第陸話

 翌日。

 人の寄り付かない空蝉邸に、珍しく来客があった。

 客は神秘防衛隊の制服を着ていたが、その色は真紅に変えられており、下衣はミニスカートになっていて、その上からやはり真紅のロングコートを羽織っていた。

 それが誰かなど、もはや言うまでもない。

「神秘防衛隊所属、奈以亜瑠羅少佐です」

「空蝉家当主、空蝉智弘ともひろです」

 瑠羅は軍隊式の敬礼、智弘は普通の礼で挨拶を交わした。智弘に勧められ、瑠羅は着席する。縁側のある庭に面した部屋で、窓は大きく開けられていた。彼らしい用心だと、瑠羅は思った。

 智弘は五十代半ばを過ぎたくらいの年頃で、いかにも厳格そうな顔つきであった。痩せこけているように見えて、その実かなりの力を持っていることを、瑠羅は見て取った。一切何の能力も使っていない状態の瑠羅なら、軽々と投げ飛ばされるだろう。

「この度は誠にご愁傷様でした」

 瑠羅は沈痛声で言った。

「貴女が郁花に止めを刺してくださったとか」

「……お耳が早いですね。吸血鬼に噛まれた彼女の尊厳を守るには、そうするより他にありませんでした」

「橋姫氏が、手紙で知らせてくれたのです」

 余計なことを言うな、と心の中で悪態をつく。橋姫誠に文句を言ってただで済まされる立場にあるとは思っていないので、あくまで心の中でのみだ。

 それならそれでやりようはある。

「しかし」

 瑠羅は再び口を開いた。

「郁花を吸血鬼に噛ませたのは私達わたしです。それに、そもそも吸血鬼をこの街に誘い込んだのも私達わたしです」

 智弘の纏う空気が変わった。一気に場が冷え込んだかのような錯覚に陥る。

「それは、どういうことですか」

「言った通りですよ」

 徐ろに立ち上がり、庭に降りる。見る者を不安にさせる笑顔と共に。

「それから、八年前に次男の大樹さんを殺したのも私達わたしですし、先日ご長男の司さんを殺したのもやはり、私達わたしです」

「貴様、何者だ。何故そのようなことを」

 智弘が睨むが、瑠羅は動じない。

「おや、分かりませんか。まあ長いこと会っていませんからねえ」

 瑠羅の笑みが一層深くなった。

「では逆に尋ねましょう。今までの話で、私達わたしが殺していないのは誰でしょうか」

「……そんな筈はない。死んだ筈だ。八年前に」

 瑠羅は仮面に左手をかけた。

私達わたしが常に仮面をしている理由を教えてあげましょう。いえ、理由の一つ、ですが」

 左手を離す。仮面は手に吸い付くようにして外れる。

 その下には、黒縞瑪瑙ブラックオニキスの如き漆黒の目。瑠羅が、最も美しいと思っている女性のそれとそっくり同じ目。

「……知花ともか。いや、茉莉花か」

「そう、私達わたしは茉莉花です。貴方の遺伝子を極力排除したのでこういう顔ですけれど」

 そういう瑠羅――空蝉茉莉花――の顔は、亡き母と瓜二つだった。だから、郁花も最期の時に、眼前の女の正体が分かったのだ。あまりにも母に似ていると。

「……この手で殺しておくべきだった」

 智弘は苦々しげに言った。

「そうしていたら、郁花を産ませることは出来なかったでしょう。お母様は私達わたしの安全を貴方が確約したから家に留まっていた、ということを忘れないで貰いたいですね。まあ、私達わたしをこんな風に産んだ責任も感じてはいたでしょうが」

 茉莉花は右側の袖を捲くって見せた。無論、義手である。彼女の右腕は生まれつきなかったのだから。

「復讐というわけか」

「心当たりはお有りのようで、なによりです」

 茉莉花は右手の手袋を外した。銀色の義手が顕になる。その手の甲には、智弘が見たこともないだろう独特の印が刻まれていた。

「空蝉家の魔術は右腕に受け継がれる。なのに『邪神には届く』と予言されて生まれた子供に、肝心の右腕がない。無かったことにしたい貴方の気持ちは分かります。五体満足で、いいえ、右腕を付けて産ませられなかったお母様に怒るのも分かります。しかし、郁花にその才能がなかったからといって、お母様を死なせることはありませんでしたね」

