祈り




 祈りな,とおばあさんは突き放すように言った。その言葉に従い,水晶玉を一瞥してから,目を閉じる。

 このおばあさんは,おれが犯した過ちを知っているのだろうか。いや,さすがにそんなことはないだろう。きっと,誰にでもぶっきらぼうな態度なのだ。



「余計なことを考えるんじゃないよ。戻りたいのならね。それとも,何かの間違いで戦国時代にでもタイムスリップしたいのかい?」



 え,と戸惑うおれを見て,おばあさんはくっくっと笑い声を漏らす。これから非現実的なことが起こりそうなことを肌で感じているからか,祈りに集中することを決意した。


 目を閉じると,身体が少し軽くなったような感覚に包まれる。息を深く吸い込み,細く,長く吐き出した。徐々に意識が遠のいていく。暗闇の中の渦に吸い込まれていくようだ。眠りに落ちるように,おれはそのまま意識を失った。







「どうしてん? ぼーっとして。疲れてるんちゃうん?」



 心配そうな顔をしておれの顔を覗き込む目の前の女性に,一瞬ひるみそうになったのを何とか堪えた。香ばしい香りを含んだ煙の臭いと,目の前に置かれたコンロ。あたりを見渡して,はっとする。昔よく行っていた焼き肉屋だ。壁に掛けられたカレンダーは三月のページだ。四カ月前。もしかして,本当に戻っているのか?



「ほんまにどうしてん急に。大丈夫?」

「大丈夫,心配ないよ。ちょっと仕事のことで悩んでて。せっかく食事しに来たのに,こんなんじゃンもったいないな」

「ほんまやで。そんな時こそ,しっかり食べな」



 ええ感じやで,と手際よく焼いた牛タンをおれの皿に載せる。トング器用に使って一旦コンロの上を空にした後で,心配そうに美帆は口を開いた。



「仕事のことはあんまり分かってやれへんけど,何か悩んでたら遠慮せず言ってな。話したらすっきりするkともあるかもしれへんし」



 ありがと,という言葉に「大丈夫だよ」という思いを乗せて笑顔で頷く。美帆はいつもそうだ。あっけらかんとした中にも他人への配慮を欠かさない。

 おれは自分の皿に乗った牛タンに箸を伸ばした。美帆の皿に乗った一枚だけの牛タンを見て,優しさに包まれているのだと実感する。おれの皿には牛タンが二枚。美帆のと比べて,こんがりと美味しそうに焼けている二枚だ。そんな優しさに惹かれていたんだ。おれにはずっと一緒にいたいと心を決めた女性がいるのに。



「また難しいこと考えてんねやろ」



 美帆がハラミを焼きながら言う。その顔は,さっきと少し違って,ツンとしている。



「卓也さんと一緒に食べる美味しい食事,最大限楽しみたいねん。ほんま,気張らな。大丈夫やでそんな考えすぎんでも」



 美帆に言われると,本当に大丈夫なんだと思えてくる。そんな力が彼女の言葉には宿っている。

 こんな素敵な女性を,絶対に不幸にしてはいけない。おれは覚悟を決めた。自分でもよく分からないけど,過去に戻っているという事実を今ではすんなりと受け入れていた。



「彼女がいるんだ。その人とは結婚したいと思っている」



 肉を焼く美帆の手が一瞬止まった。が,すぐには何も言わず,ハラミを焼き続けている。何事もなかったかのように振る舞っているが,美帆が動揺しているのが手に取るように分かった。美帆は絶対におれにトングを握らせない。「頻繁に肉をひっくり返すとうま味が逃げる」というのが彼女の言い分だ。今,彼女の持つトングは,まだ焼けていないハラミが何度もひっくり返されていた。



「黙っていてごめん。言えなかったのは,美帆ちゃんがすごく魅力的だったから。だから,会うたびに楽しくて,その関係を終わらせたくなくて・・・・・・。でも,卑怯だなって思った。こんなに優しくて素敵な人をだまし続けると,未来のおれは絶対後悔しているから」



 話せば話すほど,言い訳じみている気がする。それでも,一息に言い切った。このままの関係を続けた先にいる二人は,後悔を抱えたまま過ごすことになるのだから。



「私はね・・・・・・卓也さんと一緒にいたいねん。そんなん,急に言われても分からへん。耐えられへん」



 トングを震わせながら,涙声で美帆は言った。声のトーンを押さえてはいるが,異様な空気感に気付いた隣の席のカップルが,声を潜めて何やら話している。その視線が痛かった。



「分かっててん」



 グラスに残っていたビールを一気に飲み,美帆は店員を呼んだ。飲まないとやっていられない。そんな気持ちはおれも同じだった。苦しみを少しでも和らげるために,おれもグラスに半分ほど残ったビールを一気に飲み干した。美帆はいつも炭酸割で飲む焼酎をロックで頼んだ。おれも同じものをお願いした。



「ほんとはな,女っ気があるなって分かっててん。でも,怖くて聞けへんかった。一緒にいる時間があんまりにも楽しかってん」



 瞳をいっぱいに濡らして,声を震わせて美帆は言った。遠慮がちにドリンクを持ってきた店員からロックグラスを受け取ると,半分ほど一気に飲んだ。おれも,同じようにグラスを傾ける。アルコールがのどを取る感触が,いつもより弱かった。


 お願い,とか細い声で美帆が言う。上目遣いでこっちを見ているのだろうが,その表情は視界が滲んでうまく読み取れない。



「今日で最後にするから・・・・・・。今日だけは一緒にいて」



 瞳から綺麗なしずくが,きれいな線を描いて頬に落ちる。

 おれは,一つだけゆっくりと頷いた。


 途端に,景色が渦を巻いたように浮かんだ。身体が不意に軽くなる。訳の分からないままに意識がもうろうとし,そのまま意識失った。








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