心の友
「やだ美帆,もしかして泣いてたの?」
こと葉が笑いながら,私の目元を指差した後に頭をよしよしと撫でた。
ここに来る前,涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。ぐっと目に力を入れたから,もしかして目元が赤くなっていたのかもしれない。ほんのわずかに残っている私のプライドを守るために,「泣いてへんから」と震える声で答えた。本当に私は泣いてないのだから,嘘ではない。
何と言ったのか上手く聞き取れなかったが,淡いピンク色のノンアルコールカクテルがカウンターに置かれた。サーモンピンクというのだろうか。美味しいのかは分からないが,かわいいなと思った。
私は何を飲もうかな,と呟きながらメニューを見ると,久しぶりにきついやつが飲みたくなった。飲んだことはないけれど,ショートカクテル欄にあるお酒を指差して,「これ美味しそうちゃう?」とこと葉に尋ねた。すると,思いの外強く頭を叩かれた。
なにすんねん,と口を尖らせる私を,こと葉は眉間に皺を寄せて睨みつける。
「何言ってんの。美帆はこっち」
そう言うと,さっきバーテンダーが置いたサーモンピンクを私の前まで滑らせた。
「ええ感じやけど,ノンアルの気分ちゃう」と口を尖らせると,こと葉が顔を覗き込んできた。
「何言ってんのよ美帆。・・・・・・え,てかあんた,まさかレストランでお酒飲んでないわよね?」
「ほっぺたがほんのり赤いけど」と言いながらこと葉は私の頬をつんつんと突いた。
「飲んでんけど。でも,飲み直したいねん」
「はあ! まさかあんた,妊婦にアルコールは厳禁なの知らないの?」
「え,そうなん? しっかりワイン飲んでんけど。大丈夫なんかな」
「はあ,あんたってほんと。カフェインを取らない配慮はしていたくせに,なんでアルコールはオッケーだと思ったわけ? 神経疑うわ」
「ま,1日ぐらいどうってことないでしょ。でも,もうやめときなよ」とことはは釘を刺して,バーテンダーに別の種類のノンアルコールのカクテルを注文した。
こと葉が注文したカクテルがテーブルに置かれると,それを手にして頭の高さまで持ち上げた。
「さ,詳しい話を朝まででも聞いてやろうじゃないの。とりあえず,乾杯よ」
そう言うと,こと葉は私のグラスに自分のグラスを優しくぶつけた。
「何に対する乾杯やねん」
「ろくでもないこの世の全ての男に乾杯よ」
私たちは笑いながらグラスを口元に運んだ。
不思議な色をした程よい甘さのその飲み物は,今まで飲んだどのお酒よりもふわふわと私の心を軽くした。
悪いものを吐き出すようにこと葉に全てを話した。不思議と,話を進めるごとに出来事を客観的に見つめて,次第に心も落ち着いてきた。
「でさ,美帆はどうしたいの?」
美帆はどうしたいの? こと葉の言葉が,頭の中でこだました。私は結局どうしたいのだろう。未来からやってきて,卓也さんに事実を伝えにきた。最悪のシナリオを描かずに都合のことを思い描いていた私には,それに対する答えを持っていない。
「美帆,しっかりしなよ。あんたはもう一人じゃないんだから。お腹に守るべき命もあるじゃない。自分で決めなきゃ」
「・・・・・・私,分からへんねん。どうしたらええん? 一人で育てていけるんかも分からへんし,それに,この子を幸せにしてあげられるのかすらも分からへん。分からへんことだらけやねん」
言いながら,涙がこぼれる。
そして,人の親となるものの口からは最も聞きたくない言葉を,他の人から聞いたらいきり立ってしまうような言葉を,自分の声帯を震わせて自分の耳で聞いた。
「子ども,産んでもええんかな。絶対幸せになられへんやん,お互い」
ガタッと大きな音を立ててこと葉は立ち上がり,胸ぐらを掴む勢いで私ににじり寄った。
そして,肩をいからせて必死で呼吸を整え,静かに,でも圧のある声で言った。
「勘違いしてるんじゃない? 甘えすぎ」
ギムレット,とこと葉はバーテンダーに何かを注文し,ドスッと音を立てて椅子に座る。
「あのね,不安なのは分かるよ。でも,幸せになることを放棄するのは絶対にいけない。お腹の中の子の幸せを勝手に決めることもできない。親にできることって,子の幸せを願って毎日必死に生きることじゃないの? 私はそうやって親に育てられてきた。美帆は違うの?」
口元を押さえて,込み上げるものを必死で押しとどめた。そんな私に構わず,「それにね」とこと葉は続けた。
「幸せって,結局人の心が決めると思うの。仕事だって上手くいかないし,前の彼氏にヤり捨てされたって,言ったよね? 辛いけど,それでも私は幸せなの。だって,美帆みたいな親友に会えたし,これから私はまだいろんなことができる。何かあったって,私には,私のことを愛してくれている親がいるし」
だからね,とこと葉は優しい声で,目で私を見る。
「美帆は幸せになれる。お腹の子も,きっと幸せになれる。なろうよ,一緒に」
テーブルに置かれたギムレットをこと葉は煽るように飲み,「クサいこと言っちゃった」と頬を赤らめて笑った。
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