星の数ほど
火照った頬を軽やかな夜風が撫でる。
閉店して暗くなった飲食店が増えた町並みを,二人で並んで歩く。
「美帆〜,あんた,もっと自分に自信を持ちなよ〜。私は美帆の幸せを心底願ってるんだからね〜」
ねっとりとしたこと葉の言葉が,暖かく私の体を包む。
結局,アルコールを摂取できない私に付き合ったのは最初の一杯だけで,今まで見たことのないようなペースでこと葉は酒を飲んだ。その間,「私は美帆に幸せになってほしいんだよ」という言葉を耳にヘルペスができるほど聞いた。
普段の私なら,ノンアルで酔っ払い相手に朝方まで付き合うなんて考えられないが,今日は不快感どころか,感謝の気持ちで満たされている。
「こと葉,ありがと」
「水くさいなあ〜。うちら,一生の仲じゃん」
言いながら千鳥足で抱きついてくること葉を,「危ないし,臭いからあっち行って」と冷たくあしらう。そうでもしないと,もう何度目かのここ数時間の自分の感情の浮き沈みに,心底恥じ入りそうだった。
「こと葉,ありがとね」
酔っ払いには聞こえない声で呟き,二人で明るい真夜中を歩いた。
部屋に戻り,ノンアルコールビールの缶を開ける。
普通のビール缶と違って,プルタブがほんの少しだけ軽くて,明るい音がした。
こと葉と別れてから,なんとなくこのまま眠れない気がして,コンビニに寄って飲み物とおつまみを買って帰ってきた。
最近のノンアルコールビールは美味い,とおじさんたちは言うけれど,やっぱりアルコールの入ったビールには敵わない。それでも,しばらくはアルコール飲料とはお別れだ。私は,私たちがこれから幸せになるために必要な我慢だ。そんなことを思いながらお腹をさすった。
居酒屋のメニューのようなおつまみをアテにして飲んでいるうちに,あっという間に一本目が空になった。
二本目のノンアルコールビールを飲みながら,不意に不安が波のように押し寄せてきた。
私はこのままやっていけるのだろうか
収入は? ノウハウは?
我が子だからって,本当に愛しきれるのか。虐待やネグレクトの悲しいニュースで溢れているのを知っているのに
本当に命を育てる覚悟はあるのか
覆いかぶさる不安の波に窒息しそうになる。ダメかもしれない。私には無理だ。
お腹をさすっている手の甲に,ぽとりとしずくが落ちる。
大丈夫,幸せになれるよ
呼吸が止まり,目には見えない何かに推し潰される直前に,こと葉の声が響いた。
分かってるよ。そう答える代わりに,三本目の缶に手を伸ばした。まだ二本目が空になっていないのに,何をやっているんだろう。でも誰かと乾杯したい気分だ。そんなことを考えていると,視界がぼやけてきた。目の前が明るくなり,ふわふわと,どこかに連れていかれるような感覚になる。目を閉じると,徐々に体の感覚が失われ,意識が朦朧とした。
「良い夢見れたかい?」
遠くの方で声がする。
まぶたをこすりながら顔を上げると,目を細めて顔をしわだらけにしたおばあちゃんが私を見下ろしている。
「男なんて他にも星の数ほどいるのだから,下を向いていたらだめだよ」
唐突におばあさんは言う。
「いーひん」
自分でも情けなく感じてしまうほど,か細い蚊のような声が出た。聞き取れなかったおばあさんに,同じ言葉を弱々しくぶつけた。
今感じるこの思いは,決して嘘ではない。他人に薄っぺらい言葉で励まされて立ち直れるほど,私は簡単には出来ていない。
「月も太陽も,この世に一つだけや」
愛想のない声で,ぶっきらぼうに言った。自分のおばあちゃんぐらいの年の人に決してふさわしい態度ではないが,今の私を保つための,精いっぱいの強がりだった。
「いいかい,よくお聞き」
優しくて,でも芯の通った声でおばあさんは言った。まだ何も言われていないのに,ひび割れた大地に水が沁みいるように,おばあさんの言葉がわたしの中に入ってくる。
「目を閉じてたら,見えるものも見えやしない。次にいつ流れ星に出会えるのか分からないんだ。気付いたときにお願いを唱えたって,その時は手遅れさ。大事なのは,よく見ようとすること。現実から目を背けたらダメだよ。星のかけらだと思っていたものが,太陽のように光り輝いていたことだってあり得るし,月のように静かに照らしてくれることだってあり得る。この世に存在しないと思っていた,それはそれは美しいものを見つけることだってできるかもしれない。何より,お嬢さん自信が輝きを失ったらだめだよ。人は,生き物は光り輝くものをいつだって求めているんだ。時には,良くないものだって光るところには集まるさ。夜の公園を照らす電球を見てごらん。よく分かるさ」
そう言って,おばあさんはけたけたと笑った。つられて私も笑ってしまう。
ポケットの中でスマホが震えた。取り出すと,ディスプレイにはこと葉の名前が表示されている。
「どんな時でも,会ったら落ち着く人がいるのでしょう? それは,豊かな人生にするのにとても重要なことだ。私にもそういう人はいたんだけどね。みんなくたばっちまった」
また声をあげて笑う。よく笑うおばあさんだ。
「どうだい? 過去は変わらなかったし,今も変わってない。過去に戻れて,よかったかい?」
私は頷き,頭を下げた。
「そうかい。良かったね。じゃあ,お行き。もう二度と,こんな経験はできやしないよ。過去に戻りたいなんて言いに来なくていい生き方をするんだよ」
おばさんは出口を指さした後,私に向かって手を振った。私はもう一度深く頭を下げ,水晶の置かれた不思議な部屋を後にした。
踊り場に出ると,同い年ぐらいの若い男の人とすれ違った。ひどく暗いオーラを身にまとった,人生に喜びを見いだせない顔をした男の人だった。
あの人も,きっと何かを抱えて,戻りたい過去がある人なのだろう。
大丈夫だよ
そう声を掛けたくなったが,心の中にしまっておいた。きっと,大切なものを見つけられる。それも,自分で。
私は大切な人のところへ向かうために,日に導かれるように建物を後にした。
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