 そもそも、と茉莉花は続ける。声色が変わる。茉莉花人の娘のものから瑠羅本来のものへと。

「あの予言に対して『邪神でも神には違いない』とか、まるで狂気だ。実際あの頃の貴方は狂っていたんだろう。そんなだから、私達わたしがこうなったんだ。つまり、全部貴方が悪い。お分かり?」

 瑠羅は握った右手を智弘に向けた。

「貴方は魔術師・空蝉茉莉花としてではなく、邪神の化身・奈以亜瑠羅として殺す。自分が何を生み出したのか、よく思い知るといい」

 右手を開く。魔術陣が展開され、高濃度の魔力弾が発射される。かなりの高速ではあったが、智弘に届く前に庭の地面から盛り上がった土によって防がれた。

「物体を操る魔術は、その物体と術者の魔力がどれほど馴染んでいるかによってどれだけ洗練された動きが出来るかが変わる。そしてこの庭は俺の魔力を四十年も吸っている土で出来ている。魔術師として未熟な貴様が、この場で魔術戦をしようとしたのが愚かだったな」

 智弘の言葉と共に、地面が槍のように突き出される。茉莉花の太腿に突き刺さり、動きが封じられる。間髪入れずに頭部へ打撃。

 智弘は眉を顰めた。手応えがない。変形した大地は茉莉花の眼前で停止している。

「言ったでしょ。魔術師としてではなく、邪神の化身として貴方を殺すと」

 土の槌に罅が入る。

「貴方の願いはあの予言を確かなものにした。私達わたしは邪神の化身として生を受けた。しかし、貴方は知らないだろう。私達わたしが如何なる邪神なのか」

 罅が大きくなる。所々欠け始め、土塊となって落ちていく。

私達わたしはクトゥルー神話体系における邪神の一柱だ。クトゥルー神話はH. P. ラブクラフトによって生み出されたが、彼の死後A. ダーレスによって体系付けられた。その際彼は或る四つの神性に、四大元素を当て嵌めた。クトゥグアに火を、クトゥルーに水を、ハスターに風を、そしてナイアルラトホテップに土を」

 罅割がますます大きく深くなり、遂には音を立てて崩壊した。

「ナイアルラトホテップ……奈以亜瑠羅!」

「その通り。私達わたしは土を司ることに神性だ。たかが魔術で、私達わたしの権能に勝てると思わない方がいい」

 そう言う茉莉花の顔は、漆黒の闇だった。ただ三つに分かれた燃え上がる眼だけが、その顔に浮かんでいた。

 太陽が消える。明かりが消える。真昼間であるにも関わらず、辺りには完全な闇が立ち込めた。

 智弘が酷く当惑しているのが分かった。茉莉花はほくそ笑むが、その表情の変化は、たかがヒトでしかない智弘には分かるまい。茉莉花の結界の中では、光の存在は許されない。彼女の眼から放たれる僅かなもの以外は。当然、光でものを見るヒトが、何かを見ることは不可能だ。

「つまり、元より土を司る権能があるんだから、右腕は要らなかった。貴方がそれを知らなかっただけで」

 本人にも理屈は分からないが、口が無くても声は出る。それまでの調子を崩すことなく、淡々と茉莉花は言葉を紡ぐ。

「貴方が私達わたしをこんな風にし、お母様を苦しめ、郁花を苦悩させたんだ。その代償は負って貰おう」

 腰の剣を抜く。黒い刃が煌めく。

 次いで、顔が元に戻った。眼は赤いままだが。これ以上邪神に近付いてしまっては、一瞥しただけで発狂させてしまう。人によってはこちらを見ただけで発狂してしまうのだから。それでは復讐にならない。邪神の何たるかを見せるために『燃える三眼』を開放したが、実際に戦うならこの程度に抑えておかなければ危険だ。

 顔が戻るのと同時に、周囲にも明かりが戻った。しかし、依然として太陽は消えたままだった。

 智弘は庭に降り、手を地面に向けた。大地から剣が生み出され、智弘の手に収まる。

「アハ、そうこなくっちゃ」

 茉莉花は歓喜の笑みを浮かべ、飛ぶように駆け出した。

 ぶつかり合う二振りの剣。茉莉花としては驚くべきことに智弘の剣技は見事というほかなく、腕力もまた申し分なかった。感覚的に剣を振るう茉莉花と違い、無駄のない洗練された動きで茉莉花の剣を捌く。流石に次々と繰り出される剣戟から攻勢に転じることは難しいようだが、油断や手加減は出来そうもない。

