水晶の向こう側

 ばあさんに言われるがままにテーブルの前に腰掛けた。シャンデリアが飾られた天井を見上げるようにして胸をそらし,大きく息を吐いた。ささくれだった木製の椅子がギシギシときしむ。腰を据えるために座り直そうとした時,人差し指がちくりと痛んだ。裂けた木の破片が刺さり,血がにじむ。これから一体何をしようというのか。さっさと終わらせて帰ろう。


「で,どうすればいいの?」


 ちょんちょん,とばあさんはテーブルに乗った水晶を指差した。まさか,今どき詐欺師でもこんなものは使わないだろう。それっぽさを演出するためだけに置いているものだと思っていたが,本当に使うというのか。


「あんた,疑ってるね?」

「いや,水晶でしょ? しかも濁っているし。ドラマでもこんなことしないでしょ」

「水晶じゃなくたっていいんだよ。とにかく思い込むことが大事だ。あの日に戻りたい。戻ってやり残したことをやり遂げたい。そう強く思い込むんだ。心の力ってのはすごい。脳は必ず反応する」

「根性論と脳科学の融合だな。ってか,水晶関係ないの?」

「関係ない」


 それを商売道具にしている占い師が言っていいのかよ,と口には出さずに毒づいた。ただ,その言葉とは対照的にばあさんは目の前にある水晶を熱心に見つめている。まるで中の気泡を一つ一つ数えるように。


「水晶はただのお飾りね。じゃあ何に念じればいいんだ?」

「しつこい男だね。お仏壇でもあった方がいいのかい? 祈るってのは心のあり方だ。ただ念じる。目をつぶってもいいし,そうでないなら水晶を見てな。焦点が何かに合っているというのは,脳にとってはいいことなんだから」


 難しいことを考えるのはよそう。目の前の水晶をじっと見つめる。よく見るとかけている箇所があり,お世辞にも綺麗とは言えない。だいたい,しっかりしたものなら中にこんなに空気の泡があるはずがない。プールに飛び込んだ時にできる水をそのまま閉じ込めたようなガラスは,歪んだ顔をモザイクをかけたように映し出していた。


「戻りたい,そう強く願え」


 ふうっと息を吐き,目を凝らした。傷を負った人差し指は,まだかゆい。

 卒業を意識し始めた大学四年生の夏。就職活動はうまくいった。一番勤めたかったところではなかったにせよ,名前の通った大手企業に就職したいという願いは叶った。上手くいかなかったのは,いや,舞台にすら立てていない夏海とのこと。おれは,逃げてしまったあの日に戻ってやり直したい。

 固く目を閉じ,強く祈った。目の奥がじんと熱くなる。


「いっておいで。そして,かつての自分とケリをつけておいで」


 優しいばあさんの声が頭の遠くで心地よくこだました。





 腕で目元を抑える。カーテンの隙間から漏れ出る太陽の光が鬱陶しい。頭が重い。まだ寝ていたい。いつまでも夜が続けばいいのに。昨夜は眠れなかった。やっと眠りにつけたと思ったらすぐ朝だ。付けっ放しで寝たエアコンの風が直接体に吹き付けて,無性に気分が悪い。

 寝ていたい,寝ていたい,寝ていたい。こんなに辛いならいつまでも寝ていたい。もうどうだっていい。人間誰しも幸せになりたいという願望を抱いて生きている。それはお腹の中で授けられた健康な生物の宿命じゃないか。それをおれは叶えることができなかったんだ。もう,生きていてもろくなことはない。

 生きるとは絶望することだ。叶うことなら酒でいっぱいに満たされた風呂の中で溺れ死にたい。思えば名前のないあの猫は世間が思うよりもよっぽど幸せな死に方をしたのではないだろうか。おれもその死に方にあやかりたい。あんなことを言われるぐらいなら。




 あんなこと? あんなことって,昨晩何があったんだっけ?




 頭の中で記憶のありかを探るセンサーが駆け巡る。めあてのものを発見した時,身体中に電流が駆け巡り,電気ショックを受けた患者のように飛び上がった。


「夏海!!」


 誰もいない部屋の中で虚しく声が響いた。辺りを見渡しても,やっぱり誰もいない。ただエアコンが空気を循環させている音が無機質に鳴り響いているだけだ。


「夢か? これは夢の中か?」


 ほっぺたをつねってみても,変化はない。顔がむくんで少しだけ皮膚の戻りが遅い気がする。テーブルの上にはロング缶のビールが3本と,ウイスキーの瓶が半分ほどからになった状態で放置されていた。

 そうだ。おれはこの日の前日,夏海から電話があった。そしてその後,コンビニに行ってお酒を買って,潰れるまで酒を飲んだ。たった一人で,誰にも打ち明けることなく。


 おれは同級生の夏海に恋をしていた。出会いはなんとなく入ったフットサルのサークルで,そのサークルのマネージャーとして夏海は所属していた。新入生歓迎会で花見が開催された時,おれは夏海と同じレジャーシートでお菓子とビール風のテイスト飲料で先輩たちに囲まれながら時間を過ごしていた。その時,すでにおれは夏海に惚れていた。

 在学中の四年間。おれはずっと夏海に恋をしていた。いろんなところにも行った。仲良しの友達とみんなでボードに行ったこともあれば,海に行ってそのままコテージに泊まったこともあった。みんなには内緒で映画を観にったり,1時間ほどかけていけるテーマパークで遊んだこともあった。ろくに恋愛をしてこなかったおれにとって,それは天国にいるような時間だった。


 卒業を意識し始めた大学最後の夏休み,夏海から連絡があった。

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