘗て、俺は藤宮と最後に会ったあのFRCビルの屋上での月光に照らされ、ヴァイオリンを弾いている彼女を見て、その美しさから、その可憐さから、月の女神と巡り会ったと勘違いするほどだった。しかし、藤宮の叔母、藤宮詩乃さんは・・・。
その姿は余りにも美しくも、佳麗でいて厳かである筈なのに慈愛に満ちている表情で神々しく、どのような美辞麗句で飾っても嘘ではないし、足りないくらいの神聖さを包括していた。まるで、俺は本当に女神と出会った気分にすらなった。美しさの代名詞、ミロのヴィーナス?てんで比較になりゃしない。慈愛の聖母マリア?なんだよそれって感じだ、目の前のこの存在を見てしまうとな。女神と言う言葉がただの絵空事の単語じゃないって実感した瞬間だった。それほど強い印象を受けた。
水槽の中の液体の色の輝きに包まれている所為か、その人を覆う硝子の筺体の放つ、光の屈折の為か、藤宮詩乃さんは神秘的な姿を俺達に見せ続けていた。
目の前に降臨する女神は裸体であると云うのに俺は理性を保ち続けているし、俺の下腹部の分身は冷静に頭を垂れていた。頭を上げる事は無礼極まりないと云うほどに押し黙っていて、立ち上がろうとする気配がない。その人の放つ霊妙さが本能を上回る理性を働かせ、俺を平常とさせてくれていた。
長い時間、時が流れているのを忘れてしまう程、俺は一言も出せずに茫然と水槽?そんな入れ物の単語はその人に似合わない。聖櫃の中に浮かぶ、藤宮詩乃さんを眺めていた。
ああ、あれで家の母さんと同い年くらいだって?母さんは若作りな方だと、周囲も俺も思っているけど、目の前の存在は有り得ない。翔子先生だって年齢よりも若く見られるが目の前のその人は次元が違うように思えた。だって、五十を超えている藤宮詩乃さん、どう見ても、少女から大人の女性になったばかり位の年齢に見えるんだぜ。
俺も、愁先生も、将臣君も、それぞれの相方の必死な抵抗から逃れ、目の前の女神に将に釘付けとなっていた。
俺達の詩乃さんを眺める行為を停めたのは結城将嗣さんだった。
「彼女、詩乃さんは見せものではないのですよ。君達、そろそろいいですかな?翔子さん」
俺は知らない、結城兄妹の父親はここに中に居る、誰よりも彼女、藤宮詩乃さんをその場所から早く出してやりたいと思っていた人物の一人だった事を。
「はい、わかっております」
翔子先生は小さな鞄から先ほど将嗣さんが扉を開けるときに使用したのと同じ非接触ICカードを取り出し、聖櫃の隣のパソコンに近づき、その場にあった椅子に座る。リーダーにそれをかざし、生体認証を行った後に暗証記号をキーボードで打ち込んだ。翔子先生と将嗣さん以外はそこに近寄ってはならないらしく、更に硝子壁一枚向こうの二人を見守る事しか出来なかった。
「将嗣様、こちらの中から、どれを選べばよろしいのでしょう」
「一番目の、プロジェクト・クローズを選んでください」
「これでよろしいですね」
「次にクローズ・ドナー・システムを」
いつの間にかに目の前の硝子にスモークが掛っていて、中の様子が窺えなくなっていた。
残念だが仕方がない、待つしかないな。俺は心で言って時計を眺めた。それから、三十分後に、
「皇女おばさま、京ちゃん、志波様ではございませんよ、それに峰野様もお手をお貸しください」
「おい、おい、翔子さん、俺は除け者なのかい?」と言うのは志波京平さんで、
「私にお手伝いできる事はないのでしょうか、翔子さん」と言うのは愁先生だった。
だが、その二人に対して、翔子先生の態度は子供っぽく、恍ける風にそっぽを向く。
「慎治君、何故、翔子さんは私へあのような態度をとるのでしょう」
「決まってんだろう、義兄貴に家の姉貴を取られたからだよ」
「翔子さんに限ってその様な狭量な事はないと思いますが」