 茉莉花は左手にもう一振りの剣を創造した。手に入れたばかりの、玲の力。流れるような動きで投擲するが、やはり弾かれ、大地に突き刺さった。

 もう片方も投げる。同時に先程投げた方に左手を向けると、突き刺さった剣が抜け、再び智弘に向けて飛んだ。

 だが、尚も智弘は弾き返した。二本とも。大概は弾いた剣がまた襲ってくることで一度は驚かすことが出来るのだが、今回は茉莉花が驚かされることになった。

 抜けない。地面に突き刺さった剣が、どちらも動かせないのだ。

「その能力は大したものだ。だが、パワーが足りていない。どのような能力か分かってさえしまえば、捕らえておけばいいだけだ」

 智弘の言葉を聞いて、茉莉花は舌打ちした。智弘の言うことが、紛れもなく事実だから。確かに、投げたものが再びその手に収まるまで自在に操ることが出来る。だが、せいぜいヒトの標準的な腕力程度の力しか出せない。それ以上の力で押さえつけられてしまっては、全く太刀打ち出来ない。

 認めなければなるまい。茉莉花は智弘を侮っていた。或いは、己の力を過信していた。恐らくはそのどちらもだろう。

 だから、茉莉花としては不本意だった。ここでそれを使うことは。

 茉莉花の額に第三の目が開く。光彩が赤く輝く。ヒトの顔を残しながら「三つに分かれた」眼が再現される。

 これこそ茉莉花の切り札。或いは邪神の化身、奈以亜瑠羅の完成形とも言える姿だった。

 速いなどという言葉では足りない程の速さで、智弘の眼前に飛び込む。

 新たに手にした剣の刃が金色に輝く。

 猛然と振るわれた剣を防ぐべくして翳された智弘の剣諸共、その右腕を斬り落とす。智弘が驚くだけの時間も与えず、屋敷へ向けて蹴り飛ばした。

 自らの手で智弘を討ち取るためなら、どんな力でも使う覚悟があった。不本意だろうが躊躇わずにこの姿をとったのもそのためだ。あくまでも復讐なので、なるべく長く苦しんだ末に死んでくれればなお良いが、今回の場合それは高望みというものだろう。いつまでも時間をかけていては、あの夢見川瑠依とかいう巫山戯た奴にその機会を永遠に奪われかねない。

 そうと決まれば行動は速やかだった。

 吹き飛んだ智弘のもとへ滑るような軽やかさで近付くと、その頭蓋を目掛けて黄金の剣を振り下ろす。直前で突然隆起した大地に阻まれ一瞬止まった剣を掻い潜るように避けた智弘を、再び激しく蹴りつけた。

 もう肋も大概折れている、どころか殆ど粉砕されていてもおかしくないだろうというのに、智弘は尚も立ち上がり、今度は左手に剣を手にした。

 だが、その動きは緩慢だった。最早状況を引っ繰り返す手段の無いことは、誰の目にも明らかである。それほどまでに、完成形の奈以亜瑠羅の強さは圧倒的だった。

「この力は、貴方を倒すために私達わたしの人生の殆どを費やして磨き上げたものだ。これならば人間の世界を支配することだってそう難しくはない、と思えるような状態になるまでずっと研鑽し続けてきた。これなら通用するようで安心したよ。貴方はまだ人間だった」

 だから、殺せる。

 人間はいつか死ぬべき生き物だ。いつかは滅ぼしてもいいし、或いは支配下に置いてもいい生き物だ。

 それなら事は単純だ。強者が弱者を滅ぼす。それだけのこと。そこに良心の介在する余地はないし、誰かがそれを止める権利もない。

「貴方より強大な敵を得てしまった以上、貴方くらいはこの力無しに始末したかったところだが……そう上手くいくものではないな。私達わたしが思っていたより何倍も貴方は強かった。それを早いうちに私達わたしに示したことが、そして私達わたしにこの力を使わせる決心をさせたことが、貴方の敗因だ」

