水晶の中の奇跡
文戸玲
大恋愛
ネットサーフィン
オフィス街の大きな道路に面したところに,紫外線と排気ガスを十分に吸ってすすけたビルがあった。そのひび割れた壁やツタの張った建物にはどことなく不安な気持ちにさせられる。ネットの掲示板に載っていた通り,目当ての部屋を示す看板も目印もない。
「くだらない。帰るか」
くたびれたスーツの肩についた埃を払いながら誰にでもなく呟いた。尊大なプライドをかざして回れ右をしようとしたが,ネットの情報が気になってここまで来たのだ。最後まで行こうがここで引き返そうが同じことだし,こけるなら大きくこけてやれ。
なかば投げやりな気持ちが心を支配した。
大学を卒業してそこそこ名のある会社の営業職に就いてから二年が経った。仕事帰りの電車の中で疲れたまま満員電車に揺られ,吊革につかまりながらネットサーフィンをしていたら興味深い記事に目が移った。
戻りたい過去に連れて行ってくれるおばあちゃんに出会った話
なんて胡散臭い話なんだと馬鹿にしながらも,画面をスクロールしていた指はその記事をタップしていた。アクセスした先は,インターネット上にどんなことでも投稿して交流できる掲示板だった。
その記事の内容を詳しく読むには,個人情報の登録が必要だった。普段なら絶対そんな怪しいものに手を出さないのだが,過去に戻れるおばあちゃんに出会ったという人がどのような体験をしたのか,その話を聞いた人たちはネット上でどのような反応を見せるのか。人を釣るための嘘だと分かっていてもその好奇心を抑えることが出来なかった。
まあいい。何か困ったことがあれば番号を変えたり何かしらの対策を打てるはずだ。その掲示板に投稿された内容と周りの反応を見るために,普段使いのメールアドレスと宮川圭太,24歳という情報を登録した。偽名を使った方が良かったかな,と後になって軽率な行動を悔やんだが,打ち込んだのは名前と年齢,メールアドレスだけだ。勤め先もカード情報も,悪用されたりするような情報は記入していない。怪しいメールが送られてきたとしても,URLに入ったりそこでさらに個人情報を求められない限りは大丈夫だ。
個人情報の取扱いに神経質なこの世の中なのに,無神経かなという気もするが,これまでの人生,今のところ被害にはあっていない。成功とは程遠いし,幸せというものにとことん縁がないことを除けば,おれはおおむねうまいこと人生を送っている。
埃っぽい階段を,一段一段あがる。この建物の3階に「過去に戻れる部屋」があるという。まさか本気で信じているわけではないが,蜘蛛の巣が張った廊下,錆びきった手すりには目には見えない重々しさを感じる何かが確かにあった。
目的のフロアの踊り場に上がりきると,目の前の扉が開いた。
開いた扉はなかなか閉まらない。シルクのひざ下まであるスカートを履いた下半身が扉から半分出ている状態で,女性は中の誰かと会話をしている。「ありがとうございました」という明るい声と同時に,お尻を踊り場に突き出す格好になった。やましいことなど何もないのに,頬が赤らむ。
早くどけてくれないかな
願うと同時に女性は扉を閉め,踊り場の方を振り向いた。まさか後ろに人がいるとは思っていなかったようで,「ごめんなさい」と頭を下げてすぐわきを通り抜けようとした。
「あのう,・・・・・・ここですか?」
女性は立ち止まり,ハッと目を開けた。
何を言っているんだおれは。こんな薄暗いところで見知らぬ男に声をかけられたら驚かれるに決まっている。それに,「ここですか」って何なんだ。でも,ここが何なのかいまいち分かっていないのだから,他に何とも言いようがなかった。
「この部屋に用があるのですね。あなたも過去に戻りたいんですか? 生きていたらいろいろありますもんね。でも,絶対に幸せになれますよ! さあ,決別してきてください!」
思いもよらず明るいトーンで返され,すぐには何も言い返せなかった。目の前の部屋から出てきた女性は,真夏に海を泳ぐサンタクロースのように,陰鬱なこの空間と釣り合わないまばゆい表情をしていた。
「決別? この部屋は過去と決別をするところなんですか?」
頭の中で怪しい宗教がよぎった。心によりどころを求めた人に付け込んで洗脳する教祖。そんな人がこの中にいて,搾取しようとしている。あからさまに悪い絵が頭の中で描き出された。
「私があれこれ言っても仕方ありません。答えはあなたの中にしかないのだから。それを,その答えを明確にしてくれるのがこの部屋です。大丈夫ですよ。現在は変わりませんから。私たちにできるのは,これからの未来を作ることだけです」
「それでは」と片手を挙げて,女性は階段降りていった。長いスカートを揺らしながらステップを踏むようにリズムを刻みながら消えていく姿は,やっぱりこの場にふさわしくなかった。
決別? 未来をつくる?
この部屋で一体何が起こるというのか。たまたまネットニュースで目に入った情報に興味本位で近づいただけなのだが,なんだかとんでもない場所に連れてこられたような気がした。
ただ,さっき会った女性は幸せそうな顔をしていた。
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