愁先生の言葉に苦い笑いを造ってこたえる以外、俺には出来なかった。
それから暫らく俺達は待つだけ。見えなくなった硝子壁向こうで何が行われているのか判らないけど、不幸な事だけは起こっていて欲しくない。
待つ事しか出来なくなった愁先生の上司の志波京平さんは壁を眺めながら大きなため息をついて、
「あいつが、生きているうちに詩乃をここから出してやりたかったな・・・」と語っていた。将臣君、弥生ちゃん、翠ちゃんはそれぞれ会話を交える事なく、ずっと何かを考えている見たいだな。
しかし、どうして、こんなにも時間がかかるんだろうか?蓋開けて詩乃さんを出すだけだろうに。
向こうが見えない俺には見る事が出来ない不可思議な現象を母さん達は目の当たりしているのだった。
硝子壁の内側
藤原翔子が結城将嗣の指示で聖櫃を開く手順を進め、培養槽の保存液が全て抜かれ、匣の前面が複雑な機械の動きで開き、藤宮詩乃が外気に触れた時の事だった。彼女の体の一部がゆっくりと隆起し、数分後にはまるで妊婦の様な腹をする詩乃を見る二人に示していた。しかし、彼女の容姿に変化はなかった。彼女の周りの時間だけが、急速に流れ、翔子達の重ねた分だけの時間が流れた訳でもなく、若さは保ったままだった。変化の有ったのは腹部のみ。それを見て、どう対処していいのか判らず狼狽える将嗣へ、翔子は、
「将嗣様、お慌てにならないでください」と言って、硝子壁の方へ歩み出すと彼女は皇女達を呼んだのだった。呼ばれた三人の判断は共通で、詩乃が産気づいたのだと云う。分娩に必要な機材を裏の搬入口から手配し、出産の準備を始めた。
今まで意識のなかった詩乃が急に苦しみ出す。そんな彼女に言葉を掛け、手を握るのは皇女だった。
「詩乃ちゃん、頑張ってください。ずっと長い間、お預けになってしまったままの貴女の願い。母親になれるのですよ。これから貴女の子との未来を想像してごらんなさい。とても素晴らしい物が見えたでしょう?ですから、今はこの苦しみに耐えて下さい」
皇女が手を握る詩乃の手。初めは皇女だけが握っているだけで、詩乃が握り返す事はなかったが、皇女の言葉が彼女を現実の世界へ引き寄せていた。
聖櫃の扉が開き彼女が外の世界に触れてから一時間弱。彼女の胎内から産み落とされた二人の赤子。その赤子の双方の産声で詩乃は目を覚ましたのだ。
「みこちゃん?ヨッシー先生?」
きょとんとした表情で二人を見る詩乃。彼女は今どんな状況なのか把握していなかったが、
「おはよう、詩乃ちゃん」と皇女が言葉を掛けた時に、彼女の中に三十年もの歳月分の彼女の遺伝子を持つ端末、アダム・アームの子たちから彼女が聖櫃の中に閉じ込められている間の送られていた知識が現実と眠っていた間の空白を埋める。
「私の所為で迷惑をかけちゃっていたみたいなのね、皇女ちゃん」
詩乃の問いに皇女は横に貌をゆっくりと振り、彼女の言葉を否定した。そして、皇女が抱いていた赤子を彼女へと差し出すと、
「詩乃ちゃん、この子、あなたと誰の子であるか判りますね」
皇女は詩乃と誰の子供であるか判っている様な口調で当たり前のように訊ねていた。
「はい・・・、そして、私がここから出る理由も判ります」
「御免なさいね。家の息子の我儘なの・・・」と今度は皇女の言いを打ち消す様に顔を横に振る。
「美鈴ちゃんや、私の願いが間違っていたとは思いませんけど・・・、結果が全てなのです。私の思い上がりが彼を苦しめてしまっていたのは事実。どんなに願っても、過去に戻って償う事はできません。だから、せめて今私が出来る事をしたい。させて欲しいの・・・、皇女ちゃんの子供が私の命を差し出せって言えば、それに応えるわ」
詩乃はそう言って、抱き寄せた自分の子供を見つめ、その子の頬を撫でていた。
