第参話
「率直に尋ねるが――」
橋姫誠が口を開いた。彼こそ、魔術連盟における最高権力者と呼ばれるべき人間、神たる玉鬘綾女に次ぐナンバーツーであり、同時にシャーロック・ホームズの兄、マイクロフト・ホームズの再来でもある。表向きは何ら特別な地位にいないことになっているが。
「君はナイアルラトホテップそのものなのか?」
その視線の先には、奈以亜瑠羅少佐が座っていた。仮面は未だ着けていなかったが、眼は二つだけだったし、燃え上がってもいなかった。尤も、虹彩は鮮やかな赤色をしていたが。
「いいや違う。私はこの小娘が言うところの『最も本体に近い化身』だ。尤も今はこの小娘と同化しているから、小娘が嘘を吐いていたという訳ではない」
瑠羅の声は、相変わらず壮年の男性のそれだった。目を瞑って聞けば低くて渋い素敵なダンディボイスなのだが、未成年と言われても信じられるような容姿の女から発せられているという状況のせいで、さほど魅力には感じない、というのが誠の警護のために傍で見守っている玉鬘椿大尉の感想だった。
同じ女性ながら、思わず見蕩れるほどの美しさ。噂の傷は存在せず、顔を隠していた理由がその眼にあることは今や明白だった。
そんなことを考える椿をよそに、誠は少し困った様子で息を吐いた。
「では、現状の君を、普段の奈以亜少佐と区別して呼称したい場合、何と呼べば良いのかね?」
「私に名前はないが、この小娘は私を『ホテップ』と呼んでいる」
「奈以亜瑠羅とホテップ、ナイアルラトホテップというわけだな」
「そうらしい。下らん」
ホテップは忌々しげに吐き捨てた。
「そうでもないと思うがね。そちらではどうだか知らないが、この星の神秘は名前に多大な影響を受ける」
誠は静かに言った。ホテップは何も応えなかった。
「……では次の質問だ。何故、奈以亜少佐は復活しないのだ? 不死身に近いと認識していたが」
「不死の人間というものは存在し得ない。死人を生き返らせるには奇跡が要る。この身で行うとなると、最後に取り込んだ命を代償として奇跡を起こすことになる。現段階ではあの吸血鬼だ。しかし、アレの持つ力は有用だ。利用価値のある存在だ。だからそれを消費することはしない。他に適当な、どうでもいいモノを殺した折に生き返らせる。それまでは私が代わりを務めよう」
「融通が利くものではないのだな」
「当然だ。所詮人間の力だからな」
「邪神の力で生き返らせることは出来ないのか?」
「本体に出来るのは、化身を送り込むことのみ。それ以上の干渉は不可能だ。この星に神秘が残っているうちは、という前提条件付きだが」
誠は溜息を吐いた。
「我々としては、無理に生き返って貰わなくても構わないのだが」
「この身は本体がこの星へ干渉出来る環境を作るために必要な手駒だ。そしてあの小娘の意識は、奈以亜瑠羅は、本体にそれを任された、謂わば特使だ。必ず生き返らせる。邪魔をするというのなら――」
ホテップが立ち上がる。いつの間にかその右手にはM14と呼ばれる小銃が握られていた。そのまま振り上げれば机にぶつかるような長い銃身を持つそれを、器用に回転させるように持ち替え、机を挟んだ反対側に座した誠の顔へ向けた。
椿はその異様な速度に驚愕させられながらも、自らの銃をホテップへ突き付けた。警護対象の危険と判断して発砲しようと考えたが、当の誠が手で制したので、向けるのみに留めていた。
「――この場で貴様を殺して生き返らせても善いのだぞ」
ホテップが凄んだ。心做しか眼の輝きが強まったように椿は感じた。この任務を命じられるに際してナイアルラトホテップについて、そして奈以亜瑠羅少佐の持つ特殊能力について説明を受けていた椿としては、必要以上に相手を怒らせるような真似はして欲しくなかった。護れる自信は微塵もないのだから。
「言葉が悪かった。謝罪しよう。現状で十分戦えることが分かっているから、無理して急いで生き返らせる必要は感じていない、という意味であって、生き返って欲しくないということではなかった。……では、後で適当な任を与えよう。それでいいな?」
誠は落ち着き払って言った。
「これだから政治家という奴は……まあ善い」
ホテップは銃を降ろした。椿はひっそりと胸を撫で下ろした。
「では次だ。何故死ぬことを選んだ?」
誠は何事もなかったかのように再開した。ホテップもまた、何もなかったかのように応えた。
