幸せに向かって

 画面の電源を落とし,そっと目を閉じる。

 母が死んで数年経つ。この時代を生きた人としてはかなり早く障害を終えた。定年したらゆっくり過ごしたい,と口癖のように言っていた母は結局入院中ぐらいしかゆっくり過ごせることはできなかったが,その人生は幸せだったのだろうか。

 聞く術はもちろんない。でも,我が子とひどい言い争いをして,そのまま死を覚悟するというのはとても悲しいことのように思えた。夢と現実が分からない状態とはいえ,最後に息子と言葉を交わせたことは悪いことではなかったはずだ。何より,一番胸をなで下ろしているのは外でもないおれだった。

 今のおれは? 家具で傷がついたフローリングを見下ろしながら自分に問いかけた。

 おれにとって,大切なものはなんだ。おれには大切な何かが,伝えなければならない何かがあるんじゃないのか?



今すぐ会いに行って。

大切なことはきちんと伝えないと,絶対に後悔しちゃうよ。



 握りしめたスマホを布団の上に投げ,パジャマを脱ぎ散らかした。クローゼットから適当に服を取って着替え,手短に歯磨きと整髪を済ませて玄関へと向かった。

 おれがこの日に戻ってきたのは,伝えきれていないことがあったからじゃないか。大切なことを,今から伝えに行こう。

 ドアノブを掴んで力強く扉を押し込んだ。厚い雲がひろがっている空からは,ポツポツと雨が降り始めていた。



「どうしたの?」


 そう言うと上から下へ,そしてまた上へと視線を動かし,玄関の扉を開けたまま夏海は一人暮らしをしているアパートの部屋の中へ入って姿を消した。またすぐに姿を現したかと思うと,こっちにバスタオルを放り投げた。


「すぶ濡れじゃない。傘もささずに走ってきたんでしょ?」


 唇を尖らせて小さい子どもを叱るように言うその声とは裏腹に,表情は柔らかい。礼を言って手触りの良いバスタオルで顔を拭いた。懐かしい柔軟剤の匂いがした。


「拭いたら上がりなよ,散らかってるけど。丁寧に拭いてよね。水とか泥持って入らないでよ。服は・・・・・・いつか置いていったジャージがあったかなあ」

「大丈夫・・・・・・ここでいい」


 背中を向けて部屋へと戻ろうとする夏海を引き留めた。怪訝な顔をした夏海に,すぐに帰るから,と力なく言う。

 下を向くな,男らしくやれよ。そう自分を鼓舞した。


「幸せにしてくれるんだろうな」


 え? と夏海は顔を傾けた。何を問いかけられているのかが分からないといった様子で。

 苦しかった。聞かなくても分かることを,返ってくる答えに傷つけられることを承知の上で訪ねた。痛みでおかしくなりそうだった。それでも,逃げたらダメだと自分に言い聞かせた。

 喉が塞がれて声を絞り出すので精一杯だった。それでも,胸を張り,小刻みに震える不安定な声で夏海に届けた。精一杯の,おれなりのエールを込めて。


「夏海のこと,幸せにしてくれるんだろうな?」


 夏海は何かを即答しかけたが,結局口を一文字に結んでおれの顔を見た。一点の曇りもない,透き通った瞳だった。怒っている時も,悩んでいる時も,真剣に勉強をしている時も,笑った後に見せる表情の中にも見せるこの綺麗な瞳をおれは自分のものだと勘違いしていた。


「私,幸せになるね」


 夏海はそれだけ言った。


「それなら良かった。それだけを願っているよ」


 おれなりの告白だった。ずっと好きだった,という言葉の代わりに愛する人の幸せを願った。曇りない瞳を見つめていると,夏海の姿が一瞬にして滲んでこぼれ落ちた。


「ちょっと待って」


 こぼれ落ちる涙を悟られる前に背中を向けて去ろうとするおれを夏海は引き留めた。気付かれないように肩で目元を拭ってから振り向く。夏海は服の裾についたゴミを気にしていた。きっとバレてる。夏海は気づかないふりをしてくれた。優しくて,配慮できる人だから。

 きっと何もついていない指先のゴミを玄関に落としてから,「あのさ」とポケットを探り始めた。取り出したのは,一緒によく写真を撮ったスマホだった。ぶら下がったストラップを手こずりながらほどいている。おれはそれをただただ見ていた。それはまるで,イヤホンの片耳を失ってしまうみたいで,くっついていなければならないものが無理やり引き剥がされるているみたいで,ナイフでえぐられたように心が痛んだ。


「これ,古くなったから取り替えようと思っているんだけど,なんか捨てるのも忍びないでしょ? 貰ってよ。どこか成仏できそうなところで処分してよね。大切にしてたんだから」

「そんなに大切なら,しまっておけよ」


 そう言いながら受け取った。歯を食いしばっていないと今度は目の前で泣き崩れてしまいそうだった。水晶のストラップ。綺麗だね,と言って二人で自分たちに買ったお土産だった。海沿いのテラスでお酒を飲み,ほろ酔い気分でお土産さんを巡っていた時の。


 じゃ,と片手を挙げて今度こそドアノブに手をかけて外に出た。夏海がおれを追いかけることはもちろんない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る