「大丈夫よ、家のシンちゃんはそんなこと言う子じゃないわ。シンちゃんは私達が想像もつかない答えを皇女達へ見せてくれると思うの」
「随分とご自慢になるのね、皇女ちゃん」
「ええ、だって皇女の誇りの息子ですもの」と笑みを絶やさない皇女の顔が余計に笑顔になっていた。
それから、普段服に着替え、まだ名もなき赤ん坊にも服を着せ、皇女達は慎治達の処へ戻ったのだった。
母さんから、全部の事情を聞いた。信じがたい事だが、目の前の事実を覆せる言葉はない。間近で見る藤宮詩乃さんはやっぱり藤宮の血縁なのだろう、藤宮に似ていた。俺は最強のカードを二枚も手に入れたような気分になった。
俺は通路を移動している間に、気付かれない様に一行の輪から抜けだし、ある部屋を目指していた。入って来る時に回りをきょろきょろして捜していた部屋。場所は覚えているから間違わずに行けるだろう。その場所とはライブラリー。こういう研究所では資料室を指す場所。そこにある資料を見ればもっとアダムについてわかるんじゃないかって思っていた。
普通に翔子先生へ見せてとお願いしても彼女を含めて部外者には見せられないとか言われそうだから、こっそりと忍び込む。
目的の場所へ辿り着くと、俺は前もって場所を特定していた為に何が必要かも知っていた。さっき将嗣さんからくすねていた非接触ICカード。暗証番号は判らないけど、流石に資料室にはそこまではしないだろうって思って対策は考えていない。しかし、こういう時の俺の運は強かった。試す為にそれを翳す。
「ほら見ろ」と自画自賛して、中の様子を伺い、誰も居ない事を確認すると不審者気分で侵入した。当たりだ。部屋の造りは大きくないが研究資料が棚に並んでいた。何も考えずに、適当にバインダーを取り出し閲覧しようとした時に、
「貴方はこのような処で一体何を見つけようとしているのです、慎治君」
「なにか、私に黙って面白いたくらみでも?」
くそっ、なんでばれたんだろう、しかも厄介な二人に。
「ちっ、見つかっちまった。でも、なんでわかったんすか、義兄貴。神無月先輩」
「私もお兄さんと呼ばれたいですね、八神君。いいえ、私も慎治君と呼ばせてもらいましょう」
受け答えしてくれたのは神無月先輩の方で、愁先生は俺が先に来たのにも拘らず、俺よりも先にその部屋の資料に目を通し始め、真剣な表情へ変わっていた。今作っている顔の先生へ話をしても応えてくれない事は知っているので俺も神無月先輩に事情を話しながら手にしていた物を読み始める・・・。手に取っていた資料が俺の欲しがっていたものだった。一発で引き当てていた。俺って、ここぞって時に運がいい。だけど・・・、あの時だけは、あの時だけはそれが発揮されなかった。俺の心が俯きかけになっちまいそうなところを無理やり耐えてバインダーの中身を捲って情報を読み取った。
それを見て、事件の関連性の様なものが頭の中に駆け巡る。そして、俺は驚愕的な事実をその資料で発見してしまった。その所為でその顔のまま、愁先生を見てしまっていた。
「どうかなさいました?慎治君」
ぶるぶるぶると大げさに顔を振ってしまいながら何でもないって否定して、
「ふっ、そうですか。ならいいのですが」
先生は何かを悟った風に溜息を吐き、俺の心の内を言及してこなかった。
それから必要な情報を手に入れた俺は先輩と先生にお願いして、迷子になっている処を発見して連れ帰ったって事にして貰った。
目的を達した俺は直ぐにでも日本へ帰って片を付けたかったけど、また、翠ちゃん達の我儘で三日ほどシンガポール、マレーシアの首都クアラ・ルンプールを観光することになってしまった。
その観光中にまた、目を疑う様な出来事が起こる。それは藤宮の叔母さんの赤ん坊の成長速度が人離れしていたからだった。
