水晶の向こう側
嫌な一日だった。相当飲んだはずだが,不思議と二日酔いはなかった。それでも目の前に散らかった缶やウイスキーのボトルを見ると,昨日の出来事を思い出してしまう。
ボトルに手を伸ばし,流しへ持っていこうとすると指に違和感があった。手元に目をやると,わずかに血がついて固まっている。目をこらすと,ゴミのようなものが刺さっている。グランド整備に使うトンボを使っている時,怪我をした中学校時代を思い出した。
「トンボなんかしばらく触ってもないのに,いつ怪我をしたんだろう」
ピンセットを使うまでもなくそのゴミは取れた。刺さったものを爪でつかんで取り出すと,気持ちが良かった。爽快感に浸りながらそれを見る。どうやら木の破片のようだ。
その時,頭の後ろの方から電気が走ったような感覚があった。これは,椅子に座った時にできた傷だ。そうだ,思い出した。おれは過去に来ている。あの電話は昨日の出来事じゃない。でも,おれはその電話を受けた部屋にいる。もしかして,本当に過去に戻ってきたのか?
壁にかけられたカレンダーに目をやる。ページは八月。1週目の土曜日に「まちこ」と書かれていた。
そうだ。あの日はおれたちの好きなカフェに二人で行った。そこでパンケーキを食べながら,今までの大学生活について思い出を懐しくふりかえり,これからの希望を語った。大学生だった頃のおれは,二日酔いで起きるのも辛かった体に鞭を打ち,ベッドから見えるカレンダーの八月のページを破り,ゴミ箱に捨てたのを覚えている。そのページが,あの日と同じ状態で飾られ,同じようにおれに虚しさを突きつけている。
間違いない。おれはあの日に戻っている。外を薄暗くしている厚い雲を見ながら,おれはそのことを確信した。
部屋の中を意味もなく行ったり来たりしながら頭を抱えた。
過去に戻ったからといって,おれに何ができるというのだ。あのばあさんも,過去は変えられないと言っていた。おれが今からどれだけ尽くそうと,どんな手を使おうとも,夏海と結ばれることは決してないということだ。過去が変わらないというのなら,おれは何をしたらいい。
考えても答えなんか出ない。でも,頭の中は夏海のことでいっぱいだった。もう何も考えたくない。彼女以外の,何か別のものに意識を向けようと部屋を見渡す。旅行先で買ったタンブラー,スマホを買い替えた時に一緒に選んでもらった手帳型のスマホケース,はやりの映画を観た後に記念に回したガチャガチャで出た安っぽい置物・・・・・・無心になりたくても,この部屋にはあまりにも夏海の面影が残りすぎていた。
諦めてスマホに手を伸ばす。この際,とことん辛い過去と向き合ってやろう。そのためにおれは過去に送り込まれたに違いない。中途半端に逃げてしまったせいでいつまでも叶わぬ恋を引きずっている。いっそのこと打ちのめされて,そうして現実に戻った方が次に向けて出発できるに違いない。
そう自分に言い聞かせて,今では何代も型落ちしている機種の電源を入れた。海が見えるテラスのテーブルにビアグラスが二つ並べられている綺麗なロック画面にパスコードが表示される。もう何年も前のことなのに,悩むことなく0811とタップし,解除に成功した。初めて二人で出かけた,この海で過ごした日付だ。
写真フォルダをスクロールした。社会人になる前にスマホを買い替えた時に大学時代の写真は全て消去した。だから,久しぶりに見る写真ばかりだった。人の記憶とは意外と頼りないもので,思い出からとうに消えていた友達や,いついったのか思い出せない場所がたくさんあった。そんな中でスクロールする指を止めるのは,やっぱり夏海と撮った写真ばかりだった。
自分でもなぜだか分からないが,最も反応したのは旅行中の写真でも綺麗な景色のものでもなかった。体の中で何かが反応して,気づけば一枚のデータを拡大していた。それは夏海とのメッセージのやりとりを記録したスクリーンショットだった。
内容を見て,夏海にある相談をしたことがあったのを思い出した。正月に帰省をした時,くだらないことでけんかをした母が年明けに事故にあった。寝たきりの状態がしばらく続いたらしく,自体を知らされて会いに行った時にはすでに怪我からは回復していたものの,ボケてしまって息子の顔も認識できなくなっている状態だった。
おれはずっと後悔していた。母にきつく当たってしまったこと。ひどく傷つくことを言ってしまったこと。
そのことを夏海に告げた時に送られたメッセージをスクリーンショットで残したのだ。
絵文字のないメッセージにはこう記されていた。
言わないといけないことがあったら,絶対に言わないとダメ。
会えなくなってからでは遅いの。
いくら顔を見ても,察してくれる,分かってくれるって相手に任せたらダメ。
今すぐ会いに行って。
大切なことはきちんと伝えないと,絶対に後悔しちゃうよ。
おれはこの返信を見て,荷物もロクに持たず部屋を飛び出しのだった。実家に着く前にその足で病院に行き,酸素のチューブを鼻にさしてぼーっと虚空を見つめる母の手を取った。「こんにちは」と,まるで知らない人の顔を見るようにきょとんとした母に,涙を浮かべながら詫びた。
母は何も言わなかった。でも,謝罪をした時に母はほんの少しだけ手に力を込めて何かを返してくれた。
その一週間後,母の容体は急変してそのまま亡くなった。綺麗に化粧を施されたその顔を見て,心安らかにあの世に行ったんだろうと思う。
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