 逃走を試みた智弘の脚を斬る。続いて左手を。

 呻き声を上げる智弘を、茉莉花は燃え上がる目で見つめた。

 右腕の半分が残っている以上、魔術は使えるはずだ。というより、そうでなければ左手に剣を持つことは出来なかった。だが、その気ももう無いらしい。

 ずっと殺すことを夢見ていた相手が、今や瀕死の状態で目の前に転がっている。だが、そこに愉悦は生まれない。ただ、為すべきことを為す。

 剣を大きく振り上げる。

 両者沈黙。最早、一切の言葉は必要なかった。

 そして、全てが終わった。


「茉莉花ちゃんがいつも仮面を着けているのには三つ理由がある」

 瑠依は紙巻を灰皿に押し付けながら言った。

「一つ目は彼女の身内から正体を隠すため。二つ目は仮面に描いた旧神の印で邪神の力を抑えるため。そして三つ目は、僕とそっくりの目を世間から隠すためだ」

 二人の聞き手は、どちらも何も言わなかった。

「瑠璃子と知花は異母姉妹で、顔は殆ど似ていない。ただ唯一目元だけがそっくりだった。昔調べたところによると、どうやら父方の祖母に似たらしい。そして茉莉花ちゃんは母親と瓜二つの顔をしている。だから僕とも目元だけはあまりにも似ている。ひょっとしたら誰かが僕と茉莉花ちゃんとの血縁に気が付くかもしれない。そういうリスクを避けるためにも彼女には仮面を着けて貰っている」

「……何故急にそんな話を?」

 雅義が口を開いた。

「さっき、茉莉花ちゃんが仮面を外した。まぁまず父親は死んだね」

「復讐を果たした、というわけか」

「そ。知花が生きていれば、泣いて喜んだだろうに」

「しかし、母親が生きていれば復讐はしなかっただろうと思いますよ」

 右目を閉じた橋姫紫音が、パイプを燻らせながら言った。シャーロック・ホームズの再来であり、白狐の一員でありながらも探偵という特殊な職業柄、情報部とも関わりが深く、例外的に『アメジスト』というコードネームを付けられている。ここは彼女の部屋だが、同居人であり『シトリン』という名を与えられたワトソン博士の再来は不在である。

 瑠依は煙草をもう一本咥えると、ポケットから取り出した黒いジッポーで火をつけた。

「どうかな。知花が死ぬ前からその気は一応あったみたいだけど」

 紫音は肩を竦めた。

「当時の彼女には他に生きる理由が無かったのですから、そういうこともあるでしょう。しかし、今の彼女は違う」

「確かにね」

「彼女は明確にナイアルラトホテップの『最も本体に近い化身』です。旧神の印で幾らか抑えているように見えて、実際のところは我々にそう思わせる為に大人しくしているだけかもしれない。邪神の顕現の為なら手段も選ばないでしょう。貴女と違って」

 紫音はサラリと言った。その言葉の持つ意味を知らない子供のように。

「おや、気付いていたのかい?」

「初めて会った時、貴女に右眼を使うなと左眼から警告がありました。つまり、貴女の正体を解析しては正気を失うと。そんなことを見せられたのは、彼女と初めて会った時以外ありませんでした。そこから貴女も同類だと推理したわけです」

 正体を見たくらいで狂気に落とすレベルの邪神で、かつ人の姿をしている者などナイアルラトホテップの他にはいない。他のモノは皆分かりやすく怪物の姿をしているのだから。

「まあ、この話はやめておきましょう。私まで焼かれては困ります」

 紫音は戯けるように言った。

「しかし、一点お尋ねしたいことがあります」

「というと?」

「貴女の目的は何ですか?」

 直前と一転、紫音の目が鋭く輝いた。同時に、瑠依の目も。部屋中の空気が糸のように張り詰めた。

「それは、聞いても大丈夫なのかい?」

「左眼は依然として機能しています。ご心配なく」

 瑠依は溜息を吐いた。

「……話そうと思えば話せるけど、やっぱりやめておこう。必要以上に知る人物がいると、その分漏洩もしやすくなる」

 敵には知られたくない。そう続けて答えると、紫音は黙った。納得はしていないが、取り敢えず追及するのはやめておく、というところだ。或いは追及すべきでないと左眼が告げたか。

 彼女の立場からすれば、訊きたいことはまだいくらでもあるだろう。例えば、その目的が魔術連盟の利となるのか。人類にとってはどうか。瑠依が知られたくないと言う「敵」とは何者を指すのか。

 瑠依としても、それは答えたくなかった。雅義にすら、全てを話したわけではない。罪悪感を覚えない自らの性質が、この件に限っては非常に役に立った。

「これから忙しくなる。我々は失礼するよ」

 瑠依がそう言って席を立つと、紫音は無言で見送った。

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根本的に人でなし 竜山藍音 @Aoto_dazai036

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