日本時間の十二月二十一日に帰国をした。成田空港を降り立った頃は小学生前くらい五、六歳までの大きさになっていたんだよ。驚かずにはいられない。驚いたのはそれだけじゃない・・・、似ている。俺の記憶の中の写真で見た事のある友人だった藤宮の幼少の頃に。その姿を知っている筈の人達が何人もいた筈なのに誰ひとり、その事に触れはしなかった。
双子の少女達の名前は姉が詩珠華(しずか)、妹が美織(みお)。母さんの話によると藤宮の家系は女子が生まれた場合は必ず、詩や織を、男子なら音を意味する言葉を名前の一部に入れる仕来りがあると教えてくれた。何故、母さんがそんな他の家の事を知っているのか、それほど、家と藤宮家は俺が知らない処で繋がっていたと云うのを理解した。ただ、本来なら女系譜で家の裏ごとを男は一切触れられない。その一部を俺は知ってしまっている。まあ、そんな事は今回の話には関係ないから、それ以上触れないけど・・・。
帰国したその日、俺と母さんの二人きりになった時に俺は母さんに少しばかり怒りをぶつけてしまっていた。
「母さんっ、母さんがあいつを助けなかったら・・・。判るけど、母さんがやった事が間違いじゃないってわかっちゃいるけど。医者の前では全ての命が平等だって、医者なら当然の行いだって理解しちゃいるけどよっ!母さんの所為で、俺の親友達が、貴斗や宏之達がっ、藤宮や隼瀬達がっ!涼崎が。どうして、どうして、あいつ等がたった一人の人間にその命を奪われなくちゃならなかったんだよっ!」
俺は声を張り上げた訳じゃない。両手の拳を強く握りしめ、重々しい口調で母さんへ言葉を放っていた。
その男とはR‐1って人物からの怪文にも上がっていた人物、大河内星名で本当は源太陽と言う黒幕。その男は死んではいなかった。彼がどんな人物なのか調べれば、調べるほど、知れば、知るほど人として尊敬に値する人物が何故、俺の親友達を亡き者にしたのか正直、理解の範疇を超えていた。
いや、本当は判っているんだ人間がだれしも持つであろう感情。嫉みや、憎しみ。
藤宮詩乃さんって人を知れば、それをたとえ本人の意志といえど彼女を研究素体に奪われた源太陽の情動も、考えられなくないけど、それでもやっぱり、溜飲が込み上げてくるほど胸糞悪い。そして、その研究の一端に八神皇女、家の母さんが携わっていて、その男の命を救ったのも母さんだった。
俺の親友達を亡くすその起点の一つに家の母さんがいただなんて、俺はどんな気持ちで貴斗等に向き合えばいいんだっ!
「ごめんなさい、シンちゃん、皇女は・・・」
「なんで、こんな時ばっかりそんな顔して謝んだよっ!何時も通り、ふてぶてしく笑っていてくれりゃいいのに、ずるいよな、母さんは」
母さんの返答が俺の思っていたのと違い悔しくて、背を向けて俺は泣きそうになってしまう。でも、俺は堪え、
「母さんが当時、母さんの意志で行動した様に。俺も、俺のやりたいようにやるけど、文句は言わせないからな。ただ、それが言いたかっただけさ・・・」と言って、俺は台所から自室へ向かった。
廊下に出ると何故、俺が母さんを怒っていたのか理解しがたい風にきょとんとしている右京の頭を二、三度軽くたたき、階段を上って行った。
階段をのぼりながら、
『俺に出来る事はもう判っているよな?これ以上の災禍を拡げない事。この物語に終止符を打つ事だ』
翌日の二十二日、俺は翔子さんと一緒に今、大河内星名と名乗っている人物に会おうと思っていた。しかし、その人物は二十四日まで戻らないとの事で丸二日、久しぶりに喫茶店トマトで仕事をした。
二十三日に店長の夏美ちゃんへ正式に辞める事を伝えると本気で泣かれてしまい。辞めないでと駄々を捏ねられてしまうが、もう俺の進むべき道が見つかってしまった以上、夏美ちゃんがどんなに願っても叶えてやれない。
