水晶とばあさん

「何しに来たんだい?」


 ドアノブを捻り,重たい扉に体重をかけて奥へと押し込んだ。十畳ほどの部屋の中心にテーブルが一つと,おそらく客のための椅子が置かれていた。

 しゃがれた声の主のばあさんは見るからに怪しかった。頭のてっぺんで結われた白髪はこぶし二つ分ほどの大きさがある。綺麗な形をしているが,髪の毛を下ろすときっと地面に届くほどの長さに違いない。テーブルに掛けられたアジアンテイストのクロスとオレンジ色に部屋を照らすイカ釣りに使われる針のような形をした照明がこの空間の不気味さを演出している。何よりも目をひくのが,テーブルの真ん中に置かれた人の頭ほどの大きさをした水晶だ。

 そんな部屋にいる怪しいばあさんに「何しに来たんだい?」と問われても返事に困る。ただ興味本位で来ただけだ。数分前に踵を返そうとした過去に戻って自分の背中を押してやりたい。何なら,今からでも引き返してダッシュで逃げた方がいいのでは? 部屋の奥にはサングラスをかけた屈強な男が控えていて,書類にハンコを押すまで家には帰してもらえない可能性だってある。


「ばあさん,個室,水晶。絵にかいたような怪しい場所だろ? あとは何が必要かね。骸骨の模型,悲壮感が漂う絵画,トラの毛皮であしらったラグとかかい?」


 なんなんだこのばあさんは。自分で自分のことを怪しいやつだと認めているような言い方だ。片方の口角だけを引っ張られているように笑うその表情は,まさに悪徳な占い師そのものじゃないか。


「ごめんなさい,間違っちゃったみたいで。失礼しました」


 右手をチョップするように前後に軽くゆすり,出来るだけ軽いトーンで謝罪の意を示す。目の前の悪徳占い師に負けず劣らない不自然な笑顔を浮かべ,回れ右をしてドアノブに手を伸ばした。


「戻りたい過去があるんだろ? まあ,どうせ大した過去じゃないんだ。あんたの人生にだって興味もない。そのまま帰ってまずい飯を食って,やりがいも感じない仕事に精を出して人生を浪費すればいい。さあ,明日は月曜日だ。帰った帰った」


 むっとして肩越しにばあさんを睨みつけると,全てを見透かしたような顔で手を振っている。波に揺れるイソギンチャクのように指を揺らして別れを告げる老婆をなじりたくなった。



「さっきの女の人からはどれぐらい巻き上げたんだ? 大きな宝石が付いた指輪なんかして,さぞ儲かっているんだな。心の病んだ人に付け込んで金を巻き上げる。そうやって食う飯の方が味がしない気がするけどね」


 言い過ぎた,とも思ったがもう遅い。気まずい雰囲気になるのも嫌なのでそのまま立ち去ろうとしたが,奇妙な言葉を投げかけられた。


「戻りたい過去があるんだろ? いいのかい? 思いを伝えることができなかったままで」


 ドアノブをひねろうとしていた手を引っ込める。恐る恐るばあさんの方を振り返る。暴言を吐く前よりも一層おおらかな表情は,修学旅行で見た大きな大仏を思い起こさせた。


「お前はかつて,行動を起こせなかった自分を悔やんでいる。でも,過ぎてしまったことだからどうにもならない。だから,自分が思いを伝えたところで事態が好転したとは限らないんだから,結局今と状況は変わらなかったに違いない,と自分を励ますしかない」


 違うか? とばあさんはさも自信ありげに言い放つ。おれはうつむいて,何も答えられない。全くその通りだった。学生時代,恋した相手に何も伝えることが出来ないまま彼女は結婚してしまった。はっきり言って,とても後悔している。

 くたくたな革靴のすり減って変色したつま先にコバエが止まった。


「これだけは覚えておくんだな。お前がそうやって自分を無理やり納得させようとも,あの時行動できなかった自分,というレッテルが強力な接着剤で貼り付けられたように離れないだろう。厄介なのは,それが自分の一番目に付く位置に貼られていることだ。何をするにも,それがお前を留まらせる。自分は度胸のないとんでもなくダメなやつなんだというシンボルとして存在しているからな」

「でも・・・・・・,過去は変えられない。そうですよね?」


 こぶしを握り,願うように問いかけた。素敵だな,と思う人と出会ったりきっかけを持つことはこの一年でも何度かあった。連絡を取ろうとしたり,親密になりたいと思うことはあったが,それでも行動には起こせなかった。それは,おれがいつまでも過去に縛られていたからだ。もしかしたら彼女はおれに好意があるのでは。今は好意とは言はなくても,時々一緒に過ごしたあの楽しかった日々を思い出しているのでは。戻れることなら戻りたい。今を変えたい。思いを伝えることが出来なかったあの日のことを,おれはずっと後悔している。


 目の前が明るくなった気がする。ばあさんは目を細めてこっちを見た。その目はおれの目の,ずっと奥の方を見ている気がした。


「その通り。残念ながら,過去は変えられない。ただ,未来はこれから作ることが出来る。未来は,過去と現在の延長線上にあるのだからね」


 深くため息をついた。光の射す方から希望の糸がなびいていると思ったら断ち切られた気分だ。

 もともと何も期待していなかったのだ。遊び半分の気持ちでやってきて場所に怪しいばあさんがいて,それっぽいことを言っているだけじゃないか。そうだ。水晶を机に置いただけの年寄りに何が分かる。

 お邪魔しました,と今度こそ部屋を出ようとしたとき,また背中に声をかけられた。

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