「この小娘曰く、空蝉郁花を死なせた償いだそうだ。自分も死ぬから許せと」
「それについてはやむを得なかったと聞いている。許すも何もない」
「では、吸血鬼退治の報酬は予定通り受け取れるものと考えても善いのだな?」
ホテップの声音が変わった。これが今回の聞き取りに応じた理由か、と椿は納得した。
恐らく、奈以亜瑠羅少佐は、その報酬というのを手に入れることを何より重視している。
「二階級特進か」
「そうだ。それが殉職者の特権でないことを思い出して貰わねばならんか?」
誠は頭を振った。
「約束は、約束だ。例えそこにどんな思惑があったとしても、それをこちらの都合で違えることはしない。加えて、貴官はこの地域における大半の神衛隊員の敵を討ったとも言える。誰が反対するものか」
「そうか」
言葉は端的だったが、表情が満足を物語っていた。
「しかし、空蝉郁花少将の後釜に据えるかどうかは私の一存では決められない。それは構わないな?」
「寧ろ据えないで貰いたいが」
誠は少し驚いたようだった。椿もやや驚いた。それが目的なのだろうと思っていたから。
「こちらはあの城を拠点として行動する。その方針を変えるつもりはない。代わりと言っては何だが、この度全滅した隊員を補充、増強したい。規模は大隊を所望する。だが人間は三人で十分だ。それはこちらで選出する」
「精鋭部隊というわけか?」
「そうだ。忠実な精鋭を育てる」
「……人事を私の一存で決めることはしたくない。が、希望通りになるよう取り図ろう」
「結構。では次の指示を待つことにする」
ホテップは颯爽と立ち上がり、机の影に溶けるようにして消えた。
「………」
「………」
沈黙が場を支配していた。研ぎ澄まされた感覚が、既にこの部屋に奈以亜瑠羅とホテップがいないことを伝えてきたが、あまり信じる気になれなかった。
「……大尉、ご苦労だった。下がっていい」
やがて、誠が口を開いた。
椿は敬礼で応え、彼の執務室を後にした。
椿が部屋に戻ると、優里が待っていた。
「おかえりなさい、お姉様」
「ただいま、優里」
二人に血の繋がりはない。学生時代に疑似姉妹の契を交わしたという間柄だ。その関係は椿が卒業したからと言って解消されることはなく、優里は高校へ通いながら白狐の仕事もするというハードワークをこなしている。
自分より忙しいはずの優里がわざわざ待ってくれていたというだけで、愛しさで胸が一杯になる。
「ご飯と、お風呂、ベッドの用意は出来てます。わたしの準備は、ちょっと待っててください」
風呂場に向かった優里を見送りながら、自分の所属のことを思う。軍でなくて本当によかった、と。
公安組織としては有り得ないほど、神衛隊は自由度が高い。週二日の当直でさえなければ、あとは非番である。勿論何かあれば非常呼集をかけられるわけだが、転移魔術が使えるのであれば、遠くにいたって関係ない。
こういう言い方をすると気楽な仕事に思えるかもしれないが、現在時刻は深夜一時になろうというところである。吸血鬼退治の報が入ってきたのが二十三時半頃、誠氏に呼ばれたのがその三十分後。ホテップとの面談でまた三十分程使って、ようやく帰ってこられたというわけだ。
やり残したことといえば、食事、入浴、睡眠のみだ。なので、脳を仕事モードから切り替え、優里を追って浴室へ向かおうとした。
そこで、目に入った。目を疑うようなそれが。
浴室より向こうの廊下、その床の上。居間からの明かりが遮られた影から、人影が這い出てきている。紅い人影が。
「玉鬘、椿大尉だな?」
常識的に有り得ない方法で不法侵入を果たしたホテップが、脚を影から引き抜きながら尋ねた。姿だけでは瑠羅かホテップか見分けがつかないが、一言声を発してくれれば簡単だ。
「……私が玉鬘椿ですが、何か」
帆吹とかいう警部に訪ねられた時と文言こそ同じだったが、あの時のような力強さはなく、寧ろなるべく刺激しないようにと注意を払うような声だった。
「フッ、そう怯えるな。銃を持っている訳ではない」
「……信用出来ません。貴方は何もない所から魔術なしに銃を取り出せるはずです」
椿としては騙そうとしても無駄だと遠回しに言ったつもりだったが、ホテップは愉快そうに、或いは思惑通りだと言うように赤い目を細めた。
「それを知っているということは、やはり貴様が先程の白狐か」
「――ッ!」