俺ももっと自分にも他人にも厳しくなれたら、女の子の泣き顔に胸を苦しくさせる事はないんだろうけど、俺には無理っぽいな。
その後、ムフフな展開になりそうになるけど、俺は据膳を食わないで、男の恥さらしをしたまま、彼女と別れた。
勿体ない事をしたと思うけど、夏美ちゃんは隼瀬の従姉妹だ。そんな彼女に気もないのに手を出したら、隼瀬から呪いを受けそうだから出来る筈がない。
二〇一一年十二月二十三日、金曜日
調川愁が昨日の八神慎治とその母、皇女の言い争いの様なものを見て、慎治に見せてあげたいと言った一本のビデオ・テープがあった。皇女は何時だって生命の尊さを実感し、それが何らかの形で阻害された時に必死に救おうとしていた。そんな彼女の仕事の一端が納められた映像だった。そして、それは慎治に関係する人物達との繋がりの深さを示すものでもあったのだ。
慎治は医師、調川愁と共に親友だった貴斗と宏之、その二人の幼少時の移植手術の録画記録を眺めていた。消え去りそうな命が八神皇女の手により、再び紡がれる神秘の術に魅入り驚嘆する。
慎治は流れる映像を網膜に焼きつけながら母親の外科医としての天賦を垣間見、思う。どうして、今は外科医を退き、精神科医の未知(道)へ踏み込んだのかと。
「判るでしょう、慎治君。皇女お義母様がアダム技術を用いなければ貴方の親友達二人は助からなかった事を。慎治君とその関係にもなれなかった事を・・・」
愁先生の言葉に返したかった。でも、そうしても、何も解決はしない。確かに先生の言った通り、母さんが二人を助けなかったら俺達は巡り会って親友になれなかったかもしれない。でも、この一連の首謀者が母さんによって救われなかったら、貴斗も宏之も事故に遭う事もなかったろうし、アダムの世話にだってならなかっただろう。俺達が出会う未来はなくとも、二人が生きて今もどこかで笑っている未来だってあったんだ・・・。でも、どんなに願っても、俺の親友達は戻ってこない。そして、俺の進む道に後戻りも出来ない。
二〇一一年十二月二十四日、土曜日
俺は目覚め前、はっきりと意識が出来る夢を見ていた?
俺の正面にはアイツがいた。でも、姿がはっきりと見えるのに輪郭もちゃんとしているのに口から上の表情が判らない。だけど、幽かに頬を緩め俺へ笑いかけている風に見えた。莫迦にしている方の笑いじゃない。そいつに俺は、
「貴斗、お前の言いたい事、理解してやっているからな。俺は復讐なんて考えていない」
俺がその言葉を吐いている間、貴斗以外の影が順々に姿を見せていた。藤宮、宏之、涼崎、隼瀬が。誰もが俺に向ける表情に負の感情はこもっていなかった。
「お前たちだれもが、復讐なんてん望んじゃないのは知っているさ。ただ、俺はこれ以上不幸になる奴が出ない様にするだけ。止まっちまった皆の心の時計を回すだけさ。でいいんだろう、貴斗?藤宮?」
「ああ・・・」
なんと、ヤツから返事が戻って来た。ただ、俺の独り言を聞いているだけだと思っていたのに、貴斗が返事を呉れたんだ。
「八神君、わたくしの心残りを解いてくださり、ありがとうございました」
「とうぜんよ、詩織ちゃんがわたしにひどいことするわけがないもん」
「慎治、何時も俺達の事を優先してくれてありがとな。そんなお前に俺は何も返せなかったけど」
「慎治、慎治の想いに応えられなくて、御免って思っているけど」
「これからも、ずっと俺達『私達』は、貴方『お前』が進む道と共に」
親友等の声が重なって俺へ届いた。言葉の後、皆が煙、霞の様に消えて行く。そして、最後に残ったのは貴斗で、
「どんな時でも俺がお前を守る。だから、突き進め。お前の望みへ・・・、それと本当は寂しがりやでちょっぴり我儘な姉さんを・・・、大切にしてくれると有り難い・・・」
そんなセリフを吐いてからニヒルな笑いで俺の目の前から消えて行く貴斗。臭い台詞を吐いているってのにアイツが言うと違和感がない。もう見えなくなっちまったそいつへ、
