後悔の先へ

戻りたい男



 そんなことがあるはずがない。スマートフォンを手にして頭を抱えた。


 大学生の頃の,あの感情は決して嘘ではない。結婚まで考え,一生大切にしようと心に誓ったのだ。卒業してからも,慣れない仕事に苦戦しながら何とか時間を作り,会いに行ったりもした。それでも,すぐには会えない距離で過ごすうちにお互いの気持ちを分かりあえなくなり,夏海とはうまくいかない日々が続いた。

それでも,彼女のことが好きだった。だから,魔が差しただけなのだ。おれがこと葉に手を出したのは。それなのに・・・・・・



子ども,出来てん



 美帆の言葉がこだまして,頭の中をぐるぐると駆け巡る。どうしてこんなことになってしまったのだ。どうしたらよいのかも分からない。相談する相手もいない。途方に暮れてインターネットの中に答えを求めていると,ある見出しが目に飛び込んできた。



怪しいばあさんに過去に連れて行ってもらった話



 普段なら,こんな見出しに目もくれない。でも,藁にすがりたいおれは「過去に戻れるなら,全てやり直せるのに」なんて淡い期待が一瞬よぎり,あり得ないとため息をつく。



過去に戻れるなんて,ありえない


おれが妊娠させたなんて,ありえない



 現実的ではないニュースと,ただ認めたくない事実を一緒くたにして吐き捨てる。うつろな目をしたまま,スマホを操作して,もう一度だけ例の見出しに目をやる。グラスの氷がからんと音を立てたのをきっかけに,おれは覚悟を決めた。


 騙されたってしょうがない。そもそもあり得ない話なんだ。そこで痛い目に遭ったとしても,天罰が下ったと言うことだ。一人部屋で閉じこもっているよりもよっぽどいい。

 そう自分に言い聞かせて,部屋着のまま財布をポケットに入れ,アパートを出た。




 あまりにも古い建物を目の前にして,足が止まる。

 ツタはびっしりと建物の側面を覆っていて,大した地震でなくても崩れるのではと心配になるほど,ところどころにひびが入っている。

 意を決して,アパートの階段を上る。心なしか,温度が低く感じる薄暗い通路をしばらく上ると,目的の部屋についた。



ここに,水晶を目の前にいた不思議なばあさんがいる



 アニメの世界観のような設定を思い浮かべたが,現実の状況として捉えることが出来ない。もしかしたら,中には屈強な体で,悪い薬を取り扱っている売人が舌なめずりをして待っているかもしれない。

 ありとあらゆる想像を膨らませながら,おそるおそるドアノブを回した。



「とって食いやしないよ」



 しわがれた声が奥から聞こえて,思わず声を挙げそうになる。目を凝らすと,頭の上で白髪を束ねたおばあさんが座っている。ジブリ映画で見たことのあるようなばあさんの前には,本当に水晶玉が置かれていた。 



「何しに来たんだい?」

「あの,ネットでここの情報を見てきました」

「戻りたい過去があるんだね。まあ,ここに来る連中はみんなそうさ」



 じゃあ聞くなよ,という言葉を飲み込んで,ゆっくりとおばあさんの方へと歩み寄る。部屋の中には,屈強な男はいないようだ。



「あの,本当なんですか」

「なにがだい?」

「過去に戻れるっていうのは。あり得ない話だと思うのですが」



 おばさんは品定めをするように下から上へとおれを見て,指で座るように合図した。

 木製の椅子に腰かけると,きしむ音が不気味に響いた。



「あり得ないと思いながらも,あんたはここに来た。冷やかしにしては青い顔をしているね」



 実は,と何から説明するべきか考えたが,そんな必要はないだろうと思い単刀直入に尋ねた。



「やり直したいんです。戻りたい過去があって,もし本当に戻れるというなら,過去に戻りたい」

「最初はみんな勘違いしてここに来るんだよ」



 かすれた声でおばあさんは言い放つ。そして,手元の湯飲みに手を伸ばし,喉を鳴らして二口飲んだ。中に入っているのが,普通の飲み物であることを願う。



「どういうことですか?」

「戻りたい過去があるなら,強く念じればいいさ」

「この水晶にですか?」

「水晶はただのお飾りだ。大事なのはあんたの心持さ。祈りと一緒でね」

「じゃあ,この水晶玉は関係ないと言うことですか?」

「そういうことさ」

「じゃあ,何のために?」

「雰囲気が出るじゃないか」



 「それ以外に何の理由がある」とでも言いたげなおばあさんの言葉を聞いて,圧迫感のある水晶玉を指さす手をそっと降ろす。

 訳が分からない,と混乱した頭を整理していると,質問に答えてもらっていないことに気付いた。



「勘違いってどういうことですか? 過去には戻れるんですよね」

「戻れる」

「じゃあ,それで満足です。具体的にはどうすればいいですか?」

「本当に満足なんだね?」



 意味ありげに言うおばあさんをじっと見つめる。その含み笑いに,ただならぬ気配を感じた。



「過去に戻ったら戻ってこれないとか?」

「テレビの見過ぎだね。それか相当参っているか」



 馬鹿にした物言いにムッとするが,ぐっとこらえる。



「過去に戻れる。そこでやり直したらいいさ。ただし,現実世界は何も変わらない。お前が過去にやったことの延長線上に今があるんだ。だから,この世界が変わるとは思ったらだめだよ」



 なるほど,とおばあさんが言いたいことを理解した。それと同時に浮かんだ疑問を口にする。



「過去の延長線上に今があるんですよね? じゃあ,過去を変えたら今も変わるはずです。極端な話,親の少年時代を失ったら,ぼくがここに存在しなくなりますよね」

「過去には戻れる。ただ,そこで起きたことはなかった事になるんだよ。これでいいかい?」



 なるほど。過去には戻れるが,現実世界に戻った時にはすべて元通りということが。



「分かったようだね。それでも過去に戻りたいかい?」



 おばあさんの問いに,喉をごくりと鳴らした。

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