嵌められた。気が付いた時にはもう遅い。
普段から白狐面を付けている訳ではない椿でも、任務に従事している時は当然着用している。
何の任務に誰が参加したか、ということも機密情報なのだ。カマをかけられ、見事に引っ掛かってしまった。
「経験が浅過ぎるな。己が口にする事柄を誰が知っているのか、よく考えて会話することだ」
顔から火が出る思いだった。そもそも椿の隊は新人のお守りを任されているものだ。それ以前の活動を認められて任命された小隊長という役職にありながら、経験の浅さを指摘されるのは口惜しかった。だが、反論出来る余地はない。まんまと引っ掛かったのは自分だし、奈以亜瑠羅少佐よりも断然経験が浅い。
「……何かご用ならお早めにどうぞ。あまり優里を待たせたくありませんので」
「恋人か? 似合いだな」
そう言いながらホテップはコートのポケットから一枚の封筒を取り出し、椿に手渡した。赤い蝋で封じてあり、滅茶苦茶に一筆書きしたような線の紋様が押されていた。
椿はその紋様が、瑠羅の義手の甲に施されている装飾と同じだと気付いていた。恐らくは瑠羅のサインか、ナイアルラトホテップのサインかのどちらかだろうと思ったが、詳しく知ることは良くないと教わっていたので、敢えて尋ねることはしなかった。
「これをあの男に渡せ。だが明日でいい」
そう言うと、ホテップは来たときと同じ影の中に飛び込むようにして消えた。
封筒を制服のポケットにしまい、今度こそ風呂場へ行こうと目をやると、優里がこちらを伺っていた。どうやらホテップの声が聞こえていたらしい。困惑しきった顔をしている。さもありなん、知人が全く知らない声で話していたら困惑するのは当然であろう。
「……今のって、奈以亜少佐、ですよね?」
「うん。奈以亜少佐の現状に関しては機密レベル5に指定されているから、そこのところよろしくね」
「はい!」
迷いのない返答。それでこそ白狐である。二人での活動を始めた頃を思い出して、少し懐かしくなる。
椿は微笑み、優里のもとへ歩み寄ると、ゆっくりと唇を重ねた。
「さて、仕事の時間だ」
ホテップが呟いた。
誠は迅速に行動した。現段階で確認されているものの緊急性は高くない、つまり大した力も害もないと見られている敵性達のうち一体の討伐を、権力に物を言わせる形で奈以亜瑠羅少佐に命じたのである。
その敵性は、ヒトの形をしていた。というより、おおよそヒトだった。
そんなものが何故敵性なのか、ホテップは知らない。興味もない。本当はただの人でした、と言われたとしても、一切意に介さず殺す。そこに間違いはない。どんな人間の命より、彼にとっては、この体にあるべき命が、奈以亜瑠羅の命が大切なのだ。
他人に成り変わるしか能のない化身が、その力を以て最強の化身になったことを彼は喜ばしく思っていた。そして、彼女であればいつか本体の目的を達することも可能であると考えるに至っていた。
その彼女をこの身に戻すためなら、その他の命などどうでもいい。命の価値は平等ではないのだ。
小銃を取り出し、突き付ける。
「こんばんは、お嬢さん。そしてさようなら」
引き金を引く。昨日の瑠羅の様に吹き飛ぶ頭。傷口から溢れ出す、虫か触手のような夥しい数の物体。
「寄生する類いの魔物か。なるほど」
呟くように嘲笑すると、躊躇なくそれを踏み付けた。その行為に意味はない。一つ一つはあまりに弱く、踏めばそれだけで死んでしまう。だが、数が多すぎて一々踏んではキリがない。故に、これはただの加虐性の発露である。
「鬱陶しいな」
呟きと同時に、足元に魔術陣が現れる。それは瑠羅が元々使えたものではない。殺して奪った力である。
燃え上がる敵性。実は火には強かった、などということもない。呆気なく数多の命が消えてゆく。焔は敵性の全てを焼き尽くした後、自然では有り得ないような消え方をした。
そのあとに残されていたのは、一人の女。
「ご苦労様。手間をかけさせたね、ホテップ」
眼の赤色が消える。真紅の仮面が着け直される。
何もかも、以前のままの奈以亜瑠羅だった。
瑠羅は己が拠点としている城の方へ顔を向けた。
「……城の方にお客さんらしい。早く帰っておもてなししなきゃねえ」
そう言う瑠羅の口元は、楽しそうに笑いを浮かべていた。
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