「何で知ってんだよ、あっちに居るお前がよ。へっ、判ってる、くそったれが・・・、それと皆有難う。勇気を呉れて・・・。俺はもう狼狽えも、躊躇いもしない。俺には何時も心強い味方が、仲間がいてくれるんだってのを知ったからな。あの世でも、現実でも」
カーテンの隙間から流れ込む冬の冷たい日差し。しかし、俺はその冷たさが温かく感じられた。俺は目覚める。手が自然と顔に伸びていた。頬を触れる手の感触に湿り気があった。俺は泣いているのか?仮令、夢の中ででも、あいつ等と会えて、少しだけでも、会話ができた事が嬉しくて、感傷的になって泣いていたのか?もう三十に手が届きそうな俺なのにな・・・・。
俺は天井を眺め、小さくため息を漏らし、顔を下へ降ろす。確り目覚める為に腕を伸ばそうとした時に俺の部屋の扉が開き、
「シンお兄ちゃんっ!何時までおねんねぇしてるのぉ~っ、翔ちゃんお姉ちゃんもうきてるんだよっ」
「たくっ、右京っ!何度言わせれば判るんだ?朝、男の部屋に勝手に入って来んなって言ってるだろうが?」
「どうしてなの、シンお兄ちゃん?」
不思議そうにそういう右京に俺は自分の顔を覆う。そして、まだ、俺はベッドから降りても居ないってのに新たな刺客が。
「慎治君、何時まで寝ておられるのですか?約束のお時間は疾うに過ぎてしまっていると言いますのに」
「翔子さんっ、勝手に入ってこないでくださいよっ!まだ着替えてもないってのに」
「何がいけないのでしょう?」
駄目だ、この人も、佐京姉貴同様、思考回路がずれている。男の朝は獰猛だ。そんな獣を閉じ込めている檻に飛び込んでくるとは命知らず目、フッ。俺は牙を剥き出し、爪を鋭くさせて、翔子さんへ襲いかかろうとした。
「シン、何時間で吾が親友を待たせているつもりだ?」
条件反射とはすばらしい。俺の牙と爪は一瞬にして、縮んでいった。
「今から着替えるから、出て言ってくれよ」
「判った。翔子、もう少し待ってはくれまいか、右京、下へ降りるぞ。シン喜べ、今日の朝食は翔子が作ってくれた物だぞ」
「はぁ~~~いっ。早く右京も、翔ちゃんお姉ちゃんのご飯食べたいの。だから、直ぐに降りてきてね」
「慎治君、下で待っておりますね」と言ってそれぞれ下へ降りて行った。
俺は二階にもある洗面所で顔を洗い、髭を剃って、歯磨きして、自室へ戻って家着に着替えて一階のダイニングへ向かった。
大家族ぶりだよ。家の家族五人プラス愁先生と翔子先生に何故か、神無月先輩が当たり前の様に座っていた。
翔子先生の腕は知っていた。朝から先生の手料理を食べられるなんて何とも幸せをかみしめつつ、温かい気持ちに包まれながらその時間を過ごす。
飯を食った後、再び歯を磨き、久しぶりに着るスーツに懐かしさを感じつつ、何故か心が引き締まる様な気分になっていた。
背広の持つその心が引き締まった様な気がする潜在能力は素晴らしいと思いつつ袖を通し、姿鏡で着崩れしていないか確かめた。
外に待たせている翔子先生の処へ急ぎ、先生が乗って来た車に乗り込んだ。
運転手つきの車って慣れてないから流石に緊張するな。
「慎治君」と先生に呼ばれたのでそちらを向くと、先生は俺のネクタイに手を伸ばし、
「確りしてください、慎治君らしくありませんよ。タイが曲がっておりますわ」と言って頬笑みながら俺の本当に曲がっていたのかと疑いつつも、先生の行動に照れてしまっていた。俺が乗り込んだ車には俺と翔子さんと運転手。
先生のプリンセスって車の裏を追って来る愁先生の車には先生と神無月先輩。その二台の車が名古屋へ向けて進路をとっていた。
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