覚悟は出来たかい?

「さっきの女の人からはどれぐらい巻き上げたんだ? 大きな宝石が付いた指輪なんかして,さぞ儲かっているんだな。心の病んだ人に付け込んで金を巻き上げる。そうやって食う飯の方が味がしない気がするけどね」


 言い過ぎた,とも思ったがもう遅い。気まずい雰囲気になるのも嫌なのでそのまま立ち去ろうとしたが,奇妙な言葉を投げかけられた。


「戻りたい過去があるんだろ? いいのかい? 思いを伝えることができなかったままで」


 ドアノブをひねろうとしていた手を引っ込める。恐る恐るばあさんの方を振り返る。暴言を吐く前よりも一層おおらかな表情は,修学旅行で見た大きな大仏を思い起こさせた。


「お前はかつて,行動を起こせなかった自分を悔やんでいる。でも,過ぎてしまったことだからどうにもならない。だから,自分が思いを伝えたところで事態が好転したとは限らないんだから,結局今と状況は変わらなかったに違いない,と自分を励ますしかない」


 違うか? とばあさんはさも自信ありげに言い放つ。おれはうつむいて,何も答えられない。全くその通りだった。学生時代,恋した相手に何も伝えることが出来ないまま彼女は結婚してしまった。はっきり言って,とても後悔している。

 くたくたな革靴のすり減って変色したつま先にコバエが止まった。


「これだけは覚えておくんだな。お前がそうやって自分を無理やり納得させようとも,あの時行動できなかった自分,というレッテルが強力な接着剤で貼り付けられたように離れないだろう。厄介なのは,それが自分の一番目に付く位置に貼られていることだ。何をするにも,それがお前を留まらせる。自分は度胸のないとんでもなくダメなやつなんだというシンボルとして存在しているからな」

「でも・・・・・・,過去は変えられない。そうですよね?」


 こぶしを握り,願うように問いかけた。素敵だな,と思う人と出会ったりきっかけを持つことはこの一年でも何度かあった。連絡を取ろうとしたり,親密になりたいと思うことはあったが,それでも行動には起こせなかった。それは,おれがいつまでも過去に縛られていたからだ。もしかしたら彼女はおれに好意があるのでは。今は好意とは言はなくても,時々一緒に過ごしたあの楽しかった日々を思い出しているのでは。戻れることなら戻りたい。今を変えたい。思いを伝えることが出来なかったあの日のことを,おれはずっと後悔している。


 目の前が明るくなった気がする。ばあさんは目を細めてこっちを見た。その目はおれの目の,ずっと奥の方を見ている気がした。


「その通り。残念ながら,過去は変えられない。ただ,未来はこれから作ることが出来る。未来は,過去と現在の延長線上にあるのだからね」


 深くため息をついた。光の射す方から希望の糸がなびいていると思ったら断ち切られた気分だ。

 もともと何も期待していなかったのだ。遊び半分の気持ちでやってきて場所に怪しいばあさんがいて,それっぽいことを言っているだけじゃないか。そうだ。水晶を机に置いただけの年寄りに何が分かる。

 お邪魔しました,と今度こそ部屋を出ようとしたとき,また背中に声をかけられた。


「チャンスはふとした時に目の前にやって来る。まるで流れ星のようにね。でもね,そこで祈ることが出来る人が何人いる? みんなそうしてチャンスを逃し,次こそはと目を凝らして祈る準備をしても,その時は手遅れさ。言いたいことが分かるかい?」


 ドアノブに手をかけたまま,唇を強くかむ。早く出て行ってしまえ,と頭の中で自分に言い聞かせているのに,伸ばした手はドアノブをひねってはくれない。口の中に,血の味が広がる。


「過去に戻れるんですか?」

「そう願うなら」

「何のために?」

「その答えはお前が見つけるんだよ」


 覚悟はできたかい? と含み笑いでばあさんは問いかける。


 大学を卒業して二年。辛い過去を忘れるように,身を粉にして働いた。別に好きでも誇りを持っている仕事をしている訳ではないが,勤務している間は辛いことを考えずに済んだ。仕事が終わると,ふとした時に夏海のことを思い出す。おれはいつまでも勝手に好きになった相手を想い続けて,迎えの来ないご主人様を待つ犬のように鎖をつなげておすわりをしている。

 おれは,あの日の呪縛から決別する決意をした。

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