決別

 玄関のドアが閉まった音が聞こえた途端に全力疾走した。疲れを忘れて走り続けた。

 ジョギングには不釣り合いな格好で涙を流しながら走る男を,すれ違う人たちは好奇の目で見ているだろう。走っていないとこみ上げる感情に押しつぶされそうだった。でも,不快な感情にではない。おれは言った。大切なことを伝えた。体の芯から溢れてくる満足感と,心に入り込んできて隙間なく襲いかかる喪失感を同時に感じていた。今日ぐらい泣いたっていいだろう? 走りながら歯の隙間から嗚咽が漏れでた。涙は風に流れて耳を濡らした。


 どれくらい走っただろうか。見慣れない景色を見たくていつも通らない道を走る続けると,入り組んだ住宅地の一角に公園があった。吹き出る汗を拭い,息を整えながら水滴が残っているベンチに腰掛けた。


 パンツにまで水が染み込んでいるの感じながら目をこする。


何やってんだおれ。

でも,かっこ悪いかもしれないけど,悪くない生き方だろ? 


 自分に問いかけた。昔はカッコつけてばかりだった。社会人になってからは何をやっても諦めと冷めた感情が支配していた。今は心のしこりが取れた気分だ。もうきっと,くよくよしない。仕事に打ち込んで,充実感に満ちた生活を送ろう。夏海の幸せを願って終わりじゃダメだ。おれも幸せにならなきゃな。


 固く握った手のひらを開いた。水晶のストラップ。空にかざして見ると,気泡が浮いているのが見えた。お土産屋さんで見たときには気づかなかった気泡が,太陽の光を浴びて美しく反射していた。


 瞼を閉じて,強く祈った。愛する人と,自分の幸せを。


「ケリはついたかい?」


 遠いところで,聞き覚えのある声がした。




ーーー




「いつまで寝てんだい」


 しゃがれた声が聞こえるのと同時に肩に鈍い痛みを感じた。顔を上げると,拳をにぎったばあさんがテーブルに片手をついてこちらににじり寄っていた。


「どうだい? 気分は」

「悪くはないです」

「過去が変わらなかったのにかい?」


 ばあさんは目尻にシワを寄せて意地悪く笑った。そして椅子に腰をかけ,頬杖をついてこっちを見る。その年の人には似つかわしくないポーズだったが,目の前の若者が何というのかが興味深くてたまらないのだろう。

 

「確かに過去は変わらなかった。でも,何かが変わったのがわかる」

「何かって? 過去に行って何も変えられなかったのなら,どこにも行ってないのと同じじゃないか」


 いや,と首を振った。言葉にするのが難しかった。でも,言葉にできないこの何かがとても大切なことだということは分かっていた。


「それはきっと,これから分かる。おれはこれからを生きるよ」


 ばあさんは満足そうに頷いた。そして,払うようにして手を振って言った。


「そうかい。それはよかった。気をつけて帰りな」

「あの・・・・・・お代は?」


 この不思議な能力を持ったばあさんには感謝しきれない。お金はいくら払ってもいいと思っていながらも,このばあさんの不思議なオーラに圧倒され,恐れてもいた。法外な値段を要求されるのではないだろうか。

 ばあさんは,そうだねえ,と喉を震わせて低く笑った。


「これからどんな風に生きていくのかを楽しみにしているよ。この部屋に入った時には,くだらない世の中にせいせいしたって顔をしていたからねえ。また土産になる話でも出来たら遊びにおいで。別にまた死を待つだけの魚のような目をして来てくれてもいいんだけどね」


 そう言うと,くっくっとまた低い声で笑った。最後まで掴み所のないばあさんだった。

 営業の仕事でもしないほど,心を込めて深くお辞儀をした。ばあさんはそんなおれを見て,何も言わず頷いてくれた。

 礼を言って振り返り,出口に向かった。

 扉に手をかけようとすると,開いた手から何かがこぼれ落ちた。落ちたのは,最後に手渡された水晶のストラップだった。手の中で転がし,宙に掲げた。黄金色のライトを吸収した水晶は気泡の粒子を映し出す。こんなに綺麗な景色を今まで見たことがあっただろうか。

 泡が弾けて世界が変わる。そんな未来を遠くに浮かべ,扉の外へ足を踏み出した。

 

 

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